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中世城郭紀行
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片倉城(その2)   鬼丸 : 2012/10/12(Fri) 19:14 No.99
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片倉城址公園

先回に引き続き、東京都八王子市にある片倉城です。

JR横浜線「片倉駅」から5分、国道16号線に面したところに城址公園入り口があります。

前回もお話しましたが、公園駐車場には車が4〜5台程度しか止めることが出来ませんので運の強い方なら車でも大丈夫ですが、電車・バスなどの公共交通機関の利用をお奨めします。

城址公園入り口正面に入ってすぐに「彫刻広場」と名付けられている場所がある。名前のとおりブロンズ像など八王子市が購入した沢山の彫刻作品が展示されており、学校や教育機関の多い八王子市にふさわしい公園になっています。

そのほか園内には、湧水を利用した「はす池」や水車小屋などを含めたビオトープが整備され、年間を通して植生豊かで、四季それぞれの草花を愛でることができる癒しの空間となっている。


【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.639837_139.337375_9/?wgs=1


【写真左】
水車小屋、水源は20〜30メートルほど奥まった片倉城の水の手と思われる沢からの湧き水で可動させている。

【写真中】
鍔の画題によく見かける「八橋の図」風に撮影したつもりだったが、上手く表現するのは難しい。

【写真右】
彫刻広場に展示されているブロンズ像、作品名「アテネの戦士」。スターウォーズ風のいかめしい装束である。

当時、こんなスタイルで攻城兵の前に現れたら肝を潰してしまうだろう。

単独表示 水車.jpg 単独表示 画題.jpg 単独表示 戦士.jpg
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片倉城(東京都八王子市)   鬼丸 : 2012/10/01(Mon) 18:43 No.98
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今回は、東京都八王子市片倉にある「片倉城」です。八王子市といえば、「八王子城」が有名ですが、他にも同市内には中世城郭が数多く残り片倉城もこの一つです。

平成十一年(1999年)に東京都の史跡に指定され、史跡公園として整備されており、普段のお散歩服装でも十分散策できます。
アクセスもJR横浜線「片倉駅」から徒歩5分程度の場所にあり、山奥の城と違って事前準備も差ほど要しないのが嬉しい。
また、JR横浜線で横浜方面に向い「小机駅」で降りれば、徒歩十五分で「小机城」も攻略できる。
近年の公園整備事業と太平洋戦争時には高射砲陣地が設置されたため一部に改変が見られるというが、遺構は比較的良好に残っています。

もともとこの地は、平安時代中期頃に土着勢力「武蔵七党」のひとつ「横山党」の支配地域であったといいいます。
鎌倉時代になると、当地の支配は大江広元(鎌倉幕府の初代政所と公文所の別当)が領することになりますが、この時期については、二つの説があり、「和田合戦、(建保元年(1213年)、鎌倉で和田義盛と北条義時の間で行われた合戦」あるいは「宝治合戦(宝治元年(1247年)時の執権北条時頼と安達一族により三浦泰村一族が滅ぼされた事件」の後とされているようです。

室町時代に入り、大江氏の後裔と称する長井氏が扇ケ谷上杉家に属して勢力を振るい、この時期に片倉城は築かれたらしいが、文献資料が乏しく正確なことはよく解りません。

天文十五年の「川越夜戦」以後、武蔵国は小田原北条氏の支配地域となり、「片倉城」は同市内にある「滝山城」の支城として機能していたと思われ、永禄十二年(1569年)の三増峠の合戦では北条氏照、氏邦が出陣した城とされる説があります。


城跡は、小比企丘陵の先端部、湯殿川と兵衛川に挟まれた比高30メートルの台地に位置し、城跡の東麓から北麓にかけて湧水地がいくつかあり、昔から広範囲にわたる湿地帯で外堀のような役割を果たしていたことが窺えます。

