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中世城郭紀行

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【親記事】
本立寺陣城(静岡県伊豆の国市)
鬼丸 : 2012/05/19(Sat) 20:36 No.64

本立寺は、江戸時代伊豆韮山の代官家と知られる江川家の菩提寺で日蓮宗の本山の一つに数えられる。弘長元年(1261年)に江川家十六代当主「太郎左衛門英親」が、伊豆の伊東に配流されていた「日蓮上人」を韮山に招聘し日蓮の教えを受ける。後に英親は日蓮の一字を授けられ「日久」と称した。

永正三年(1506年)に江川家二十四代当主「英盛」によって創建され、現在でも本堂裏手には江川家歴代の墓所がある。また境内には、「鎌倉東慶寺」にあったとされる梵鐘(国の重要文化財)や幕末の刀工で「大慶直胤」の高弟として知られる「小駒惣太平胤長」の墓や江川家手代(公事方)を務め、明治維新後には足柄県令(廃藩置県によって設置された行政区のひとつ。)となった「柏木忠俊」の墓などがある。

織田信長の戦略・戦術を踏襲した豊臣秀吉は、天正十八年(1890年)の小田原の役の前哨戦として韮山城攻撃の際に、周辺に多数の陣城(付城)を構築し包囲作戦を展開した。

徳川家康の家臣で松平家忠が著した「家忠日記(徳川家と外交・敵対関係にあった戦国大名の動向を知る史料として、また武家や大名の日常生活や習慣を知る史料として有名である。)」によれば「八日庚戌雨降、明後日十日ニにら山表ニ御取手可有之由御ふれ候」との触れで同月二十九日には韮山城攻城が開始されると同時に陣城(付城)の構築が始まり、約ひと月程度でほとんどの陣城(付城)が完成したと思われる。

この時秀吉は、配下の大名に「韮山義も付城堀、塀、柵出来候、是又可被干殺候」、「堀、柵を丈夫相付、鳥之かよいも無之被仰付候」などの文面の書状を発給している。

築城された陣城(付城)の数は九つあるといわれ、今回ご紹介する「本立寺陣城」をはじめとして「太閤陣屋陣城」、「追越山陣城」、「香山寺陣城」、「常念寺陣城」、「山木兼高陣城」、「上山田陣城」、「昌渓院陣城」、「木戸稲荷陣城」などがあります。「木戸稲荷陣城」以外は開発の波が押し寄せず、ほとんどが完存の状態でいまに残る。

つづく。


【写真左】(江川家の菩提寺である本立寺本堂)

さすがに風格を感じさせます。お寺の範囲はかなり広い。この本堂の裏山が本立寺陣城です。

【写真中】(国重要文化財指定の梵鐘)

本立寺の梵鐘です。鎌倉東慶寺にあったもので、鎌倉幕府滅亡後に北條邸を圓成尼寺に改装して移したが同寺が廃寺となった際に本立寺に移された。元徳二二年(1330年)の銘があり、銘文の末尾には大檀那菩薩戒尼圓成の文字が読み取れるという。

【写真右】(刀工:小駒惣太平胤長の墓)

大慶直胤の高弟と知られ、江川太郎左衛門英龍公に鍛刀の技を伝授した。その作品が今でも江川邸内の展示ブースで見ることができる。彼の作品は毎年十月頃に都内で開催される「大刀剣市」で「竹を模した小柄」を売品として見かけたことが何度かある。これと同様のものを他でも経眼しているので、おそらく江川家から依頼を受けて贈答用に作製したものではないかと推測します。

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