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中世城郭紀行
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【第4回オフ会(その5)】(今回のメインイベント丸子城攻め)   鬼丸 : 2013/01/14(Mon) 20:17 No.114
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今回の最終目標の丸子城のご紹介です。丸子城は静岡県静岡市駿河区丸子に位置し、東海道五十三次の二十番目の宿場の丸子宿の背後に聳える通称「三角山」と呼ばれる場所に位置しています。「丸子」は「鞠子」という字が本当のようです。歌川広重に描いた「とろろ飯屋、丁子屋」は今も現存し、名物「とろろ飯」を食することができます。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.951275_138.328556_8/?wgs=1

丸子城は言うまでもなく、武田氏系城郭の特徴を色濃く呈することで中世城郭愛好者の有名であります。この城はもともと、応永年間
(1394〜1428年)に今川氏の家臣の斎藤安元が築城したとされ、明応二年(1493年)、今川氏親は駿河館防衛のための支城として拡張したとされていますが、当日古城研究会から頂いた資料によれば、この件については資料性に乏しく確証をするには無理があるとしています。丸子城が歴史の表舞台に登場するのは、永禄十一年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻以降であるとしてます。

ちなみに「斉藤安元」という武将の末裔に、防衛庁長官をお勤めされた方がいるとかいないとか。何かの資料で読んだ記憶があります。余談ですが・・・

【写真左】
安藤広重に描かれた浮世絵とおりに今も残る「とろろ屋」、自然薯のとろろ汁は滋養強壮に効くと聞いております。自信を無くした方にお奨めです。

【写真右】
丸子城内にある縄張図、これからのお話しはこれを準拠に進めたいと思います。

単独表示 とろろ屋.jpg 単独表示 縄張図.jpg
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明けましておめでとうございます。   鬼丸 : 2013/01/01(Tue) 14:27 No.111
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新年おめでとうございます。
よき新春をお迎えのことと、お喜び申し上げます。
本年も昨年同様、城攻めを楽しみたいと思います。

【初日の出】
国指定史跡「山中城址」方向からの初日の出

単独表示 DSCN1465.jpg

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Re: 明けましておめでとうございます。   波平 : 2013/01/04(Fri) 13:56 No.112

新年おめでとうございます。
山中城趾の初日の出を拝まれたのでしょうか?
総理大臣・都知事も替わりどのような年になるでしょうか。
私たちが暮らしよく、そして心も晴れ晴れとする世の中に
したいものですね。
今年も史蹟訪問、楽しみにしています。
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Re: 明けましておめでとうございます。   鬼丸 : 2013/01/05(Sat) 17:00 No.113

波平さん

明けましておめでとうございます。
今年こそは城攻めのご助勢をお頼み申し上げます。
大人の遠足と思って気軽に参加してみて下さい(笑)
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【第4回オフ会(その4)】(殿も鬼も泣いた下り坂)   鬼丸 : 2012/12/30(Sun) 17:14 No.109
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徳願寺山城〜梵天山〜歓昌院坂〜丸子宿

今回の歴史探訪ウォークには戦後を力強く生き抜いた先輩方が多く参加されていました。とにかく健脚で急な下り坂を物ともせず歩いていました。我々というと日頃の運動不足が祟り途中で、すでに膝が笑い足首が痛む。

途中の山中で軽く昼食を摂り、「歓昌院坂」と名の着く急坂を転がり落ちるように一気に下り丸子宿へ、残るは本日最後のイベントである丸子城の散策、典型的な武田流築城術を駆使した土だけの名城である。

丸子宿に到着の後、山中でバラバラになった陣形を立て直すためにしばらく休憩することになった。同宿では連歌師で有名な「宗長」というお坊さんが庵を結んだ「吐月峰柴屋寺」を少しだけ見学をする。

この「宗長」というお坊さまは刀剣愛好家なら誰でも知っている「初代島田義助」の子で、はじめ今川義忠に仕え、後に連歌では当代随一といわれた「飯尾宗祇」に師事して連歌を学び、京都では大徳寺の「一休宗純」に参禅、その後駿河に戻って今川氏親に仕え、今川家では外交顧問だったといわれる。

