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中世城郭紀行
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横山城(静岡県静岡市清水区)   鬼丸 : 2012/06/29(Fri) 21:39 No.85
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今回ご紹介するのは、前掲の小島陣屋のすぐ近くにある「横山城」です。

横山城は興津城ともいわれ、今川氏の被官であった興津氏の居城でした。
興津氏は、藤原流入江氏の一族で平安末期からこの地域に栄えた名門で、保元の乱を記した「保元物語」に「息津四郎」が見え、また「承久の乱」を記した「承久記」には「興津左衛門」の名が見えている。興津氏は、興津郷の地頭職、さらには富士上下方上野郷の地頭職を兼ねるほど権勢を誇っていたが、今川氏が駿河国守護として着任するとその被官となり代々今川氏に仕えた。

南北朝末期の延文年間(1356年〜1361年)興津美作守の時に、海沿いにある興津館より現在城跡の残るこの地に本拠を移した。

平地部は土塁に囲まれた居館があり、山側には詰めの城を築き今もその遺構が明瞭に残り典型的な「根小屋遺構」として城郭研究者の注目を集めている。現在、居館跡は果樹園となっているが、所どころに庭石などが確認できるという。

興津氏は、今川氏と懇意の連歌師「柴屋軒宗長」と親交を深め、大永年間(1521年〜1528年)、宗長はこの横山城をたびたび訪れ、その際「歌会」を催しその時の歌が数首「宗長手記」に遺されている。

特に大永五年(1525年)、横山城主「興津藤兵衛尉正信」に招かれて、正信自慢の庭園を発句にと頼まれ、この時の様子を宗長手記には「興津にて塩湯のついてに此城の山木を発句にと云々」とあり「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」や「見るたびに逃れぬ庭の草木かな」などと庭園の美しさを詠んでいる。

永禄十一年(1568年)十二月十三日、駿河侵攻を開始した武田信玄は、事前の調略により今川勢家臣の多くを造反させ、迎撃らしい抵抗をほとんを受けずに駿府を手中に納めた。おそらくこの時点で横山城は武田勢に占領されたものと思われる。

しかし信玄には大きな誤算があった。駿府攻略を焦ったのか、もう一つの経路である東海道〜富士川〜甲州へ至る経路上の蒲原城を攻撃せずにスルーしてしまい、また富士信忠が守る富士宮の大宮城攻撃を失敗していた。

蒲原城には今川氏真の家臣である在番衆が無傷で残り、大宮城の富士信忠は蒲原城へ増援に、さらに同日北条氏政の命により、北条新三郎氏信が率いる「加勢衆」が今川氏真救援隊として蒲原城に集結、ここを拠点として興津川対岸の薩った峠に布陣した。
武田勢は甲州への退路を断たれて、駿府とその周辺に封じ込められるという事態に陥った。

武田信玄は占領した横山城を甲州帰還のための橋頭堡とすべく改修を急いだという。現在横山城で見られる遺構の大部分がこの時改修されたものとされる。

翌年の永禄十二年二月中旬には横山城の改修が終わり、兵糧などを運び入れて甲州への撤退を模索していたが、薩った峠一帯には北条勢の陣地があちらこちらに構築され、武田勢は釘付けにされ身動きの出来ない状態が続いた。

そこで信玄は、同年四月十九日付けで駿府に近い久能城(現久能山東照宮)と横山城の二城に「城掟」を与え守備隊に籠城作戦を指示し、主力は興津川沿いに甲州へ隠密裏に撤退したという。

横山城には、武田二十四将の一人で武田家御一門衆の「穴山信君(梅雪斎不白と号し、武田左衛門とも)」を城将として興津川を挟んで北条勢と長期に亘り対峙することになる。

駿府を武田に急襲された今川氏真は、家臣の朝比奈泰朝の居城「掛川城」へ逃れた。この時、奥方早川殿のための輿を用意できず、奥方様は裸足のままだったという。

つづく。



【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.078518_138.518736_9/?wgs=1

