【親記事】
【第4回オフ会(その3)】(徳願寺山城〜丸子城)
鬼丸 : 2012/12/24(Mon) 15:31
No.108
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文献も伝承も伝わっていない徳願寺山城の機能していた時代を前日開催されたシンポジウムでデスカッションが行われ、古い順に、南北朝期、永享期、文明期、天文期、永禄期といくつかの時代に意見が分かれて活発な意見交換が行われた。
実際に現地を歩いてみた感想は、徳願寺周辺の麓部分の城郭遺構と山頂付近に展開する遺構とでは山頂部の遺構群の方が何となく古い感じの印象を持った。山頂部北端に二重堀切りがあるが、堀と堀との間隔が間遠いのに違和感をもつ。
敵兵の動線遮断のために造られたものだろうと推測できるが、この二重堀を制する北曲輪とそれに付随する二重堀前面の腰曲輪との距離が不自然であり、弓矢や石の投擲距離などで援護射撃するには少し遠いように思え、攻城兵に行動の自由を与えてしまう恐れがあるように感じた。このような不連続と思える二条堀切の型式は南北朝期の城に時折見られるそうだ。
山頂部は仏平と称される平坦地があり、ここを本曲輪として南側に少し下った場所に長大な堀切が見られる。堀切の傾斜変換点から竪堀に変化をみせ、麓まで続くような見応えのある堀切である。 堀幅や遺構の残存状態などから勘案すると、前述の北側の堀切とは時代的に新しいもののように感じ、戦国期でよく見かける竪堀そのものといった感じでした。
当日の最後に丸子城本丸跡で行われた小和田先生による現地講話によれば、徳願寺山城は「駿府を見おろすいい場所であることから、駿府の今川氏に敵対する勢力の築城と考え、ひとつは南北朝期の宗良親王らが安倍城に入った時期、二つめは武田信玄が2回目に駿府を攻めたときというように、何度か使われたのではないか」とのご指摘でした。
【写真左】 山頂北側にある堀切、長い年月のため埋もれてはいるが、城が機能して時にはかなり深い空堀であったと思われる。
【写真中】 本曲輪付近にある「仏平」の標識、この付近で古い陶磁器やかわらけが表面採集されたとの記録が残る。城としてあるいは寺の 伽藍があったことを証明する遺物が出土していることに歴史ロマンを感じる。
【写真右】 城域南側にある長大竪堀、白いコートの男性は連休を利用してわざわざ福井県より来静されたとのこと。城好きには国(県)境は ない。それにしても迫力のある堀切でした。
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