ちなみに軍事顧問は今川義元の幼き頃の教育係だった名軍師「太原雪斎」が有名である。この二人が今川氏の最盛期に大きく貢献したことは言うまでもない。

その後「くまさん牧場」という酪農家の営む、手作りアイスクリーム工房にて各自好みのジェラートやアイスクリームを頂く。徳願寺山城攻めのささやかなご褒美となった。


【写真左】
徳願寺山城を下山中の花散里さんと笹丸、晩秋の木漏れ日が妙に哀愁を漂わせ、心なしか無口になり黙々と丸子宿へ向かう。

【写真中】
歓昌院坂の名の由来となった「歓昌院」の山門、駿河三十三観音霊場(駿河一国三十三ヵ所観音霊場巡り) 第13番札所として知られ創建は古く鎌倉時代の嘉禄年間(1225年〜頃)といわれ、室町時代の文明年間(1480年〜頃)に曹洞宗の寺院として再興された。参道左手に羅漢さんが参拝者を出迎える。

【写真右】
今日のご褒美「くまさん牧場のアイスクリーム」グルメ番組でも良く取り上げられる噂のお店だ。濃厚なお味であと味もよい。
このあと本日最後のイベントである「丸子城攻め」が始まる。

(来年に続く。)

今年一年「中世城郭紀行」にご訪問頂きありがとうございました。来年もどうぞよろしく。良いお年をお迎えください。

単独表示 歓昌院坂を下る.jpg 単独表示 歓昌院.jpg 単独表示 ご褒美.jpg
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Re: 【第4回オフ会(その4)】(殿も鬼も泣いた下り坂)   花散里 : 2012/12/31(Mon) 20:37 No.110

今年の1月22日に新企画としてスタートした中世城郭紀行も、鬼丸さんの実地体験を元にした興味深い記事のおかげで無事に年を越すことができました。
よくある紀行物と違い、鬼丸さんの文章は現地の土や草木の息吹を感じられるのが、いっそう迫力を増すのだと思います。

来る新年も、よろしくお願いいたします。
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【第4回オフ会(その3)】(徳願寺山城〜丸子城)   鬼丸 : 2012/12/24(Mon) 15:31 No.108
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文献も伝承も伝わっていない徳願寺山城の機能していた時代を前日開催されたシンポジウムでデスカッションが行われ、古い順に、南北朝期、永享期、文明期、天文期、永禄期といくつかの時代に意見が分かれて活発な意見交換が行われた。

実際に現地を歩いてみた感想は、徳願寺周辺の麓部分の城郭遺構と山頂付近に展開する遺構とでは山頂部の遺構群の方が何となく古い感じの印象を持った。山頂部北端に二重堀切りがあるが、堀と堀との間隔が間遠いのに違和感をもつ。

敵兵の動線遮断のために造られたものだろうと推測できるが、この二重堀を制する北曲輪とそれに付随する二重堀前面の腰曲輪との距離が不自然であり、弓矢や石の投擲距離などで援護射撃するには少し遠いように思え、攻城兵に行動の自由を与えてしまう恐れがあるように感じた。このような不連続と思える二条堀切の型式は南北朝期の城に時折見られるそうだ。

山頂部は仏平と称される平坦地があり、ここを本曲輪として南側に少し下った場所に長大な堀切が見られる。堀切の傾斜変換点から竪堀に変化をみせ、麓まで続くような見応えのある堀切である。
堀幅や遺構の残存状態などから勘案すると、前述の北側の堀切とは時代的に新しいもののように感じ、戦国期でよく見かける竪堀そのものといった感じでした。

当日の最後に丸子城本丸跡で行われた小和田先生による現地講話によれば、徳願寺山城は「駿府を見おろすいい場所であることから、駿府の今川氏に敵対する勢力の築城と考え、ひとつは南北朝期の宗良親王らが安倍城に入った時期、二つめは武田信玄が2回目に駿府を攻めたときというように、何度か使われたのではないか」とのご指摘でした。



【写真左】
山頂北側にある堀切、長い年月のため埋もれてはいるが、城が機能して時にはかなり深い空堀であったと思われる。

【写真中】
本曲輪付近にある「仏平」の標識、この付近で古い陶磁器やかわらけが表面採集されたとの記録が残る。城としてあるいは寺の
伽藍があったことを証明する遺物が出土していることに歴史ロマンを感じる。

【写真右】
城域南側にある長大竪堀、白いコートの男性は連休を利用してわざわざ福井県より来静されたとのこと。城好きには国(県)境は
ない。それにしても迫力のある堀切でした。

単独表示 北側堀跡.jpg 単独表示 仏平.jpg 単独表示 南側堀跡.jpg
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【第4回オフ会(その2)】(徳願寺山城〜丸子城)   鬼丸 : 2012/12/02(Sun) 09:23 No.106
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花散里さん、その後の筋肉痛はどうでしょうか?攻城は一日一城と決めていましたので、今回は私もかなりハードでした。持病の神経痛が悪化して整骨院通いです。(笑)