【アクセス】
静鉄新清水駅、JR東海道本線清水駅,興津駅からしずてつジャストラインバス三保山の手線「但沼車庫前」行きで「承元寺入口」下車、西へ徒歩8分

【キーワード】
「蒲原城」、「掛川城」、「北条新三郎氏信」、「柴屋軒宗長」


【写真左】
横山城跡の石碑、撮影場所は旧身延道の道路上で石碑の後ろに見える細い道は登城道

【写真中】
城内の堀底道を進む。右側に木戸口若しくは虎口様の遺構がある。背の丈ほどの笹や竹で攻城は苦戦続きであった。
草木の枯れた冬季の攻城をお奨めします。

【写真右】
館跡の土塁、現在は果樹園になっているので収穫期には絶対に入らないように。
また地元の方には、挨拶と見学の許可を頂きましょう。

単独表示 1入口.jpg 単独表示 2堀底道.jpg 単独表示 3館と土塁.jpg
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小島陣屋(その2:龍津寺)   鬼丸 : 2012/06/19(Tue) 20:51 No.80
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先日紹介しました小島陣屋跡の南東に、三代目小島藩主松平昌信公の墓所がある臨済宗妙心寺派の龍津寺があります。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.082013_138.513639_8/?wgs=1

創建の詳しことは分かっていませんが、天文十五年(1546年)に今川家の軍師と言われる「雪斎禅師」が再興し、江戸時代には小島藩松平家の香華寺として藩主の庇護を受けました。

このお寺には、臨済宗中興の祖と言われる「白隠禅師」自筆の達磨像や仏教天文学で使用された「須弥山儀(国内現存数7個)」という珍しい品が寺宝としてあり、他に江戸時代中期に流行した大人の絵本「黄表紙(黄双紙)」で知られる「恋川春町」(100石取りの小島藩士で本名は倉橋格)の墓所などがあります。

小島藩は一万石という小藩で財政も厳しく、また幕府の規定した軍役令では一万石に対して家臣を235名抱えなければならい規定があり、「安政分限帳(役職や石高を記載したもの)」記載の小島藩士の数は102名しか居らず、足りない分は在地の農民から譜代足軽として雇って人数合わせをしたという。


【写真左】
龍津寺山門、禅宗のお寺という感じがします。山門の扁額には前出の白隠禅師の落款が押されている。

【写真中】
三代目小島藩主松平昌信公墓所、墓碑には「楞伽院殿 従五位 前房州刺吏 圓入止觀大居士」とあります。
「前房州刺吏」とは「前任の安房の守」という意味で「刺吏」とは中国の官位で、そのほかに「太守」などがあり、高位の武家の法名号などに添えられた例が多い。中国の官職を用いるのが、当時としてはステータスだったのか。

【写真右】
境内に可愛らしく置かれていたお地蔵さん。こういうのを見ると「ほのぼの」としますね。

単独表示 山門.jpg 単独表示 墓所.jpg 単独表示 境内.jpg
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Re: 小島陣屋(その2:龍津寺)   花散里 : 2012/06/21(Thu) 23:41 No.82

写真右のお地蔵さん、いいですねぇ。

おそらくご近所のお年寄りによるものかと思いますが、地蔵和讃にあるように一般的には幼子の守り神と受けとめられていますからね。
守り神の労をねぎらったものか、守り神に託したものか、いずれにしろ、このような素朴な信仰のあり方も好ましいですね。
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小島陣屋(静岡県静岡市清水区)   鬼丸 : 2012/06/16(Sat) 22:12 No.79
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今回ご紹介するのは、中世城郭ではなく近世の陣屋であります。静岡県静岡市清水区小島本町構内・小島町字桑原にある小島陣屋です。攻城時当日は梅雨の合間の好天に恵まれ絶好の日和となりました。

伊豆の「狩野川」とともに鮎の友釣りで全国的に有名な「興津川」の右岸の河岸段丘上に位置し、陣屋のすぐ脇には甲州に通じる身延道(現国道52号線)が通っています。

江戸時代の駿河国は以外にも藩というものが少なく、県東部の沼津藩と県中部の藤枝田中藩くらいのものでしたが、宝永元年(1704年)に、ここ小島に松平信治(瀧脇松平家:三河十八松平家のひとつ。)が陣屋を構えたのが小島藩の始まりで、明治維新までの164年間、周辺の三十カ村を支配する一万石譜代大名の陣屋として藩政の本拠としました。

