【親記事】
【番外編】街道を歩く。(その3)
鬼丸 : 2012/11/05(Mon) 19:17
No.102
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(現地案内板より)
この大柊は天正10年6月2日、京都本能寺の変で討死した信長の首を、囲碁の名人と言われた本因坊日海の指示により原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し信長の首を、ここ駿河の当山に納め首塚を築き柊を植えたものであります。108代後水尾天皇の御息女・常子内親王の厚い御帰依を得られた当山中興の祖、18代日順上人は原家の御出身であられ御自筆の内過去帳に本因坊日海、織田信長の法号を記し手厚く御回向されておりました。
なんともミステリアスなお話でございます。ちなみに【写真右】の手前には、フィギアスケートの「織田信成」氏の名で小さな柊が植えられていた。
明智光秀の最大の誤算は信長の遺体を発見できなかったことに尽きるだろう。信長が生きていたらと常に恐怖に怯え結局、山崎の合戦で敗死してしまう。
織田信長は甲斐の武田勝頼を天目山に自刃させた後、帰路の途中この周辺で徳川家康の接待を受けてしばらく滞在したといわれる。 その時に「わしが死んだら富士のこの地に埋葬してくれ・・」と言ったとか言わないとか。
【写真左】 本堂左脇にある首塚への入り口を示す石碑
【写真中】 首塚の石碑と奥はこのお寺の宝蔵庫、刀剣類はないようだ。
【写真右】 「織田信長公首塚」と大柊の木、柊は大分弱って樹木医の手当あとが痛々しい。 信長公の首塚伝説は、ここ以外に関西方面にもう一か所あるという。
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