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中世城郭紀行
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【守山砦】(その2)   鬼丸 : 2013/05/02(Thu) 17:06 No.124
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守山の山頂から北尾根に沿って守山八幡宮の裏手に通じる尾根道を下ると、所々に岩を掘開して平場状にした地形があちらこちらに見受けられた。当初その平場が曲輪遺構かと思ったが、帰宅後文献を調べてみた結果、守山では江戸時代から採石が行われ、近在の家々の「かまど」などに利用され「円成寺石」と呼ばれて重宝されていたとのこと。

下山途中、井戸跡と岩を堀削した虎口様の箇所も確認できたが、これらが戦国期の遺構かどうか少々疑問が残る。さらに尾根を進むと櫓台状の盛土を含む削平地にたどりついた。唯一城郭遺構と断言できそうな場所である。削平地は坪数にして60坪から70坪くらいの広さがある。

【地図】(守山八幡宮)
http://www.mapion.co.jp/m/35.046266_138.938514_9/?wgs=1

【写真左】
尾根道の脇にある井戸跡らしき場所、今でも水を湛えている。山城の生命線は籠城に備えた水の手があることが必須である。

【写真中】
大きな岩を堀削した虎口様な場所、前述した採石に伴うものなのか、城郭の虎口なのか判断が付き難い場所である。

【写真右】
櫓台と思しき盛土、この奥に60坪程度の削平地が確認できた。写真中の虎口様の場所からこの盛土までの間に堀切が確認できていない。見落とした可能性もあるので後日再訪してみようかと思う。

単独表示 守山井戸.jpg 単独表示 守山虎口.jpg 単独表示 .jpg
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【守山砦】(静岡県伊豆の国市)   鬼丸 : 2013/04/19(Fri) 18:39 No.123
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桜も散り初夏を思わせるよう陽気に誘われ、静岡県伊豆の国市にある「守山砦」を攻城した。新東名高速や伊豆縦貫道が整備されたお蔭で伊豆半島へのアクセスは便利になりましたが、車両移動では駐車場の確保などが面倒なので、今回は「伊豆箱根鉄道駿豆線」通称「いずっぱこ」を利用することにした。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.045606_138.938444_8/?wgs=1

駿豆線の韮山駅を下車し南西に約1q、30分から40分程度歩くと標高約100mの独立した山の麓に辿り着く。これが守山砦で、天正18年(1590年)の小田原の役に際して、北条方の西の防衛拠点となった韮山城を攻略するため、豊臣方の付城として構築されたと言われる。

守山から韮山城を含む一帯は「伊豆韮山中世遺跡群」として知られており、最近では守山山麓にある願成就院(国指定史跡)という古刹に所蔵されている「運慶作」の仏像が国宝に指定されている。

この守山一帯は5つの遺跡からなり、その大部分が国の指定を受けており、そのうち一番面積が広い遺跡が「御所之内遺跡」で、鎌倉時代の執権北条氏の伊豆在地時代の館跡である「史跡北条氏邸跡(円成寺跡)」や室町時代の堀越公方の在所であった「伝堀越御所跡」があり、また遺跡内には「北条政子産湯の井戸跡」や前述の願成就院には「北条時政」や「足利茶々丸」の墓所がある。

城歴については詳らかではないが、城砦としての初期段階は堀越御所の詰めの城として機能したと思われるがどうであろうか。
堀越御所の名を一躍有名にしたのは「伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)」の足利茶々丸追討のための堀越御所への急襲である。
これ以降、北条早雲は伊豆平定に乗り出し小田原北条五代の基礎を作り上げることになるが、詳細は別の機会にお話しすることにしよう。

天正18年(1590)4月、豊臣方が小田原城攻略の一環として韮山城包囲作戦を展開させる。この時、守山砦は豊臣方の付城のひとつとして機能し、山麓の願成就院には豊臣方総大将「織田信雄」が戦闘指揮所(陣所)を置いたとされる。守山砦を普請したのは「森忠政(従四位上左近衛権中将)」の手によるとされ森勢約2100名が在陣した。