陣屋という位置づけは、鎌倉時代には合戦における兵士の臨時軍営又は地頭の役所を陣屋とも呼んでいたようで、江戸時代には、2万石から3万石の城を持たない大名の政庁兼居所・蔵を意味する言葉となり、軍事上の拠点ではなく民事政策上の拠点で、今でいう都道府県庁みたいなものです。

小島陣屋は、明治維新後に新設の駿府藩に引き渡され、駿府藩(静岡藩)の小島役所、私塾包蒙舎教場、小学校校舎などに利用されていましたが、昭和初期に建物は解体され土地は民間に払い下げらました。この時、御殿書院建物は移築され、小島公会堂として利用されていましたが、現在は文化財資料館になっています。

一般の陣屋と異なり、表門が枡形の構えであり城郭を思わせる石垣が良好に残っているなど江戸時代中期における大名陣屋の在り方と構造を知る上で貴重であるとして、平成18年7月28日に国指定史跡に指定されました。


【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.088012_138.513097_9/?wgs=1

【アクセス】
JR興津駅よりしずてつジャストラインバス三保山手線で「栗原」下車、徒歩10分
またはJR清水駅よりしずてつジャストラインバス三保山手線 「小島」下車

興津駅より旧身延道へ徒歩1時間20分


【写真左】
小島陣屋案内板です。全体の様子を把握できます。

【写真中】
枡形門の虎口です。まるで近世城郭の大手門と見間違えるほどですが、やはりコンパクトに出来ています。

【写真右】
日本の他の名城にも負けない石垣の曲線美、城好きには堪りませんね。

単独表示 小島陣屋案内板.jpg 単独表示 小島陣屋虎口.jpg 単独表示 小島陣屋石垣.jpg
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Re: 小島陣屋(静岡県静岡市清水区)   花散里 : 2012/06/21(Thu) 23:26 No.81

まだ、勉強を始めたばかりなので、見当違いだったら申し訳ないのですが・・・

写真中の虎口脇の石垣と写真右の石垣は、造られた時代が違うのでしょうか?
写真中のものは自然石に最小限の加工を施しただけに見え、写真右のものは明らかに加工の跡が見えます。

写真中のものが中世のもので、写真右のものは近世のもの、と見て良いのでしょうか?
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Re: 小島陣屋(静岡県静岡市清水区)   鬼丸 : 2012/06/22(Fri) 21:56 No.83

お城を構成する基本的な要素に天守閣、石垣、堀などがありますが、天守閣が築かれ石垣が多様されるようになったのは戦国末期からで織田信長の安土城を代表とします。

日本刀で言えば「新古境」と言われる時期にあたり土木技術の発達と相まって、西日本の織田・豊臣方の武将の多くが権勢を誇るため、支配地域に大規模な石垣建造物を建築した。これをお城の世界では「織豊系城郭」と呼んでいます。

石垣にも種類があり、石材の加工状態から3種類、積み方から4種類に大別できます。

石材の加工状態で、全く加工しないか一部を加工して造られものを「野面(のずら)積み」、石材の接合面をお互いに加工したものを「打ち込みハギ」、石材全体を綺麗に加工したものを「切り込みハギ」と分類します。

積み方から横方向の目地が綺麗に揃う「布積み」、横目地が通らずバラバラなものを「乱積み」といいます。その他に江戸中期以降から見られる「谷積み」や城郭にはあまり用いられない「亀甲積み」などがあります。

織豊系城郭の多くは圧倒的に「打ち込みハギ」が多く、それ以前の中世城郭で石垣のあるものは「野面積み」が主流であり、関ヶ原の合戦前後からは「切り込みハギ」が多用されます。

しかしながら、加工状態や積み方から時代を特定するのは少し無理があります。土地によっては石垣に適する石材がなく海や河原の丸い石を石垣にした城郭もあり、また藩(築城主)の経済状態も大きな要因となります。5月に紹介した浜松城の石垣は、幕末に修復されたもので野趣溢れる「野面積み」になっています。

さてご質問の石垣ですが、写真中は「野面積みの乱積み」に見え古色を窺わせます。写真右は「切り込みハギで谷積み」のように見えます。また積み方4種の変形で矢筈積みというのがあり、これにも見えます。

