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中世城郭紀行

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【親記事】
御坂城(最終回:とりあえず再訪まで。)
鬼丸 : 2012/09/14(Fri) 19:09 No.97

御坂城が歴史の表舞台に出るきかっけとなるものが二つあります。その一つ目は天正十年(1582年)に起こった本能寺の変で、この事件をきっかけに、甲斐国の旧武田遺領は誰のものとも解らない空白地帯になります。
さらに二つ目として、甲斐国周辺の大大名である相模の北条氏政・氏直親子や駿河を手中に収めた徳川家康や越後の上杉景勝巻きみ、更には真田昌幸や木曾義昌などの武田家遺臣や甲斐の在地土豪である国人衆達が自らの領地の安堵と拡大を画策して甲斐国及びその周辺地域で大きな争乱状態が起きます。

これを天正壬午の乱といい、当時の記録によれば「甲斐一乱」の表記があり、近世の軍学 書では「壬午の役」・「壬午ノ合戦」などの記述が見られます。この乱では、北条氏直、徳川家康が甲斐国の覇権争い激しい戦闘があちらこちらで行われ、この時甲斐国郡内を制圧した北条勢は、武田氏時代に狼煙台が置かれた程度であった御坂城を一門の北条左衛門佐氏忠が改修、甲斐国における前線基地として機能させた。

北条・徳川間で和睦が成立すると甲斐国は徳川家康の領地となり、武田の遺臣の多くを家来として召し抱えるなどして実質的に甲斐国をその掌握に置いた。
この和睦で北条氏直は徳川家康の娘(督姫)を娶ることになるが、これが奏して小田原の役後、氏直は切腹を免れ高野山へ籠居となり戦国大名としての小田原北条氏は滅亡したが、命脈は辛うじて引継がれることとなった。

その後、御坂城は無用の長物となり、二度と使われることなく廃城の運命を辿るが、なぜこんな山の頂部にこれだけ大規模でかつテクニカルな城を築く必要があったのか疑問が残る。城跡は現代の茶店跡や登山道整備のため一部に改変が見られるが、遺構の残存状態は良好で築城当時の苦労が伺い知れる。

当時築城に携わった、陣夫や夫丸たちは「おら、こんなんいやだんべー、早くうちさ、けーりてえずら。」と叫んだ声が聞こえてきそうである。
(陣夫や夫丸とは、近隣の部落から税の一環として徴発された非戦闘員で、土木作業や荷物運びなどの雑役を担当する人たち。)

再び攻城したいと思うほど魅力的な山城でした。体力に自信がある方は、是非一度訪れてみては如何ですか。

【写真左】
熊の爪研ぎ、あるいは鹿が角を擦った痕か、良く解らないが人的なものではないだろう。この日は熊ベルを携行していなかったので
大きな声で「森の熊さん」を歌いながら下山した。おかげで「森の住人たち」とは出会わずに済んだ。(笑)

【写真中】
登山道や城内では高山植物が豊富で、可憐な花があちらこちらで見ることができる。9月のこの時期が訪城には一番良い季節かも知れない。

【写真右】
城内周辺には高山植物のほか菌糸類も多く、いろんな種類のキノコが見られる。当時の人たちも挙ってキノコ狩りをしたに違いない。
当時の合戦では、武器武具から食料に至るまで全部自前だったらしい。

携行出来る食料には限度があり、その中で生まれたのが皆さんご存知の「納豆」、腰に吊り下げた袋の中の豆が腐って糸を引いたものを、勇気を出して食した人がいたんでしょう。それを口に入れたとたん大変美味で腹もこわさなかったので、以後改良が重ねられ、今日の食膳に供されるようになったようである。

江戸時代に書かれた「雑兵物語」という書物の一節に「とにかくに陣中は飢饉だと思て、くわれべい草木の実は云うに及ばない、根葉に至るまで馬に引っ付けろ」(西股総生氏「戦国の軍隊」より引用)当時の合戦は、敵との戦いよりも飢えとの戦いの方がシビアであり、食料を得るための現地調達は必須行動だったのでしょう。

※画像は食用とも毒キノコとも素人の私には判別できません。キノコはその旨さ(特に鍋物)には定評があり、健康にも良いと言われている反面、毒キノコは命を落とす危険性がありますので、絶対に素人判断で食さないようにお願いします。

単独表示 爪痕.jpg 単独表示 高山植物.jpg 単独表示 キノコ.jpg
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