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中世城郭紀行

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【親記事】
片倉城(東京都八王子市)
鬼丸 : 2012/10/01(Mon) 18:43 No.98

今回は、東京都八王子市片倉にある「片倉城」です。八王子市といえば、「八王子城」が有名ですが、他にも同市内には中世城郭が数多く残り片倉城もこの一つです。

平成十一年(1999年)に東京都の史跡に指定され、史跡公園として整備されており、普段のお散歩服装でも十分散策できます。
アクセスもJR横浜線「片倉駅」から徒歩5分程度の場所にあり、山奥の城と違って事前準備も差ほど要しないのが嬉しい。
また、JR横浜線で横浜方面に向い「小机駅」で降りれば、徒歩十五分で「小机城」も攻略できる。
近年の公園整備事業と太平洋戦争時には高射砲陣地が設置されたため一部に改変が見られるというが、遺構は比較的良好に残っています。

もともとこの地は、平安時代中期頃に土着勢力「武蔵七党」のひとつ「横山党」の支配地域であったといいいます。
鎌倉時代になると、当地の支配は大江広元(鎌倉幕府の初代政所と公文所の別当)が領することになりますが、この時期については、二つの説があり、「和田合戦、(建保元年(1213年)、鎌倉で和田義盛と北条義時の間で行われた合戦」あるいは「宝治合戦(宝治元年(1247年)時の執権北条時頼と安達一族により三浦泰村一族が滅ぼされた事件」の後とされているようです。

室町時代に入り、大江氏の後裔と称する長井氏が扇ケ谷上杉家に属して勢力を振るい、この時期に片倉城は築かれたらしいが、文献資料が乏しく正確なことはよく解りません。

天文十五年の「川越夜戦」以後、武蔵国は小田原北条氏の支配地域となり、「片倉城」は同市内にある「滝山城」の支城として機能していたと思われ、永禄十二年(1569年)の三増峠の合戦では北条氏照、氏邦が出陣した城とされる説があります。


城跡は、小比企丘陵の先端部、湯殿川と兵衛川に挟まれた比高30メートルの台地に位置し、城跡の東麓から北麓にかけて湧水地がいくつかあり、昔から広範囲にわたる湿地帯で外堀のような役割を果たしていたことが窺えます。

城の縄張りは【写真左】で見るように、二つの大きな曲輪からなり、写真右側が主曲輪で左が二の曲輪となっている。
この曲輪間を南東から北西に掛けて幅約20メートルほどの堀切で遮断線を構成し、曲輪ごとの防御力を発揮できるようにされ主曲輪の西側に、この堀切と連携するようにコンモリとした櫓台が確認できる。おそらく城内戦においての戦闘指揮所的な役割を担ったものと思います。

二の曲輪の南端から西端に掛けて残る少しクランク気味な堀切は圧巻で、堀幅が25メートルを超える。現在、堀の斜面は植栽され堀の形状を損なうことなく観察できる。

二の曲輪南部は公園外であろうか、木の柵で区画され立入り禁止のようである。既存の資料などで確認すると、この立入り禁止区域がこの城の最大の見所のようですが、止め山となっているのでそれ以上の散策は諦めました。

城址自体はコンパクトな造りであるが、専門家の先生方の論評は「かなりテクニカルな城」と位置づけているようで、素人の私でも二の曲輪の西端部にある櫓台や横矢の効いた虎口なども確認できました。

城址北端部の低地には公園整備に伴いビオトープや水車小屋が造られ、園内あちこちには現代作家による銅像などの作品が置かれていて、家族揃って楽しめる城址公園となっています。


【写真左】
城址公園入り口にある案内図(縄張り図)、この看板の前に普通車が4台程度の駐車スペースがあるが、人気のある公園なので休日はすぐに満車となってしまう恐れがあるので注意を要します。

【写真中】
主曲輪と二の曲輪を遮断する堀切、木製の橋が復元され架けられている。当時はかなり深い堀であったと思われる。夏場より冬場の方が堀の形状が良く解ると思います。

【写真右】
主曲輪西部にある櫓台、城内のほぼ全域が掌握できる場所に位置している。【写真中】の堀と連接しており、テクニカルな部分を窺わせます。

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