守山砦には遊歩道が整備され二か所の入口がある。その一つは守山西公園で、山の西側で狩野川沿いにあり駐車場も完備されている。
もう一つは願成就院の前にある路地を南に向かい信光寺というお寺の脇から登るルートがあるが、利便性を勘案すると守山西公園からの攻城をお奨めする。

(次回に続く・・・予定)

【写真左】
狩野川左岸より守山砦を望む。一番高い場所が本郭と思われる。この左手平地部に北条氏邸跡と堀越御所跡の遺跡が展開する。

【写真中】
守山西公園から山頂に至る遊歩道、整備されすぎて旧態を確認するには想像力を発揮する以外ない。言い換えれば、かなり改変されているように思えるが、所々に曲輪状の平場が確認できた。

【写真右】
山頂から韮山城方向を見る。高層建物が中央付近に2棟確認できるが、その建物の中間に木立に覆われた小山が韮山城で、そのすぐ右手の山が天ケ岳城砦群である。

単独表示 守山砦全景.jpg 単独表示 遊歩道.jpg 単独表示 韮山城遠景.jpg
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【岩尻山砦】(静岡県沼津市内浦重須)   鬼丸 : 2013/03/30(Sat) 21:59 No.122
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静岡県沼津市内浦長浜にある「国指定史跡の長浜城」は城郭マニアの間では後北条氏の伊豆における水軍拠点として有名で、「日本城郭体系9」などの「お城本」にも紹介されていますが、実はこの長浜城の背後の山中に、平成8年から12年にかけて相次いで小規模な城郭が発見された。
現地の地名から「岩尻山砦」、「網代山砦」と呼ばれ、先日紹介した「三津城」のある発端丈山の西側の支尾根上に存在します。

長浜城とは密接な位置関係にあることから出曲輪的な存在かと思われますが、長浜城とは明らかに築城様式が異なる点について、同行して頂いた研究会の先輩から教えを頂いた。
それは土塁がなく削平地と堀切が主体になり、、砦の構造が「三津城・三津新城」に酷似しているとのことでした。
また城内道を九十九折にして、近接の削平地より横矢が掛かる構造になっていることも注目されます。

また、この砦の存在する尾根は前述した「三津新城」への連絡が可能と思われ、如いては田方平野に存在する後北条帝国の西の牙城である「韮山城」を防衛するため、駿河湾方向からの外敵を阻止するための「伊豆版、万里の長城」的なものではないかと思いを馳せます。

【地図】
http://www.its-mo.com/map/top_z/126043768_500018717_16//

【写真左】
腰曲輪から主郭部を望む。主郭部は東西7〜8m、南北10mとあまり広くはないが下段の腰曲輪との防御連携は横矢などが効いて、なかなかの妙味を感じます。

【写真中】
岩盤を堀削した堀切、東側へ竪堀となり天然の地形と併せてその要害さはかなりのものであります。以前に「韮山城の天ケ岳城砦群」を訪れた時に見た岩盤を綺麗に堀削した障子堀を思い出した。

【写真右】
前記の竪堀を下方へ撮影したもの。竪堀とは、山腹において敵の横移動を阻止するための堀のこと。鎧兜に身を固めて、太刀や刀を腰に帯して、更には槍を持って戦闘行動をしつつ、この竪堀を登るのは日露戦争の203高地攻略よりも難しいかもしれない。

単独表示 岩尻山本曲輪.jpg 単独表示 岩尻山竪堀1.jpg 単独表示 岩尻山竪堀2.jpg
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【掛川古城】(静岡県掛川市)   鬼丸 : 2013/03/24(Sun) 09:23 No.121
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龍穴峰砦を見学後、帰りの電車までかなり時間があったので、以前スルーしてしまった掛川古城に寄ることにした。

掛川古城は室町時代の応仁の乱を前後して、地方の守護大名同士の紛争が目立って増加した時期に駿河国守護であった今川氏により遠江国の支配拠点として文明年間(1470年代)重臣の朝比奈中守泰熈に築城させたもの。

