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中世城郭紀行

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【親記事】
【三津城】(静岡県沼津市)
鬼丸 : 2013/03/19(Tue) 22:24 No.120

先日、お世話になっている城郭研究会主催の見学会に参加させて頂き「三津城〜三津新城〜長浜城(国指定)」などを探訪した。久しぶりの山の稜線にある城跡なので、視野にも城跡以外に富士山や駿河湾の眺望が素晴らしく満足の1日であった。

三津城は、伊豆にある「畠山三城」のうちのひとつと言われ、「金山城」や「修善寺城」とともに、伊豆北部の重要拠点で田方平野や駿河湾を一望できる緊要地形に位置する。おそらく眼下を通る「下田街道」或いは「駿河湾の海路」からの攻撃に対する迎撃拠点だったのではと想像します。

最近では城の縄張りも研究され、発端丈山の頂上一帯が主郭部とされ、この発端丈山の山頂からは、富士山や駿河湾を一望することができます。また稜線沿いに金山城へと連絡が可能であります。

畠山国清は、足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕後に建武の新政に参画し畿内に勢力を拡大するが、足利一門とともに離反する。
足利家の兄弟争いの内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた足利直義が京都を出て吉野の南朝に属すると畠山国清も従うが、その後に足利尊氏方に帰属し武蔵野合戦に参陣する。

正平8年/文和2年(1353年)に足利尊氏より、次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領に任命され併せて伊豆の守護となり同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率いて、武蔵守護にもなり権勢を振います。

正平16年/康安元年(1361年)11月、畠山国清は、かつての足利直義派の武将達から足利基氏に対して畠山国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚して領国の伊豆へ逃れます。

畠山国清は、伊豆の在地土豪らを味方につけることで基氏に抵抗しようと画策しましたが在地土豪の協力は得られず、一門の兵力だけで徹底抗戦を開始、弟の義深に守備させた「三津城」や「金山城」は次々と落城、遅滞行動を余儀なくされ、最後の砦として修禅寺城に籠城戦を展開しますが善戦虚しく落城に至り、その後足利基氏に降伏することになります。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.013160_138.903278_8/?wgs=1

【写真左】
南東方向から主郭部を望む。台の中腹部分には腰曲輪が取り巻いているのがお解りでしょうか。曲輪の左右の先端部が、虎口に見えなくもない。

【写真中】
西側から主郭部を撮影したもの。遠方に見えるのは葛城山で、画像には見えていないが、更にその右側に金山城がある。

【写真右】
発端丈山の頂上から富士山を望む。春霞であまり良く見えないが、薄らに頭を雲の上に出している。♪♪

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