ご質問の答えですが、両写真とも同じ時期に普請されたものです。1万石の小藩では大普請だったのでしょう。手を抜くところは抜いて、藩主の御殿周りは堅固な石垣を採用しています。

後に小島藩では、たびたび百姓一揆が起り、藩の経済が困窮していたことが歴史資料から分かります。
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Re: 小島陣屋(静岡県静岡市清水区)   花散里 : 2012/06/24(Sun) 22:43 No.84

鬼丸さん、教えていただきありがとうございます。

同じ時期に普請されたものでも、必ずしも形式が同一ではないということですか。
現在と違い重機などもなく、すべては人手による大規模な土木工事ですから、我々が後から考える以上に様々な事情があったのでしょうね。
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土手和田砦(韮山城砦群)   鬼丸 : 2012/06/11(Mon) 21:53 No.76
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【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.049898_138.953694_9/?wgs=1

和田島砦に続いて、今回は土手和田砦を紹介します。一見独立丘陵のように感じますが、やはりここも天ヶ岳の支脈の一つで、上部の尾根筋で和田島砦とケモノ道にある大堀切を隔てて連絡しています。

砦の南北にそれぞれ小さな神社があるので、南側の神社(水神社の参道)方向から攻城するのが良いでしょう。神社の参道には金属性の手すりが神社まで付いていますが、神社より先には手すりはなく、草の中を分け入る感じで進みます。すると直に段状の小郭が左手見え、右側には外枡形状の方形の小さい平場があり虎口を形成しているように見える。更にその先左手に櫓台状の高まりと正面奥に大きな土塁のある郭を確認することができます。

この大きな土塁のある郭が本郭とされているようです。本郭の頂部は削平され、その下部は2〜3の腰郭を伴っているようです。本郭を含めてそれより北側は竹や雑草でブッシュが酷く郭内部の状態がほとんど分からない。春から秋の間の表面観察は無理でしょう。

この櫓台状の高まりと本郭との間にL字型をした畝堀を見ることができます。この畝堀は和田島砦のケモノ道にあった堀と同様、岩盤を掘下げて畝を残したものであり、堀の末端は本郭から続く竪堀と合流し谷底へと落ちています。

畝堀のある面より更に下段に天ヶ岳方向に削平された平場があり、攻城した際には下草や竹が刈り取られていて容易に観察することが出来た。

この下段平場はかなり綺麗に削平されて、西南部では土塁状の高まりがあり東南部には、もう一段低い位置に腰郭と思われる小さな平場が西南部の土塁状のところまで伸びる。

また両端は切岸状の自然崖となり、天ヶ岳山頂付近から続く谷に繋がっている。この下段平場は30〜40名位の駐屯が容易かと思われ、武者溜まりあるいは排水が容易な地形なので野戦用の炊事場だったかも知れない。

整地の状態を周囲の地形と考え合わすと後世の改変はなく、また土手和田砦の郭の中では一番低い位置にあり秘匿性が高く、また天ヶ岳へ連絡する城内道があることから興味深い郭であり、今後の発掘調査などの学術調査に期待したい。

竹や笹、雑草が伸びきらなければ今月一杯までなら、この下段平場を見学できると思います。夏季は蛇さんや蜂さんの攻撃を受けるなど、かなりのリスクを負うことになりますので攻城には十分な注意が必要です。

この下段平場からは前述した、天ヶ岳に通じる城内道があり、登り口には3〜4段の段曲輪が配置され、その背後には尾根を遮断する別の畝掘を見ることが出来る。この堀も圧巻で、天ヶ岳側の堀壁は急峻で自然の岩が露出しており、山城ならではの荒々しさを感じさせます。

土手和田砦は和田島砦に比べてかなり技巧的な縄張りで完成度が高く感じられ、おそらく天正十八年(1590年)の小田原の役に際して畝掘や各郭の補修・改修が大々的に行われたのでしょう。


【写真左】(土手和田砦の本郭と畝堀)
右の木の茂る台が本郭で左端が櫓台、中央に緑の帯状のものが畝堀の「うね」です。堀はこの位置から右手にクランクして竪堀へと連なる。