反今川勢力を遠江国から一掃し今川氏の勢力拡大に伴い防備増強の意図に永正10年頃(1513年頃)、泰熙の子泰能が古城の南西方の龍頭山に新城を築城しますが、これが現在の掛川城です。

掛川古城は、標高48mの独立丘陵である龍胴山、通称子角山(ねずみやま)に東西約400m、南北約300mの規模で築かれた城郭で一部は近年の開発で改変が進んでいますが、主郭、大堀切、東曲輪、腰曲輪の一部が残り往時の姿を留めています。

主郭には「龍華院大猷院霊屋」という、明暦2年(1656年)、当時の掛川城主北条氏重により3代将軍徳川家光の冥福を祈るため建てられ、現在の霊廟は文政5年(1822年)に再建されたものながら静岡県指定有形文化財に指定されています。
(現地案内版より。)

この霊屋の背後と東側には土塁が良好に残り、東側の土塁の外はこの城一番の見どころ大堀切を見ることが出来ます。

東曲輪は公園化され広場と築山がある程度ですが、大堀切側には埋没していますが土塁の痕跡を確認できます。この曲輪の北側隅に現代の子供たちによる「秘密基地」が造られていました。

主郭西側には、現在墓地になっていますが腰曲輪の遺構が確認することができた。


【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.777820_138.017486_9/?wgs=1


【写真左】
主郭にある「龍華院大猷院霊屋」静岡県指定有形文化財に指定されています。この霊屋の背後と右側に土塁が良好な
状態で残されています。

【写真中】
霊屋右側にのこる土塁です。龍華院の境内にあるため良く手入れがされていました。

【写真右】
掛川古城の一押し遺構「大堀切」です。
敵の侵攻に対し主郭と東曲輪への敵の侵入を阻止するための遮断設備、或いは籠城兵力に対して各種事態に対応するための時間的余裕を獲得するためのものと考えられ、現在では多少の埋没はあるものの当時の現況をそのまま伝える貴重な遺構と言えます。

単独表示 1-霊屋.jpg 単独表示 2-土塁.jpg 単独表示 3-大堀切.jpg
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【三津城】(静岡県沼津市)   鬼丸 : 2013/03/19(Tue) 22:24 No.120
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先日、お世話になっている城郭研究会主催の見学会に参加させて頂き「三津城〜三津新城〜長浜城(国指定)」などを探訪した。久しぶりの山の稜線にある城跡なので、視野にも城跡以外に富士山や駿河湾の眺望が素晴らしく満足の1日であった。

三津城は、伊豆にある「畠山三城」のうちのひとつと言われ、「金山城」や「修善寺城」とともに、伊豆北部の重要拠点で田方平野や駿河湾を一望できる緊要地形に位置する。おそらく眼下を通る「下田街道」或いは「駿河湾の海路」からの攻撃に対する迎撃拠点だったのではと想像します。

最近では城の縄張りも研究され、発端丈山の頂上一帯が主郭部とされ、この発端丈山の山頂からは、富士山や駿河湾を一望することができます。また稜線沿いに金山城へと連絡が可能であります。

畠山国清は、足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕後に建武の新政に参画し畿内に勢力を拡大するが、足利一門とともに離反する。
足利家の兄弟争いの内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた足利直義が京都を出て吉野の南朝に属すると畠山国清も従うが、その後に足利尊氏方に帰属し武蔵野合戦に参陣する。

正平8年/文和2年(1353年)に足利尊氏より、次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領に任命され併せて伊豆の守護となり同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率いて、武蔵守護にもなり権勢を振います。

正平16年/康安元年(1361年)11月、畠山国清は、かつての足利直義派の武将達から足利基氏に対して畠山国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚して領国の伊豆へ逃れます。