城の縄張りは【写真左】で見るように、二つの大きな曲輪からなり、写真右側が主曲輪で左が二の曲輪となっている。
この曲輪間を南東から北西に掛けて幅約20メートルほどの堀切で遮断線を構成し、曲輪ごとの防御力を発揮できるようにされ主曲輪の西側に、この堀切と連携するようにコンモリとした櫓台が確認できる。おそらく城内戦においての戦闘指揮所的な役割を担ったものと思います。

二の曲輪の南端から西端に掛けて残る少しクランク気味な堀切は圧巻で、堀幅が25メートルを超える。現在、堀の斜面は植栽され堀の形状を損なうことなく観察できる。

二の曲輪南部は公園外であろうか、木の柵で区画され立入り禁止のようである。既存の資料などで確認すると、この立入り禁止区域がこの城の最大の見所のようですが、止め山となっているのでそれ以上の散策は諦めました。

城址自体はコンパクトな造りであるが、専門家の先生方の論評は「かなりテクニカルな城」と位置づけているようで、素人の私でも二の曲輪の西端部にある櫓台や横矢の効いた虎口なども確認できました。

城址北端部の低地には公園整備に伴いビオトープや水車小屋が造られ、園内あちこちには現代作家による銅像などの作品が置かれていて、家族揃って楽しめる城址公園となっています。


【写真左】
城址公園入り口にある案内図(縄張り図)、この看板の前に普通車が4台程度の駐車スペースがあるが、人気のある公園なので休日はすぐに満車となってしまう恐れがあるので注意を要します。

【写真中】
主曲輪と二の曲輪を遮断する堀切、木製の橋が復元され架けられている。当時はかなり深い堀であったと思われる。夏場より冬場の方が堀の形状が良く解ると思います。

【写真右】
主曲輪西部にある櫓台、城内のほぼ全域が掌握できる場所に位置している。【写真中】の堀と連接しており、テクニカルな部分を窺わせます。

単独表示 写真左.jpg 単独表示 写真中.jpg 単独表示 写真右.jpg
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御坂城(最終回:とりあえず再訪まで。)   鬼丸 : 2012/09/14(Fri) 19:09 No.97
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御坂城が歴史の表舞台に出るきかっけとなるものが二つあります。その一つ目は天正十年(1582年)に起こった本能寺の変で、この事件をきっかけに、甲斐国の旧武田遺領は誰のものとも解らない空白地帯になります。
さらに二つ目として、甲斐国周辺の大大名である相模の北条氏政・氏直親子や駿河を手中に収めた徳川家康や越後の上杉景勝巻きみ、更には真田昌幸や木曾義昌などの武田家遺臣や甲斐の在地土豪である国人衆達が自らの領地の安堵と拡大を画策して甲斐国及びその周辺地域で大きな争乱状態が起きます。

これを天正壬午の乱といい、当時の記録によれば「甲斐一乱」の表記があり、近世の軍学 書では「壬午の役」・「壬午ノ合戦」などの記述が見られます。この乱では、北条氏直、徳川家康が甲斐国の覇権争い激しい戦闘があちらこちらで行われ、この時甲斐国郡内を制圧した北条勢は、武田氏時代に狼煙台が置かれた程度であった御坂城を一門の北条左衛門佐氏忠が改修、甲斐国における前線基地として機能させた。

北条・徳川間で和睦が成立すると甲斐国は徳川家康の領地となり、武田の遺臣の多くを家来として召し抱えるなどして実質的に甲斐国をその掌握に置いた。
この和睦で北条氏直は徳川家康の娘(督姫)を娶ることになるが、これが奏して小田原の役後、氏直は切腹を免れ高野山へ籠居となり戦国大名としての小田原北条氏は滅亡したが、命脈は辛うじて引継がれることとなった。

その後、御坂城は無用の長物となり、二度と使われることなく廃城の運命を辿るが、なぜこんな山の頂部にこれだけ大規模でかつテクニカルな城を築く必要があったのか疑問が残る。城跡は現代の茶店跡や登山道整備のため一部に改変が見られるが、遺構の残存状態は良好で築城当時の苦労が伺い知れる。

