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「増訂豆州志稿」の後述に「大仙山本城南北5間、東西3間、二丸南北5間、東西8間、同東西8間南北4間、城下から二の丸大手まで7町20間、同じく裏口まで5町20間」とあります。
この記述の数値をメートル法に概略換算してみると以下のようになります。「大仙山本城は南北9m、東西5.4m、二丸南北9m、東西14.4m、同東西14.4m南北7.2mとあり城下から二の丸大手まで829m、同じく裏口まで561m」ということになります。
「図説、駿河伊豆の城(郷土出版)」に、「昭和40年代までは土塁や空堀、曲輪跡などが確認できた。」という記述を信じて、地形の分析と本人の思い込みを足して2で割った結果、この山には絶対に別の城郭遺構があると勝手に思い込み、山中をかなりの時間彷徨った結果、「つ・つ・ついに見つけちゃいました。(笑)」
最初に、曲輪1〜bP堀切〜曲輪2(腰曲輪複数を含む。)〜bQ堀切(二重堀切)〜曲輪3(長土塁を確認)この曲輪3の長土塁はかなり長く伸びていたが、単独行であり地図もコンパスも携行していないので次回に期することにした。
おそらく戦国期の遺構と思われ、西原源太宛の北条氏忠感状にある「西原小屋」に該当する遺構ではなかろうか。
【写真左】 bP堀切、この堀切の左側に削平の甘い曲輪があり、右側はかなり手の入った曲輪と腰曲輪が数段確認できた。
【写真中】 bQ堀切(二重堀切)、この堀切の左側に片堀切1条が確認できた。堀と堀の間隔が4m〜5mほどあるので二重堀切とした。この右手にも更に曲輪がある。堀切左側中央部には虎口らしき開口部も確認できた。
【写真右】 bQ堀切右側の曲輪3にある長土塁遺構、この先を探索したが藪の中で歩数を数え忘れてしまったが、30m以上は続いており途中で直角に近い角度で左に折れていた。これ以上前進すると遭難の危うき目に合うかもと判断して帰路につくことにした。
おわり
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