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中世城郭紀行

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【親記事】
【第4回オフ会(その2)】(徳願寺山城〜丸子城)
鬼丸 : 2012/12/02(Sun) 09:23 No.106

花散里さん、その後の筋肉痛はどうでしょうか?攻城は一日一城と決めていましたので、今回は私もかなりハードでした。持病の神経痛が悪化して整骨院通いです。(笑)

>民家や畑の脇を通り結構な急坂を登って行ったのは。

その畑の脇、実は古墳群だったんですよ。当日私の足が止まった理由はそれでございます。

【地図】
静岡県静岡市駿河区向敷地

http://www.mapion.co.jp/m/34.959517_138.351611_8/?wgs=1

【写真左】(徳願寺山城遠望)

徳願寺山城は、最近まで「謎の城」とされていましたが、徳願寺南麓部分が土地区画整理事業により静岡市教育委員会が発掘調査の行った結果、古墳時代後期の6世紀後半頃から造られ8世紀初頭までの横穴式石室を伴う群集墳(円墳や方墳など。)が発見された。なおこの古墳からは銀象嵌大刀鍔などの刀装具など夥しい遺物が発掘されている。

同時に城郭の堀跡や石積のある曲輪跡が発見され、それをきっかけに背後の山を探索の結果、裏山自体が広大な城郭であることが確認された。写真の道すがら、両脇に小石が多数積まれていたが、おそらく石室内部の玄室に敷設されたものではないだろうかと一人妄想にふける。

【写真中】
徳願寺東側にある「大段」という地名の場所、削平された痕跡があるので、おそらくここも城跡の一部では?この場所の右側あたりで堀跡や石積の曲輪跡が発見されている。

【写真右】
徳願寺は遠い昔、駿河七観音の一つ「大窪寺(だいあじ)」であったことが『駿河志料』や『駿河記』という古記録に所載されている。時代下がり室町時代に中腹に移され名称を「得願寺」と名前を変え、また今川義忠夫人北川殿の菩提寺として現在に至っている。

単独表示 徳願寺山城全景.jpg 単独表示 徳願寺裾部.jpg 単独表示 徳願寺本堂.jpg
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Re: 【第4回オフ会(その2)】(徳願寺山城〜丸子城)
花散里 : 2012/12/08(Sat) 11:49 No.107

日ごろ鍛えている鬼丸さんがハードと言う状況で、私が平然としていられるわけもなく(^^ゞ
「そのうち終わる、いつかは終わる」と念じながら、歩いていましたよ(^_^;)
地獄に落とされたら、これ以上の苦しみが未来永劫に続くわけですから、「悪いことはしちゃいけない」と決心しました(^^)

徳願寺への道のりで、周囲が古墳群だとは思いもよりませんでした。
私の拙い知識で、寺院は仮の城塞、という認識がありましたので、寺≒城くらいには思っていましたが、まさか古墳までとは・・・
寺にしろ、城塞にしろ、古墳にしろ、それぞれの時代の人々にとって重要な土地柄だったんですね。
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