当時築城に携わった、陣夫や夫丸たちは「おら、こんなんいやだんべー、早くうちさ、けーりてえずら。」と叫んだ声が聞こえてきそうである。
(陣夫や夫丸とは、近隣の部落から税の一環として徴発された非戦闘員で、土木作業や荷物運びなどの雑役を担当する人たち。)

再び攻城したいと思うほど魅力的な山城でした。体力に自信がある方は、是非一度訪れてみては如何ですか。

【写真左】
熊の爪研ぎ、あるいは鹿が角を擦った痕か、良く解らないが人的なものではないだろう。この日は熊ベルを携行していなかったので
大きな声で「森の熊さん」を歌いながら下山した。おかげで「森の住人たち」とは出会わずに済んだ。(笑)

【写真中】
登山道や城内では高山植物が豊富で、可憐な花があちらこちらで見ることができる。9月のこの時期が訪城には一番良い季節かも知れない。

【写真右】
城内周辺には高山植物のほか菌糸類も多く、いろんな種類のキノコが見られる。当時の人たちも挙ってキノコ狩りをしたに違いない。
当時の合戦では、武器武具から食料に至るまで全部自前だったらしい。

携行出来る食料には限度があり、その中で生まれたのが皆さんご存知の「納豆」、腰に吊り下げた袋の中の豆が腐って糸を引いたものを、勇気を出して食した人がいたんでしょう。それを口に入れたとたん大変美味で腹もこわさなかったので、以後改良が重ねられ、今日の食膳に供されるようになったようである。

江戸時代に書かれた「雑兵物語」という書物の一節に「とにかくに陣中は飢饉だと思て、くわれべい草木の実は云うに及ばない、根葉に至るまで馬に引っ付けろ」(西股総生氏「戦国の軍隊」より引用)当時の合戦は、敵との戦いよりも飢えとの戦いの方がシビアであり、食料を得るための現地調達は必須行動だったのでしょう。

※画像は食用とも毒キノコとも素人の私には判別できません。キノコはその旨さ(特に鍋物)には定評があり、健康にも良いと言われている反面、毒キノコは命を落とす危険性がありますので、絶対に素人判断で食さないようにお願いします。

単独表示 爪痕.jpg 単独表示 高山植物.jpg 単独表示 キノコ.jpg
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宝の山(小田原城御用米曲輪)   鬼丸 : 2012/09/11(Tue) 18:44 No.95
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発掘現場では色々なものが見学できます。

【写真左】は遺構周辺より多量に出土した瓦片を集積したもの。この中には沢山の当時の情報が詰まっています。

【写真中】のような、思わず「は・ははあ・・」と平伏さずにはいられないご存じ「葵の御紋」、幕府直轄の御用米蔵があった証左であります。

【写真右】は城跡や仏閣でみることの出来る普通の土塀のカットモデルです。ちなみに小田原城内の歴史見聞館のすぐ脇に展示されています。

単独表示 宝の山.jpg 単独表示 葵紋.jpg 単独表示 普通の土塀.jpg
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Re: 宝の山(小田原城御用米曲輪)   花散里 : 2012/09/12(Wed) 20:42 No.96

先日の攻城では、土塀のカットモデルを見ることができませんでした。

と言うより、存在そのものを知りませんでした(^_^;)
古い神社仏閣などで土塀を見ることはありますが、崩れてでもいない限り中を見ることはできませんからねぇ。
自然に崩れたものだと構造も把握しがたいですが、このように展示目的であればよく分かると思います。

次回攻城の機会があれば、ぜひ拝見したいものです。
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【速報】小田原城御用米曲輪、第4次発掘調査現地説明会   鬼丸 : 2012/08/22(Wed) 20:23 No.92
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8月18日(土)に小田原城御用米曲輪にて第4次発掘調査の現地説明会が開催されるとの情報を得たので、早速出掛けてみることにした。