【写真中】(土手和田畝堀)
クランクした畝堀を竪堀方向から近写したもの。石積みのように見えるが、岩盤を掘りこんだもの。左右の壁面にも石などが露出していた。

【写真右】(土手和田下段平場)
下段広場を上段の畝堀位置から天ヶ岳方向を見る。画面の奥に見えるのは段状遺構で小さな削平地が3〜4段あり、この奥には別の畝堀がある。そろそろ竹が生え出しているので、後1ケ月程で元のジャングル状態に戻ることでしょう。

単独表示 土手和田本郭.jpg 単独表示 土手和田畝堀.jpg 単独表示 下段平場.jpg
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Re: 土手和田砦(韮山城砦群)   花散里 : 2012/06/12(Tue) 21:39 No.77

鬼丸さんに導かれ、中世の城郭巡りが楽しくなってきた(日ごろの運動不足で体力的には辛い)今日この頃ですが、これから秋口までの季節は「伏兵対策」が重要ですね。

おなじみ(?)の虻・蜂・熊・蝮は命の危険がありますので(虻はないか・・・)怖いですが、命の危険こそないものの厄介な伏兵が「山ビル」です(^_^;)
特に梅雨時の今頃から盛夏にかけて猛威を振るい、有効な対策が見当たりません。
なにしろ、奴らは立体攻撃を仕掛けてきますから始末に負えません。

樹上・下生え・落ち葉と、上下左右からあらゆる隙を狙って波状攻撃を仕掛けてきますから・・・まさか、織田信長のように全山焼き討ちにするわけにもいきませんしねぇ。

病気を媒介することはない、とのことですが・・・最近は増えすぎた野生の鹿などの身体について、住宅地にまで生息範囲を広げているそうです。

鬼丸さんも、十分にご注意を<m(__)m>
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Re: 土手和田砦(韮山城砦群)   鬼丸 : 2012/06/13(Wed) 21:15 No.78

花散里さん、伏兵情報ありがとうございます。少し物足りませんが夏季は史跡公園化した城跡に限定した方が良さそうですね。
攻城予定の例のお城、調べてみたら伏兵だらけで夏季は難攻不落のようですね。冬季になったら攻城するので後詰を宜しくお願いします。
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【韮山城なう】(韮山城池親水公園)   鬼丸 : 2012/06/09(Sat) 18:57 No.75
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城池は、北条早雲の居城として知られている韮山城の外堀として一部が築造され、江戸時代には韮山代官の江川家の庭池でもあったとされ、その堀の一部を環境整備事業等により整備し、公園としたのが城池親水公園です。

公園には子供用の遊具やお弁当を広げるのに丁度良い芝生の広場があり、四季それぞれの花や植物を見ることができます。
また池には野鳥観察小屋もあり、バードウォッチングや魚釣りもできるようです。

伊豆の歴史と自然を一度に味わうことのできる場所として、県外からのお客さんも多い。

【写真左】
城池公園南端のあずま屋付近から天ヶ岳東脈の江川砦を望む。ショウブかアヤメか分からないが棚田風に綺麗に整備されている。

【写真中】
咲きそろった花、ショウブかアヤメか良くわかりませ〜ん。古刀と新刀の区別はできるんですが〜
どなた様かご教示願えたら幸いです。

今週から来週の土日頃までが見頃かな。

【写真右】
城池親水公園の管理人「ウジノリ」くん、今回もお会いできました。城池をバックにポーズ

単独表示 城池公園.jpg 単独表示 花.jpg 単独表示 猫と城池.jpg
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和田島砦(韮山城砦群)   鬼丸 : 2012/06/05(Tue) 20:24 No.71
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今回は、韮山城に隣接する天ヶ岳に存在する城砦群の紹介です。この天ヶ岳一帯には、土手和田砦、和田島砦、金谷砦、江川砦(韮山城と城池を挟んで反対側の山)などがあり、多少の崩落や埋没の箇所がありますが人の手が加わらず、かなり良好な状態で遺されています。