畠山国清は、伊豆の在地土豪らを味方につけることで基氏に抵抗しようと画策しましたが在地土豪の協力は得られず、一門の兵力だけで徹底抗戦を開始、弟の義深に守備させた「三津城」や「金山城」は次々と落城、遅滞行動を余儀なくされ、最後の砦として修禅寺城に籠城戦を展開しますが善戦虚しく落城に至り、その後足利基氏に降伏することになります。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.013160_138.903278_8/?wgs=1

【写真左】
南東方向から主郭部を望む。台の中腹部分には腰曲輪が取り巻いているのがお解りでしょうか。曲輪の左右の先端部が、虎口に見えなくもない。

【写真中】
西側から主郭部を撮影したもの。遠方に見えるのは葛城山で、画像には見えていないが、更にその右側に金山城がある。

【写真右】
発端丈山の頂上から富士山を望む。春霞であまり良く見えないが、薄らに頭を雲の上に出している。♪♪

単独表示 1.jpg 単独表示 2.jpg 単独表示 3.jpg
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【河津城】(静岡県賀茂郡河津町)   鬼丸 : 2013/03/15(Fri) 21:30 No.119
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掛川の梅の次は桜だ!!ということで伊豆の「河津城」攻めを試みた。
ご当地名物の「河津桜」の見ごろは終わっているはずと安易な気持ちで現地入り、と・・ところが2月の寒波の影響で桜の開花が大分遅れているようで攻城日には、河津川両岸には少し満開の時期すぎた桜並木がそれは見事に際立っていた。

「城攻めは止めじゃあ」と桜と周辺の史跡探訪に予定を変更し、更には山海の珍味を売る露店で買い食いに走る。

夏場に海水浴の帰りに通り過ぎるだけの町だったが、自分の足で歩くと以外な発見がある。今回は帰りの電車の時刻を気にしながらの散策であったが春の香りを一杯に感じることができた。

【参考サイト】
http://www.kawazu-onsen.com/sakura/sakura.htm

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.750685_138.995431_9/?wgs=1

【写真左〜中〜右】
河津川沿いの桜、菜の花とのコラボも申し分ない。河津城は、町がもう少し静かになってから訪れることにしよう。

単独表示 桜1.jpg 単独表示 桜2.jpg 単独表示 桜3.jpg
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【龍穴峰砦(その2:龍尾神社)】(静岡県掛川市下西郷)   鬼丸 : 2013/03/12(Tue) 20:21 No.118
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徳川家康が掛川城攻略のため、本陣を敷いたと言われる龍尾神社(たつおじんじゃ)を再紹介します。

龍尾神社の御祭神は素盞嗚尊(スサノオミコト)で櫛稲田姫尊(クシナダヒメ)とその御子神をともに祀っています。
掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として山内一豊を初めとする掛川城歴代城主から崇敬を受け、現在では市民に深く崇められています。

境内には花庭園という庭園があり、2月末には枝垂れ梅、6月には紫陽花の花が咲きます。紫陽花の時期には訪れたことはありませんが是非その時期にも訪れてみたいと思います。余談ですが、花庭園入口で営業されている「たい焼き」さんがあります。このたい焼きは餡子がぎっしりで絶品です。

山内一豊が高知城に移転すると、現在の高知市の薊野駅の近くに龍尾神社を勧請し、前任地・掛川にちなんで掛川神社と命名したとのこと。

龍尾神社はしだれ梅の庭園として有名で、枝垂れ桜ならぬ「枝垂れ梅」とは、全国的にもめずらしいと言われています。そのしなやかで趣のある枝垂れ梅は圧巻です。

それでは、「梅の庭園」をご堪能くださいませ。

単独表示 梅1.jpg 単独表示 梅2.jpg 単独表示 梅3.jpg
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【龍穴峰砦】(静岡県掛川市和光)   鬼丸 : 2013/03/11(Mon) 18:09 No.117
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麗らかな春の陽が気持ち良かったので、少し遠出して遠州掛川の龍尾神社の梅観のついでに龍穴峰砦を攻めてみた。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.783938_138.006667_9/?wgs=1