当日は、前日からの天気予報どおりに曇天でいまにも雨が降りそうな空模様、念のため折り畳み傘と山城攻め用のポンチョを携行することにした。

今年3月以来の小田原城再訪となる。今回も貴重な発見が相次ぎ南関東の地方紙に大々的に報道され、特に今回は小田原城内で初となる戦国時代の礎石建物の検出と江戸時代の瓦積塀の一部が地中に埋もれた状態で発見されたという。

当日配布されたレジメによりますと、戦国時代の礎石建物は30年ほど前に発掘した際に検出された円礫(丸い川原石みたいなの。)周辺を更に丹念に拡張精査した結果、規則正しく配列された石列が発見された。規模的にはかなり大きな建物で福井県の朝倉氏遺跡の館跡や東京都の八王子城御主殿に比肩する規模のものではないかとの説明があった。

また、瓦積塀は土中に埋もれた状態で発見された例は全国的にもまれであるとして、同様な手法で造られたものに愛知県名古屋市の熱田神宮に織田信長が奉納したといわれる「信長塀」なるものがある。

この塀の由来は、信長が桶狭間の合戦の勝利を熱田神宮に祈願し、見事に大願成就したお礼に寄進されたものだという。

この「信長塀」と京都三十三間堂の「太閤塀」及び兵庫県西宮神社の「大練塀」を「日本三代塀」と称するらしい。 


【写真左】
戦国時代の礎石建物の説明風景、説明を担当している学芸員さんは前回と同じ人です。ある見学者の訳の解らない質問にも、にこやかに答えていた。
さすがですね〜。

【写真中】
瓦積塀の発掘状況です。「良く残っていたなあ〜」と感心しっぱなし。この瓦積塀はおそらく土又は粘土を繋ぎとして、その上に瓦を幾重にも積み重ねたように見える。

【写真右】
周辺の位置関係は、写真右端の土壁付近にも規模の小さい瓦積塀があり、大きな切株の左横に【写真中】の塀が見える。
その手前は、この塀に附帯するピット(堀立て穴)で、なんらかの建物をこの塀が囲んでいたものと思われます。
学芸員さんの説明によれば、宗教施設のようなものではないかとのこと。

単独表示 戦国期の礎石建物.jpg 単独表示 瓦積塀.jpg 単独表示 瓦積塀の全体.jpg
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Re: 【速報】小田原城御用米曲輪、第4次発掘調査現地説明会   花散里 : 2012/08/23(Thu) 21:05 No.93

鬼丸さん、再度の小田原攻めお疲れ様でした<m(__)m>

前回ご案内いただいた時も感じましたが、よくぞ今まで中世の遺跡が残っていたものですね。
小田原城というとコンクリート製の復興天守のイメージが強く、観光客相手という感を禁じ得ませんでした。
私などは特に小学生の時に遠足で訪れたことがあるせいか、なおさらだったのかも知れません。

ところが、実際に発掘現場をこの目で見るとそれらの思いは一掃され、まるで中世当時の侍達の息吹が聞こえてくるようでした。
やはり、表に見えているものだけで判断してはいけませんね。

今回は仕事の都合でご一緒できませんでしたが、次回はぜひご一緒しましょう(^^)
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Re: 【速報】小田原城御用米曲輪、第4次発掘調査現地説明会   鬼丸 : 2012/08/25(Sat) 10:17 No.94

花散里さん、コメント有難うございます。「瓦積塀」は、本当に「よくぞ今まで中世の遺跡が残っていた。」と感心しました。
小田原城では、今後も新たな発見が期待されます。

涼し季節になりましたら、「歴史探訪ウォーク」の前にウォーミングアップがてら近場の城を攻めてみたいですね。
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御坂城(その2)   鬼丸 : 2012/08/19(Sun) 22:08 No.91
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御坂城は、日本でも一位若しくは2位を争うくらいの高所に位置する城址あることは前回説明させて頂きましが、更に面白い特徴を持っています。