【地図】
http://www.mapion.co.jp/m/35.047860_138.955222_9/?wgs=1

和田島砦は、天ヶ岳の支脈が南西方向に突きでたところに位置し、中心部には若宮八幡宮が鎮座し、周囲より一段と高くなっている。お社のある位置より一段下がったところに境内の広場があり、おそらく高台を含めたこの辺りが主郭と考えられます。

この広場の周囲は更に低くなって、腰郭とも帯郭とも言えそうな削平地が取り巻いている。広場の南側には虎口遺構が残り、その先約60〜70メートル位の間に長い土塁や数段に配置された曲輪らしきもの、また明らかに人の手によるものと思われる用途不明な窪地状の箇所も確認した。

また、神社の背部にあたる北側にはコンクリート舗装された取付け道があり、この道のためか曲輪らしき段状遺構が数箇所削られていた。

この道を麓下の部落方向に下ると、途中に天ヶ岳方向に続くケモノ道があり、この道沿いに小郭らしきものが点在しており、しばらくすると岩盤を堀削した大きな堀切に到達する。

砦全体は、高台のある主郭を中心として南北に数段の小郭を配置しその周りを腰郭などで補う形で、敵の進入を阻止するための堀もなく、あまり技巧的な砦ではないように感じる。捨て曲輪的な要素も多分にありますが、仮にここを捨ててしまったら他の城砦群への影響はかなりのものだと思います。

【写真左】
主曲輪と思われる若宮八幡宮のある高台、おそらく物見櫓的な構築物があったことが想像される。この位置は南側の虎口や北側の天ヶ岳方向に警戒の目をむけることができる。

【写真中】
高台下の境内及び虎口遺構、虎口の左側土塁が前方に突き出ているので、食違い虎口と思われ、また境内の広場は、捉え方によっては内枡形とも考えられます。
高台と広場を含めての大きさは30m×40m程度の広さで、広くもなく狭くもないと言った感じです。

【写真右】
ケモノ道に突如現れた大堀切、ちょうど土手和田砦と天ヶ岳砦両方に分岐出来る場所に位置しており、各砦への直接侵入を阻止するための遮断線であると思われます。岩盤を掘削して造られており、堀の中央には岩の土橋が残り、苔むして時代を感じさせます。堀切は土橋を中心に左右に竪堀となって谷底へ落ち込んでいます。

【駐車場】
江川邸と韮山郷土資料館共用の駐車場又は、蛭が小島の茶店の駐車場がお奨め。いずれも無料です。

単独表示 和田島本郭.jpg 単独表示 和田島虎口.jpg 単独表示 和田島背後.jpg
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Re: 和田島砦(韮山城砦群)   花散里 : 2012/06/05(Tue) 23:01 No.72

中世の城跡巡りは、基本的に山ですから現地では辛い時もありますね。
特に伸縮性のないジーンズなどは最悪で、靴にも十分に注意する必要があります。(誰に言っているかというと、次回ご一緒する予定の波平さんです(^^ゞ )
鬼丸さんの写真で、山歩きの辛さが想像できるでしょうか?
と言いつつ、次の城跡巡りでへたばったらどうしましょう(^_^;)

刀についても同じようなものかも知れませんが、やはり実物を見ないといけませんね。
書物を読んで分かった気になっていても、実際に目の当たりにすると何も見えていなかったことに気づきます。

今なら、漏れなく鬼丸さんのガイドとOFF会付です(^_^)/
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Re: 和田島砦(韮山城砦群)   波平 : 2012/06/05(Tue) 23:12 No.73

あららら…
「収縮性のあるズボンと足元をしっかり」とのご教示ですね。花散里さん、ありがとうございました(^^;)
あああ…静嘉堂文庫死の行軍を思い出してしまいました。平地でさえ鬼丸さんにはついて行けないのですから、苦手の山道となると大問題です。山道は肥後の縁頭だと風情があるんですが(笑)
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Re: 和田島砦(韮山城砦群)   鬼丸 : 2012/06/06(Wed) 20:21 No.74

花散里さん、波平さんレスありがとうございます。

基本は山登りですので、それなりの装備が必要となりますね。都内だったら石○スポーツなどの専門店もありますので、お気に入りのものが見つかりますよ。メーカーとしてはモン○ルとかミズ○、マムー○なんかが宜しいのでは?特に靴は、足に良く合ったものを購入することお薦めをします。

「静嘉堂文庫死の行軍」って、あの程度は食後のお散歩の距離ですよ。山へ行くということは、メタボ対策にも絶妙の効果がありますので、是非是非参加して下さいな波平さん!!