>民家や畑の脇を通り結構な急坂を登って行ったのは。

その畑の脇、実は古墳群だったんですよ。当日私の足が止まった理由はそれでございます。

【地図】
静岡県静岡市駿河区向敷地

http://www.mapion.co.jp/m/34.959517_138.351611_8/?wgs=1

【写真左】(徳願寺山城遠望)

徳願寺山城は、最近まで「謎の城」とされていましたが、徳願寺南麓部分が土地区画整理事業により静岡市教育委員会が発掘調査の行った結果、古墳時代後期の6世紀後半頃から造られ8世紀初頭までの横穴式石室を伴う群集墳(円墳や方墳など。)が発見された。なおこの古墳からは銀象嵌大刀鍔などの刀装具など夥しい遺物が発掘されている。

同時に城郭の堀跡や石積のある曲輪跡が発見され、それをきっかけに背後の山を探索の結果、裏山自体が広大な城郭であることが確認された。写真の道すがら、両脇に小石が多数積まれていたが、おそらく石室内部の玄室に敷設されたものではないだろうかと一人妄想にふける。

【写真中】
徳願寺東側にある「大段」という地名の場所、削平された痕跡があるので、おそらくここも城跡の一部では?この場所の右側あたりで堀跡や石積の曲輪跡が発見されている。

【写真右】
徳願寺は遠い昔、駿河七観音の一つ「大窪寺(だいあじ)」であったことが『駿河志料』や『駿河記』という古記録に所載されている。時代下がり室町時代に中腹に移され名称を「得願寺」と名前を変え、また今川義忠夫人北川殿の菩提寺として現在に至っている。

単独表示 徳願寺山城全景.jpg 単独表示 徳願寺裾部.jpg 単独表示 徳願寺本堂.jpg
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Re: 【第4回オフ会(その2)】(徳願寺山城〜丸子城)   花散里 : 2012/12/08(Sat) 11:49 No.107

日ごろ鍛えている鬼丸さんがハードと言う状況で、私が平然としていられるわけもなく(^^ゞ
「そのうち終わる、いつかは終わる」と念じながら、歩いていましたよ(^_^;)
地獄に落とされたら、これ以上の苦しみが未来永劫に続くわけですから、「悪いことはしちゃいけない」と決心しました(^^)

徳願寺への道のりで、周囲が古墳群だとは思いもよりませんでした。
私の拙い知識で、寺院は仮の城塞、という認識がありましたので、寺≒城くらいには思っていましたが、まさか古墳までとは・・・
寺にしろ、城塞にしろ、古墳にしろ、それぞれの時代の人々にとって重要な土地柄だったんですね。
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【第4回オフ会】「歴史シンポジウム・イン・静岡」参加   鬼丸 : 2012/11/25(Sun) 20:10 No.104
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11月23日〜24日両日、静岡古城研究会主催による「歴史シンポジウム・イン・静岡」に花散里さん、笹丸と私の3人で第4回オフ会を兼ねて参加してきました。

23日は全国的に悪天候が予想されたために日程の入れ替えがあったが、主催者側の適切な判断と緻密な連絡により混乱もなく、有意義な2日間でした。

初日は静岡市内にあるコンベンション施設の「グランシップ」において、大河ドラマや中世史の論文などの執筆で知られる、静岡大学名誉教授「小和田哲男先生」による基調講演、「静岡県の城郭と歴史的背景」や静岡古城研究会よる「静岡県城跡の調査報告」などが
行われ、また昼食後は「薩摩琵琶」による「平家物語、小敦盛二段後半」の生演奏を堪能した。

その後、討論会「知られざる徳願寺山城の追及」と題して、コーディネーターに元静岡放送キャスターの「松野輝洋氏」、パネリストに「小和田先生」と「古城研究会の調査員5名」により活発な意見交換が交わされた。

初日終了後、事前予約した静岡市内のホテルに移動し、ホテルの近くにある「青葉おでん横丁」に出撃、「静岡おでん」をたっぷりと味わい、翌日のための英気を養う。

明けて翌日、晴天とまでも行かないがまずまずの攻城日和、ホテルを後に静岡駅に移動、すでに古城研究会のメンバーが駅構内で参加者のバス乗り場までの誘導をされていた。この日は終始参加者に対
する開催者側のケアーは見事でありました。

