【親記事】
【龍穴峰砦】(静岡県掛川市和光)
鬼丸 : 2013/03/11(Mon) 18:09
No.117
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麗らかな春の陽が気持ち良かったので、少し遠出して遠州掛川の龍尾神社の梅観のついでに龍穴峰砦を攻めてみた。
【地図】 http://www.mapion.co.jp/m/34.783938_138.006667_9/?wgs=1
永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄が「相駿甲三国同盟」を一方的に破棄し、駿河府中に侵攻を開始した。
徳川家康と武田信玄は、今川氏の領地のうち遠江国を徳川氏が、駿河国を武田氏が領有するという密約を結んでいた。
この家康と信玄の駿河分割協議の裏には、当初信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏政と今川領の分割を提案していた。
しかし氏政の生母は氏真の祖父・今川氏親の娘だったことから、氏政は拒絶した。このため信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたのである。 ちなみに、氏親の母上さまは伊勢盛時(通称:北条早雲)のお姉さまである。(妹説もあるが・・・)
武田勢の攻勢に、今川氏真は駿河を脱出して、重臣の朝比奈泰朝の掛川城へ逃走しますが、この時氏真の奥方 「早川殿」は輿にも乗らず裸足で逃げ延びたとの逸話があります。
徳川家康は掛川城攻略のため、北側にある龍尾神社(たつおじんじゃ)に本陣を設営すると東側に龍穴峰砦や笠町砦、南側に杉谷城・青田山砦などの付城(陣城)を構築、掛川城包囲作戦を展開した。
永禄11年(1568年)掛川城攻めが開始され、半年後に講和が結ばれて開城し、今川氏真は北条氏領の駿河国沼津にある大平新城へ落ち延びて行く。
龍穴峰砦は、「曹洞宗 和光山 永江院」東側の丘陵に築かれた八幡山砦とも呼ばれる山城で、現在この砦は和光山公園として整備されており階段を上り手軽に砦を探訪できる。
公園として整備されているとは知らず、お寺の脇から藪こぎをして攻城を敢行、頂上付近を奪取すると目の前に現れたのは綺麗に整備された城址公園だった。
現地には龍穴峰砦の説明が書かれた案内板がない、あるのは入口付近に「無断駐車禁止 江光院」と記された看板のみであった。そういう事情から地元住民にもほとんど知られていない。
尾根上には数段の平場と櫓台状の土盛がみられるが、静岡県の埋蔵文化財地図によれば「不動ヶ谷古墳群」の一部がこの砦上に点在しており、土盛は古墳を櫓台に再利用したことが考えられる。
そういえば「のぼうの城」の「武州忍城」攻めに「石田三成」が本陣とした場所も古墳の頂上だったことを思い出した。
【写真左】 曹洞宗江光院、写真右手の山が龍穴峰砦である。江光院には山内一豊が龍の彫刻の総門を寄進した寺として有名、その龍の彫刻があまりに見事なため、龍が池の水を飲みに来るとの噂で住民が恐れたので、彫刻の周りに金網を張ったという伝説が残されている。また寺宝に幕末の三舟の一人「山岡鉄舟の書」が襖八枚に残されている。江光院は「えいこういん」とは読まず「ようこういん」と読む。
【写真中】 城址公園からの全景、この日は付近の幼稚園の園児たちが遠足?に来ていた。結構愛想のよいクレヨンしんちゃん達であった。 写真の左端が公園入口です。
【写真右】 尾根上の残る曲輪遺構、まるい土盛りが櫓台とも古墳の墳丘とも。一応墳丘を利用した櫓台ということで。
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