御坂山の稜線上に沿って縦長に縄張りされていますが主要部(主郭、主曲輪、本丸、本曲輪ともいう。)が城内の一番低いところ(鞍部)に占地されていることです。主郭を中心に左右の尾根上に北郭(御坂山方向)、南郭(黒岳方向)が構えられ、北郭と主郭との比高は50m弱ほどあります。
等高線を頼りに断面図を作成すると、まるで鷹が獲物を狙うため翼を広げているような感じです。

主郭のある主要部には旧鎌倉街道(鎌倉往還ともいう。)が横断しており甲斐と鎌倉を結ぶ官道として古くから使われていた。
このように街道を城内に取込む手法は北条氏の築城術の特徴でもあり、静岡県三島市の山中城や同県小山町の足柄城にも同様であることは有名です。

主郭、北郭、南郭にそれぞれに土や岩石を多用した堅固な土塁に技巧的な虎口を有し、郭周辺を横堀などの防御施設を附帯させ、特に横堀は長く長大であることが特筆されます。またこの横堀は、部分的に竪堀と連絡するものや二重堀なるところも見られ、見所豊富な城郭であります。

この長大な横堀は戦時には防御施設として、平時には各郭間の連絡する動線として機能したのではないかと想像できます。
実際に、北郭から主郭方向へと南郭から主郭方向へ堀底を移動してみたが、稜線の土塁上を移動するより容易であったように感じました。
ある程度埋まった状態の堀なので、これが北条氏特有の畝堀や障子堀だったらそうはいかないと思いますが。

稜線上に造られた長細い城郭であるため、尾根伝いの攻撃にはある程度縦深を利用しての防御が可能であるが、山裾からジワリジワリ攻める仕寄り攻撃よって一点突破されると、そこから堰を切った濁流のように攻城兵が押寄せ、城内を蹂躙されかねないでしょう。


【写真左】
稜線を登山宜しく歩いた末、突如現れた城郭遺構(北郭の土塁と堀)に疲れも吹き飛ぶ。

【写真中】
主要部を横切る旧鎌倉街道、笛吹市側の虎口から城内を望む。奥の建物は無人の茶屋跡

【写真右】
南郭の虎口遺構、この奥の左側を降りると長大横堀が主郭部方向へ続く。

単独表示 北郭.jpg 単独表示 主要部.jpg 単独表示 南郭.jpg
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天空の城(山梨県南都留郡富士河口湖町、笛吹市御坂町)   鬼丸 : 2012/08/05(Sun) 21:20 No.90
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今回は日本一最高所にある「天空の城郭、御坂城」をご紹介します。

夏山登山という訳ではないが、高いところ行けば少しは涼しいだろうと思い山梨県南都留郡富士河口湖町と笛吹市御坂町に跨る御坂峠にある御坂城を攻めた。標高は1571メートルちょっとした登山だ。

正確な統計が取られているわけでもないが、御坂城は、日本最高所にある城郭として城郭愛好家の間ではかなり有名であり、昭和四十年ごろまでは幻の城と言われていた。

現地案内版によれば「規模は東西700m、南北500m。戦国時代に修築し、それ以前の構築と見られる。甲斐国志による御坂城の名は幻の城として不明のまま忘れられていたが、昭和43年に城に関する古地図が発見され、驚くほどの規模の山城遺構が発見された。山城として鎌倉街道御坂峠の頂上を中心に稜線に塁壕をもって構築されたものである。鎌倉街道の要衝として国中地方を守る山砦であったものを戦国動乱の時代、北条氏が甲州侵攻の拠点に拡大修築したものと言われている。」

奥深い山城のように感じるが、アクセスは容易で東名高速ならば御殿場ICで降り国道136号で静岡県から山梨県に入り、国道137号へ、中央高速の場合は富士急ハイランドの見える河口湖ICで降り、同じく国道137号に入る。甲府方面へしばらく走ると「新御坂トンネル」があり、その手前を右折し県道708号に進入する。九十九折れの続く舗装道路を約20分ほど走ると正面に「旧御坂トンネル」と右手に「建物」が見えてくる。