今回の攻城目標は、静岡駅〜徳願寺山城〜駿府匠宿〜丸子城〜静岡駅解散という行程、ハイキングくらいのお気楽モードで参加をしたものの、かなりタフな攻城戦でありました。

【写真左】
攻撃開始地点の徳願寺に到着(静岡市駿河区向敷地)
こういう古刹的な風景は堪りせんね。徳願寺境内には「今川義忠公」の奥方「北川殿」の墓所があります。

【写真中】
「北川殿」の墓所、北川殿は北条早雲の姉とも妹とも言われています。

【写真右】
徳願寺より静岡市内を望む、平地との標高差はかなりあります。
中央に流れる川は安倍川、今川家の人質となった徳川家康こと竹千代が、子供たちの石合戦を見て数の少ない方が勝つだろうと予測したという逸話の残る河川です。


つづく。

単独表示 徳願寺山門.jpg 単独表示 北川殿墓所.jpg 単独表示 静岡市内.jpg
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Re: 【第4回オフ会】「歴史シンポジウム・イン・静岡」参加   花散里 : 2012/11/30(Fri) 17:36 No.105

山城と言えば、基本的に「山」の認識はあった積りでしたが・・・
今回の徳願寺城から丸子城への連続踏破は、私の認識を超えたものがありましたね(^_^;)

鬼丸さんの解説にもあるように、雨のため初日と二日目の行事予定が入れ替わり、二日目が攻城となった訳ですが・・・
静岡駅前から、チャーターされたバスでまず徳願寺を目指したのですが、試練はすでにここから(^_^;)
日程が変更となったため、チャーターバスの車種が当初予定より大型のバスになってしまい、目的の徳願寺の遥か下側でバスを降りることになってしまいました。

約30分ほどでしたでしょうか、民家や畑の脇を通り結構な急坂を登って行ったのは。
当然、山々が見えてはいるのですが「どれが徳願寺城跡なんだろう・・・」と口に出して聞いてしまうこと即ち、これから登る山を確認し苦労を想像してメゲてしまいそうなので、ここは疑問を心の奥底にしまいながら黙々と(^_^;)

そうこうしているうちに、受付・スタート地点の徳願寺で小休止。
チャーターバスごとに班分けされ、古城研究会会員を班長として先導・所々での解説をしていただきながら長い長い2日目が幕を開けました。

(思い出して泣きながら)つづく
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【速報】興国寺城発掘調査現地説明会   鬼丸 : 2012/11/17(Sat) 16:30 No.103
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以前にもご紹介した「北条早雲旗揚げの城」として有名な静岡県沼津市にある「興国寺城」の今年度の発掘調査現地説明会が開催されます。(小雨決行)

今回は、城域東端にある「清水曲輪」です。この曲輪は天正十八年の小田原の役以降に増設されたようで北条氏や武田氏時期のものではないようです。

事前情報によると建物の柱跡(考古学用語でピットと呼ぶ)や堀跡なども検出されているとのこと。ご興味のある方、歴史好きの方、沼津まで出掛けてみては如何でしょうか。当日は、臨時駐車場も用意される予定ですが、遠方から来られる方は公共交通機関のご利用をお奨めします。(下記「詳細案内」参照)


日  時:平成24年12月8日(土)午前10時から11時半までと午後の13時半から15時の計2回

案内詳細:http://www.numazu-s.or.jp/yajikita/koukokuji2.htm

【写真左】から【写真右】
昨年度の三の丸発掘現場の風景

遺跡の発掘調査はこんな感じで行われています。見学の際には足元には十分気をつけて下さい。

現地では青ビニールシートには上がらないように。遺構や遺物を壊す可能性がありますし、城跡では堀跡
や長蔵穴だったりすることもあり危険が沢山隠れています。

それから踵の高い靴などは遺構を壊す可能性がありますので、スニーカーや荒天時には長靴などが用意できればベストです。

単独表示 DSCF0089.jpg 単独表示 DSCF0091.jpg 単独表示 DSCF0096.jpg
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【番外編】街道を歩く。(その3)   鬼丸 : 2012/11/05(Mon) 19:17 No.102
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(現地案内板より)

この大柊は天正10年6月2日、京都本能寺の変で討死した信長の首を、囲碁の名人と言われた本因坊日海の指示により原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し信長の首を、ここ駿河の当山に納め首塚を築き柊を植えたものであります。108代後水尾天皇の御息女・常子内親王の厚い御帰依を得られた当山中興の祖、18代日順上人は原家の御出身であられ御自筆の内過去帳に本因坊日海、織田信長の法号を記し手厚く御回向されておりました。