次回は和田島砦のとなり、土手和田砦の紹介を予定しています。
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韮山城の馬廻り衆(静岡県伊豆の国市)   鬼丸 : 2012/05/29(Tue) 19:03 No.70
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韮山城周辺を散策中に、可愛い伏兵に遭遇した。

飼い猫なのか野良猫なのかは判然としないが、人なつこい連中だ。カメラを向けても、じーっとこちらをみている。

長閑な田園地帯にある韮山城のあるこの土地は、猫も安心して暮らせる土地柄のようだ。北条早雲が隠居の地として選んだ理由が何となく分かるような気がする。

【写真左】
城池の堤から韮山城へ向かう途中で出会ったニャンコちゃん、韮山で最初に出会った猫なので「ソーウン」と命名する。シャイな性格なのか一定距離以上は近づかない。

【写真中】
本立寺近くで突如として現れたキジトラ模様が素敵な若い猫、カメラ目線でこちら窺う。なかなかの役者である。江川坦庵公に因んで「タローザエモン」と名付けてやった。

【写真右】
城池を挟んで韮山城の反対側、江川砦のふもとにある小曲輪で昼食休憩中に突如現れた三毛猫、笹丸の食べていた「オニギリ」目当てに近づいて来たらしい。こやつも人慣れしているようでガサガサと紙袋の音を出すと興味深いのか足元まで近寄ってくる。まことにウイヤツ、小田原の役に際しては、最後まで韮山城を守り抜いた「北条氏規」を偲んで「ウジノリ」くんと呼ぶことにした。

※ 今回紹介した猫ちゃんたち、韮山城周辺にいつもいるとは限りません。もし見かけたら見守って下さい。

単独表示 ーウン.jpg 単独表示 タローザエモン.jpg 単独表示 ウジノリ.jpg
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【本立寺陣城(その2)】   鬼丸 : 2012/05/27(Sun) 18:49 No.69
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本立寺陣城は、本立寺の裏山(七面山)一帯に広がり随所に山城の遺構が確認できる。韮山城包囲陣図によれば、蜂須賀小六の息子家政が約2千5百の軍勢で布陣している。登城路は、本立寺境内の鐘楼脇にある階段を登るとお稲荷さんのお社がある平場(曲輪)に着く。

そこから九十九折れの山道を登ること約10分程度で少し開けた場所に土塁が明瞭に確認できる虎口が見えてくる。この虎口は左右の土塁の並びが若干前後にずれて「食違い虎口」となっている。

ここから右手に横矢の効いた屏風折れの長土塁が延々と続き、長土塁は小曲輪を伴う箇所も散見される。途中、小曲輪を防御するための堀切が確認できる場所がある。

暫く長土塁と並行して進むと正面に七面山の御堂がある本曲輪に到着する。山頂に近い御堂のある付近は削平された平場となり、その背後には櫓台と思われる土盛や虎口遺構、更にその先には物見曲輪と堀切があり、南東方向へ続く尾根筋を警戒するためのものか。

本曲輪のある御堂から尾根伝いに北東方向へ下ると、少し高まりを持つ別の曲輪は見えてくる。曲輪の周りには腰曲輪を付帯し井戸跡もある。
井戸跡は現在でも水を湛えいるが、少々ドブ臭いがするので匂いをたよりに探せばすぐに発見できると思う。
このあと、尾根筋を浄念寺陣城方向へ下る予定であったが、ブッシュが酷く諦めて登城道を下る。

【写真左】
急な九十九折の登りきると現れる虎口遺構、藪の切れ目から急に視界が開ける。まさに虎が口を開けているようだ。

【写真中】
屏風折れの長土塁、正面や側面から鉄砲や弓矢を射かけられると逃げ場を失う。更に登城道の反対側は切岸状の断崖で、たとえ竹束を楯に進軍したとしても攻城兵は常に恐怖と戦いとなる。