永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄が「相駿甲三国同盟」を一方的に破棄し、駿河府中に侵攻を開始した。

徳川家康と武田信玄は、今川氏の領地のうち遠江国を徳川氏が、駿河国を武田氏が領有するという密約を結んでいた。

この家康と信玄の駿河分割協議の裏には、当初信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏政と今川領の分割を提案していた。

しかし氏政の生母は氏真の祖父・今川氏親の娘だったことから、氏政は拒絶した。このため信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたのである。
ちなみに、氏親の母上さまは伊勢盛時(通称:北条早雲)のお姉さまである。(妹説もあるが・・・)

武田勢の攻勢に、今川氏真は駿河を脱出して、重臣の朝比奈泰朝の掛川城へ逃走しますが、この時氏真の奥方
「早川殿」は輿にも乗らず裸足で逃げ延びたとの逸話があります。

徳川家康は掛川城攻略のため、北側にある龍尾神社(たつおじんじゃ)に本陣を設営すると東側に龍穴峰砦や笠町砦、南側に杉谷城・青田山砦などの付城(陣城)を構築、掛川城包囲作戦を展開した。

永禄11年(1568年)掛川城攻めが開始され、半年後に講和が結ばれて開城し、今川氏真は北条氏領の駿河国沼津にある大平新城へ落ち延びて行く。

龍穴峰砦は、「曹洞宗 和光山 永江院」東側の丘陵に築かれた八幡山砦とも呼ばれる山城で、現在この砦は和光山公園として整備されており階段を上り手軽に砦を探訪できる。

公園として整備されているとは知らず、お寺の脇から藪こぎをして攻城を敢行、頂上付近を奪取すると目の前に現れたのは綺麗に整備された城址公園だった。

現地には龍穴峰砦の説明が書かれた案内板がない、あるのは入口付近に「無断駐車禁止 江光院」と記された看板のみであった。そういう事情から地元住民にもほとんど知られていない。

尾根上には数段の平場と櫓台状の土盛がみられるが、静岡県の埋蔵文化財地図によれば「不動ヶ谷古墳群」の一部がこの砦上に点在しており、土盛は古墳を櫓台に再利用したことが考えられる。

そういえば「のぼうの城」の「武州忍城」攻めに「石田三成」が本陣とした場所も古墳の頂上だったことを思い出した。

【写真左】
曹洞宗江光院、写真右手の山が龍穴峰砦である。江光院には山内一豊が龍の彫刻の総門を寄進した寺として有名、その龍の彫刻があまりに見事なため、龍が池の水を飲みに来るとの噂で住民が恐れたので、彫刻の周りに金網を張ったという伝説が残されている。また寺宝に幕末の三舟の一人「山岡鉄舟の書」が襖八枚に残されている。江光院は「えいこういん」とは読まず「ようこういん」と読む。

【写真中】
城址公園からの全景、この日は付近の幼稚園の園児たちが遠足?に来ていた。結構愛想のよいクレヨンしんちゃん達であった。
写真の左端が公園入口です。

【写真右】
尾根上の残る曲輪遺構、まるい土盛りが櫓台とも古墳の墳丘とも。一応墳丘を利用した櫓台ということで。

単独表示 永光院.jpg 単独表示 全景.jpg 単独表示 古墳?.jpg
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【小田原城御用米曲輪見学記(その2)】   鬼丸 : 2013/02/24(Sun) 19:06 No.116
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今回の現地説明会の目玉は、なんと言っても戦国期の庭園跡の発見であります。昨年夏の現地説明会で、礎石建物が発見され、後北条氏の御主殿跡ではないかなどの報道があり、私自身「出るものが出たか」と驚嘆しておりましたが、今回の説明会では御主殿とするには規模が今一つ小さいので断定するには今後の調査によるところが大であるとのことです。

小田原北条氏の関連の城郭で御主殿遺構が発見されて有名なのは東京都八王子市にある八王子城で、ついで静岡県伊豆の国市の韮山城外郭でも建物遺構が発見されていますが、これらと御用米曲輪発見の戦国期遺構と対比して研究するのも面白そうですね。