なんともミステリアスなお話でございます。ちなみに【写真右】の手前には、フィギアスケートの「織田信成」氏の名で小さな柊が植えられていた。

明智光秀の最大の誤算は信長の遺体を発見できなかったことに尽きるだろう。信長が生きていたらと常に恐怖に怯え結局、山崎の合戦で敗死してしまう。

織田信長は甲斐の武田勝頼を天目山に自刃させた後、帰路の途中この周辺で徳川家康の接待を受けてしばらく滞在したといわれる。
その時に「わしが死んだら富士のこの地に埋葬してくれ・・」と言ったとか言わないとか。

【写真左】
本堂左脇にある首塚への入り口を示す石碑

【写真中】
首塚の石碑と奥はこのお寺の宝蔵庫、刀剣類はないようだ。

【写真右】
「織田信長公首塚」と大柊の木、柊は大分弱って樹木医の手当あとが痛々しい。
信長公の首塚伝説は、ここ以外に関西方面にもう一か所あるという。

単独表示 DSCF0031.jpg 単独表示 DSCF0039.jpg 単独表示 DSCF0034.jpg
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【番外編】街道を歩く。(その2)   鬼丸 : 2012/10/23(Tue) 18:27 No.101
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西山本門寺は富士五山の一つに数えられる名刹で康永二年(1343年)に日蓮上人の高弟である日興上人の門弟、日代上人により創建されたと伝わります。

戦国時代には甲斐武田家の庇護を受け、江戸時代には水戸徳川家ともゆかりがあり、水戸家初代頼房公の生母「お万の方」が日蓮宗に深く帰依されていたことによるものと思われます。また、朝廷からも下馬札を許された由緒と格式のあるお寺さんです。

【写真左】(大杉の木立より見える本堂)
黒門を抜け、幅が30メートルほどある石段の参道を登ると左に折れる道があり、大きな杉並木の間から本堂が見えてきます。新緑の季節、深い緑に包まれた参道は森林浴に格好の散歩みちになることでしょう。

【写真中】(鐘楼と大銀杏)
本堂近くにある大銀杏、全部で3本あるという。紅葉時期になると銀杏の葉が落ちて、あたり一面に敷き詰められた景色は、あたかも黄金色の絨毯のように見えるという。残念ながら今回の訪問は少し時期が早かったようだ。

【写真右】(本門寺本堂)
本門寺の扁額、本門寺本堂内は撮影禁止となっているので扁額で我慢して頂くことにする。本堂内の右隅になぜか安土城の木製模型が飾られていた。やはり信長公と関係のある寺院なのか?

この本堂の裏手に噂の「織田信長公の首塚」がある。

つづく。

単独表示 本堂.jpg 単独表示 鐘楼.jpg 単独表示 扁額.jpg
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【番外編】街道を歩く。(中世史跡を訪ねて)   鬼丸 : 2012/10/14(Sun) 20:46 No.100
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先日とある番組で「織田信長公の首塚」を特集したものが放映された。静岡県富士宮市西山にある「西山本門寺」という日蓮宗のお寺にそれがあるという。番組内の解説には大河ドラマの時代考証などで知られる静岡大学名誉教授「小和田哲男」先生だったので余計に興味が湧いた。

首塚のことは以前より他の歴史書籍などで知っていたが、なんとなく気になりだしたので山城散策のついでに出掛けてみることにした。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.237443_138.564444_9/?wgs=1


【写真左】
山城散策は目標の近くまでは公共交通機関を利用し、そのあとは基本徒歩で移動することにしている。路傍より道祖神と富士山のコラボ

車移動ではなかなか出会えない風景だ。この道はおそらく駿河の清水湊から甲州へ通ずる「駿州往還(富士川街道)」から分岐した脇往還と思われる。

【写真中】
秋を感じるはコスモスと廃屋、道なりの辻ごとに道祖神が祀られ石造物の数はかなり多い。他に日蓮宗総本山の身延山が近いためか、道沿いには日蓮宗関係の石造物も見ることができる。

【写真右】
歩くこと1時間ほどで西山本門寺の入口「黒門」に到着する。山里などと表現すると地元の方に怒られそうだが、かなり閑静な場所に突如として現れる威厳のある門だ。この奥に「西山本門寺」の本堂がある。

つづく。

単独表示 道祖神.jpg 単独表示 道端.jpg 単独表示 黒門.jpg
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