この「建物」は「天下茶屋」といい、「太宰治」や「井伏鱒二」が滞在し執筆活動した場所として知られている。

この茶屋付近の空きスペースに車を止め、いざ進軍となる。なおトイレはあるが茶店が開店するまでは施錠されており、使用することができないので麓のコンビニあたりで用をたすことをお奨めする。

登城路イコール登山道であり、「旧御坂トンネル」の左脇より登り始める。登り始めてすぐに「太宰治」の「富嶽百景」に登場する「富士には月見草がよく似合う」の一節を記した文学碑がある。

登り口から峠に通じる稜線道まで登らなければならない。あまり距離はないが比高差が150メートル弱ある登坂路で心拍数が見る見るうちにあがる。どういうイメージかといえば、三角関数の1:2:√3の長辺を立てにした感じの登りである。

やっとのことで稜線道に辿りつき、呼吸を整え水分補給と装具の点検を行う。靴ひもなど細かいところまで気を使わないと山では命取りなる。また初めてのところでは地図やコンパス、GPSなどで常に自分の現在地を確認しておくことも必要だ。
ちなみに稜線道と茶店からの登り口の交差点を第1チェックポイント(bPCP)仮称する。

bPCPから御坂峠までは大きく6か所のピークを登ったり下りたりしなければならない。地図上で高低差と距離、自分の年齢を考慮して2時間かけての着陣予定とした。

御坂峠までは稜線上の林道を進むことになる。残念ながら富士山の見える場所はほとんどないに等しい。しかしながら山野草や奇岩が迎えてくれる。下界では見られない風景に、心なしか満足感を味わうことができる。

(つづく。)

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.556997_138.763444_8/?wgs=1

【写真左】
出発点の天下茶屋より富士山を望む。やや雲が掛かっているのはちと残念だ。画像下部は河口湖

【写真中】
稜線道を行く。山深さを感じて頂けるだろうか。このような風景がしばらく続く。

【写真右】
城址まであと30分、結構キツイ稜線だ。

単独表示 出発点.jpg 単独表示 稜線道.jpg 単独表示 登坂中.jpg
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掛川城(その3)   鬼丸 : 2012/07/28(Sat) 11:12 No.89
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掛川城のある掛川市は、旧東海道五十三次のほぼ真ん中の宿駅として中世以来交通の要衝となっています。

現在でもJR東海道線、新幹線駅、天竜浜名湖線(旧国鉄二俣線)駅が同一場所にあり、東名高速掛川ICも隣接しており交通の便には事欠かない。また天竜浜名湖鉄道沿線には中世城郭跡が多く、お城好きには堪らない。さらにこの路線の各駅ほとんどが大正から昭和にかけての駅舎が現存し国の登録有形文化財に指定されています。

そんな観光名所の多い中、今回は掛川花鳥園をご紹介します。花鳥園は全天候型で花と鳥のテーマパークとして知られ、テレビなどでも紹介され大人でも結構楽しめます。また園内のレストランはとてもリーズナブルなので懐も胃も満足すること間違いなし。
ここでの見どころは、アフリカオオコノハズクの「ぽっぽちゃん」とオオオニハシ(チョコボールのキョロちゃん似)、それと映画「ハリーポッター」で有名になったシロフクロウは必見です。