庭園跡と判断される材料のひとつに多量の石を使用した「石組みの水路」に「玉砂利の使用」や池の端に造られた「護岸遺構」と庭園内の流水を調整及び処理するためのものなのか「暗渠」に酷似した「石積の方形竪穴」などが地表に姿を現した。

中世城館に附帯する庭園は極楽浄土を意識した「浄土庭園」が多いと聞きます。特に「水流」を使用した「鑓水遺構」は平安時代の浄土信仰の影響を受けた庭園様式と聞き及んでいます。先回記述の「謎の石」の謎解きがこのあたりにあるかも知れませんね。

特に庭園遺構に使われた石は、地元小田原で産する黒い色をした「風祭石」や鎌倉で産する黄色の不整形な「鎌倉石」が使用されているそうです。また、「護岸遺構」や「水路遺構」ではかなりの数の「五輪塔の火輪部分」が使用されていたのを確認することができました。

五輪塔の他の部分が見つかっていないので、なぜに「火輪部分」だけを使用したのか謎である。私的に考えるに、庭園の「水」の対になる「火」を意識した、中国の風水のように「運気向上・武運長久・家内安全」などといった呪術的な意識が働いていたのかも知れませんね。

今回発掘された「五輪塔の火輪部分」は五輪塔約70基相当と言われています。簡単に言えばお墓若しくは供養塔が約70基ということなのでしょうか。この五輪塔の主は南北朝期の足利尊氏と新田義貞との戦い時の将士ものか、あるいは応永23年の上杉禅秀の乱に関連した戦没者のものかといろいろと想像力(冥想かも知れない。)を掻き立ててくれます。

つづく。・・・かも?

【五輪塔】について詳しく解説されています。
http://www.bukkyo.net/tisiki/5rinto.htm


【写真左】 石組み水路跡
【写真中】 護岸遺構(四角い石が五輪塔の火輪部分)
【写真右】 暗渠風な石積の方形竪穴

単独表示 .jpg 単独表示 .jpg 単独表示 方形竪穴.jpg
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【速報】小田原城御用米曲輪現地説明会   鬼丸 : 2013/02/17(Sun) 18:18 No.115
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2月16日(土)に神奈川県の小田原城で発掘現場の現地説明がありました。小田原駅に着いた時から空模様が怪しく、ときおりミゾレの混じる生憎の空模様でしたが、午前午後二回の説明会に総計約1000名の見学者があったそうです。

当日の夜明けと同時に小田原市の職員の方々が来訪者の足元の汚れに配慮して発掘現場の通路にシートを敷き詰める作業が行われとのことです。もともとは野球場だった場所なのでシート展張はかなりの重労働だったと思います。担当の皆さん有難うございました。

この御用米曲輪は、江戸時代の幕府御用米の倉庫を発掘する目的でしたが、掘れば掘るほど戦国期の遺構が続出し、今回も越前朝倉氏の一乗谷遺跡で発見された庭園跡と同様な遺構が発見され、中世と近世の遺構が重層的に同じ場所に存在するというタイムカプセル状態に小田原城の基本整備計画を根本から見直しが必要とのこと。

【写真左】
発掘現場を天守台方向より撮影、戦国期の遺構は山の裾沿いに展開されています。
敷地中央部分が江戸時代の蔵跡で、この蔵跡の下に戦国期北条氏の館跡が眠っている可能性があります。

【写真中】
切石積と障子堀、昨年発見された障子堀周辺を拡張した結果堀跡に関係した施設ではなく、なんと庭園遺構が姿を現した。花散里さん、奥に見える「障子堀」見覚えありますよね〜。

【写真右】
庭園遺構の謎の石、奈良県明日香村の酒船石遺跡を彷彿とさせる遺構です。獅子脅しの石にも見えなくはないですが用途不明とのことです。

単独表示 全景.jpg 単独表示 切石積.jpg 単独表示 .jpg
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