時間があれば掛川城と併せて訪れることをお奨めします。

掛川花鳥園

【アクセス】
http://www.mapion.co.jp/m/34.761918_138.015333_9/?wgs=1

【掛川花鳥園】
http://www.kamoltd.co.jp/kke/

【写真左】
種類は良く解りませんが、猛禽類独特な鋭い眼つきで、攻撃準備完了って感じです。

【写真中】
屋外の池ではこんな微笑ましいシーンにも出会えます。黒鳥の親子と思うんですけど。

【写真右】
ふくろうをモチーフにしたケーキ。食べてしまうのが勿体ない感じがするほど可愛らしい。

単独表示 ふくろう.jpg 単独表示 黒鳥の親子.jpg 単独表示 花鳥園 お菓子.jpg
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掛川城(その2)   鬼丸 : 2012/07/20(Fri) 17:38 No.87
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掛川城関連の名所旧跡として龍尾神社を紹介します。
龍尾神社は、掛川城の北方800mのところにあり、掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として、「山内一豊公」を初めとする歴代城主から篤く崇敬を受けたことで有名で、古くは「龍尾山牛頭天王」と称し、また延喜式内社の真草神社であるという説もあります。

一豊公が高知城に転封後、二代目土佐藩主「忠義公」は龍尾神社の御分神を高知城下(現在のJR土讃線の蘇野駅近く)に勧進し、「掛川神社」と命名され現在も大事にお祀りされています。分祀の際、忠義公より龍尾神社に「蘇鉄」と「土佐の石」が奉納され今でも社殿脇に現存しています。

龍尾神社にある花庭園は有名で、春は「しだれ梅」、初夏は「紫陽花」を楽しむことができる。


【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.783379_138.016778_8/?wgs=1


【写真左】
花庭園より掛川城を望む。こういう感じで掛川城を守護しているんだなあと感じました。ちょっとピンボケはご愛嬌ということで謝々

【写真中】
花庭園内のしだれ梅、梅の花の見ごろは2月上旬〜3月中旬、紫陽花は6月上旬〜7月上旬です。庭園内のしだれ梅は圧巻です。

【写真右】
土佐藩二代目藩主、山内忠義公が奉納された蘇鉄と土佐石です。余談ですが戊辰戦争の際、官軍の日光東照宮の破壊を止めさせたのは土佐藩の尽力と聞いています。武士の世界には「御恩と奉公」という習わしがありますが、山内家にとって御恩のある徳川家康だけは別格だったのでしょう。

単独表示 掛川城を望む.jpg 単独表示 梅園.jpg 単独表示 蘇鉄.jpg
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Re: 掛川城(その2)   花散里 : 2012/07/22(Sun) 10:25 No.88

イメージとして、城には桜という感じがしますが、梅も見事ですね。
特にご紹介いただいた「しだれ梅」、そんじょそこらの桜などでは到底太刀打ちできない気品と美しさがあります、

私が知らないだけでしょうが、「しだれ桜」はちょくちょく見ることがありますが、「しだれ梅」はとんど聞くことも見ることもありませんでした。

ぜひ、実際に花の季節にこの目で見たいものです。
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掛川城(静岡県掛川市)   鬼丸 : 2012/07/10(Tue) 21:00 No.86
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今回ご紹介するのは、大河ドラマ「功名が辻」で有名な「山内一豊公」ゆかりの掛川城です。日本百名城にも指定され、黒澤明監督が脚本を担当した映画「雨上がる」では二の丸御殿がロケ地となった。

さて先回、横山城でのお話しの続きで「今川氏真」は武田信玄の駿河急襲により、て本拠地駿府今川館を追われ、奥方様を伴って近臣の者たちと遠州掛川城の「朝比奈備中守泰朝」のもとへ逃げ込むことになる。

血縁の濃い瀬名氏や駿河東部に勢力を誇る葛山氏の離反などで、今川軍自体が総崩れで士気が下がり合戦どころではなかったのでしょう。

時を同じくて、三河の徳川家康も駿河攻略に進軍を開始し、安全と思われた掛川城は徳川勢に包囲され、約半年間の籠城戦に追い込まれます。

ここで少し掛川城の成り立ちについて、文明初年(1470年代)に今川氏親により遠江侵攻の前線基地とすべく重臣の朝比奈備中守泰熈に、現在城跡として残る場所より北東に350メートルほどのところにある子角山(ねずみやま)、通称天王山に城砦を築いたのが始まりとされ、今ある掛川城址と区別するために掛川古城と称されています。

数度の拡張改修が行われ永正〜大永年間にかけて、古城の位置より南西にある「龍頭山」を中心に現在ある城址の前身となる新たな城が築かれた。大永二年(1522年)に掛川城に滞在した「連歌師宗長」が日記に掛川の城は今だ普請の最中である旨を記しています。なお天王山にあった掛川古城は、掛川城の出城として引続き機能していた。

永禄十一年(1568年)十二月から徳川家康による掛川城包囲作戦が展開されると、掛川城の周囲には青田山砦、杉谷城、笠町砦など多くの陣城が築かれ、天王山の出城(掛川古城)も奪取され、城の鬼門にあたる北方の龍尾神社には家康の本陣が置かれた。

今川氏真と掛川城を守る朝比奈泰朝は良く奮闘しますが、兵力に勝る徳川勢に敵わず、翌年永禄十二年五月に氏真は家臣の助命などの和議に持ち込み、掛川城を開城する。半年にも及ぶ籠城戦と戦国大名としての今川氏は終止符を打ちます。


その後、掛川城は徳川家康のものとなり天正十八年(1580年)に家康が関東に移封になると、豊臣方の武将山内一豊が五万石で封ぜられ、その時に織豊系城郭として大改修が行われ、今日見る掛川城の基礎となりました。

慶長五年(1600年)関が原の合戦後、山内一豊は土佐一国を与えられ二十万石の大大名に栄転、次に久松松平定勝が入封しますが、その後も幾度と無く藩主が変わり、北条氏、本多氏、井伊氏、小笠原氏などの譜代大名が城主に就き、最後は太田道潅の末裔である太田氏の居城として明治維新まで存続します。

平成六年(1994年)に復興された「木造の復興天守」と現存で国の重要文化財指定の「二の丸御殿」は必見です。御殿は「二条城の二の丸御殿」のように煌びやかなものではなく、禅寺のような落ち着いた佇まいの中にも威厳さを感じさせ、また家臣の詰め所や台所、土間なども残り江戸時代の御殿の様子を垣間見ることができます。

その他、二ノ丸から本丸に移築した太鼓櫓が現存し、更に大手二の門(玄関下御門)がおとなり袋井市の油山寺という寺院の山門になっています。ちなみにこの油山寺は目の病に効く霊験あらたかなお寺だそうです。

その後の今川氏真は、奥方早川殿の弟北条氏政の助けにより、駿河東部北条領内にある駿河戸倉城(現駿東郡清水町徳倉)へと脱出します。


【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/34.776073_138.014778_8/?wgs=1

【アクセス】
JR東海道線掛川駅より徒歩約7分

自動車の場合、東名高速道掛川ICより約10分程度、なお無料駐車場はありません。

【キーワード】
「龍尾神社」、「連歌師宗長」、「油山寺」、「駿河徳倉城」


【写真左】
掛川城天守閣、復元に際しては現存天守閣として有名な高知城を手本にしたという。高知城は山内一豊が土佐移封後に掛川城を模して築城されたと言われています。なお、掛川城の復元天守閣は総木造の天守閣として伝統の技と現代技術の結晶といえるでしょう。見学していても、飽きることのない堂々たる天守閣です。

【写真中】
天守閣からの眺望、中央に見える森が掛川古城です。地元では紅葉スポットとしても有名であり、ここには掛川城主北条氏重によって、明暦二年(1656年)徳川三代将軍家光の霊廟が建立されましたが、後年火災に遭い文政五年(1822年)に再建され、現在は静岡県指定有形文化財に指定されています。

【写真右】
静岡県袋井市にある「油山寺の山門」、かつての掛川城大手二の門(玄関下御門)が移築されています。撮影時はJR東海道線袋井駅から徒歩で2時間半ほど掛けて取材した。

単独表示 掛川城.jpg 単独表示 掛川古城.jpg 単独表示 油山寺.jpg
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