【写真左】
小曲輪間を防御する堀切、かなり埋没しているようだが、輪郭は鮮明に残る。山城好きな人間にとって、山中でこの手の遺構を見つけた時の感動はなににも代えがたい。

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【速報】(第3回オフ会及び山中城まつり)   鬼丸 : 2012/05/22(Tue) 22:21 No.65
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5月20日(日)に、中世城郭紀行第3回オフ会を実施した。
今回は、静岡県三島市に所在する日本百名城の一つ山中城で開催された「第30回山中城まつり」の見学でした。

当日は天気に恵まれて県外・県内から家族連れの行楽客や歴史・城郭マニアの姿も多数見られた。今回のオフ会参加者は花散里さんと私の二人だけという少数勢力での出陣となった。

会場は大きく2つに分かれ、その一つ岱崎出丸会場では戦国合戦絵巻が演じられた。迫力の殺陣についつい見入ってしまった。来年は足軽役で良いので是非出演してみたい。

別の会場では地場産品の販売や、お祭りの定番「焼き鳥」、「焼きそば」などの露店が出され、あたり一面香ばしい匂いで包まれていた。また特別イベントとして山中城一周クイズラリーなどが行われたり、多彩な企画が満載で飽きの来ないひと時でした。

この祭りに合わせて城郭遺構の補修整備も行われたようで、特に西の丸にある障子堀は植芝が施され綺麗に復元されていた。その他の箇所も人の手が加わり非常に良い状態にあると言える。

昼食の時間を過ぎた午後1時半頃、以前に紹介した本丸東側の旧東海道脇にある「鰻工房竹屋さん」に鰻重を食べに駄目もとで突撃を敢行「お二人分ならご用意できますよ。」との返事に花散里さんと二人で顔を見合わせ「ラッキー」とアイコンタンクト。

この店の蒲焼は、タレが濃厚にも係らずしつこくなく三島市内に数ある鰻屋の中でもお気に入りの一店である。
関東圏内の旅番組やグルメ雑誌などで幾度となく紹介されているので、土日利用の際には予約を入れてからの来店が望ましい。

食後は、旧東海道の石畳の散策や山中城内にある「宗閑寺」にある北条方の武将間宮豊前守康俊公、豊臣方の武将一柳伊豆守直末公などのお墓を見学後にシャトルバスで三島の町まで戻る。

夕宴まで少々時間があるので佐野美術館に立ち寄る。今回の企画展は「猫」を題材にした「岩合光昭氏」の写真展が開催されていた。閉館時間が迫っていたが、来館者が後を絶たない程の賑わいである。来館者のほとんどの人がニコヤカな顔しているのがとても印象的だった。日本刀の展覧会とは明らかに雰囲気が違っていた。

6月3日(日)まで、猫の写真を持参すると入場料1割引きの特典があり、更に持参してきた写真をロビーの壁に
飾ってくれる。また持って来られた猫の写真を佐野美術館のホームページ上で紹介する予定もあるそうだ。

オフ会最後は、三島駅北口近くにある居酒屋さんで地元食材を活かした料理に舌鼓を打つ。本日の歩行距離約10q

花散里さん、お疲れさまでした。


【写真左】
一柳伊豆守直末公最期の場面、家臣に伴われ安全な場所に移動する直末公、史実よれば火縄銃の弾に当たり絶命したとされる。

【写真中】
整備された西の丸障子掘、その他の場所も補修整備が行われ見学し易い環境になっている。

【写真右】
偶然にも食することのできた鰻重、椀物はもちろん肝すいです。本当に美味しかった。

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Re: 【速報】(第3回オフ会及び山中城まつり)   波平 : 2012/05/22(Tue) 22:35 No.66

鬼丸さん、花散里さん。素敵なオフ会になってよかったですね。心も身体も胃袋も満足されている様子が伝わってきました。せっかくお誘いくださったのに、私は東京のど真ん中で朝から夕刻まで立ちっぱなしのしゃべりっぱなしと大変な一日になってしまいました。宮仕えの悲しさです。
改めて拝見する山中城は立派ですね。皆さんが大切にされている様子がよくわかりました。次回は是非参加させてください。
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Re: 【速報】(第3回オフ会及び山中城まつり)   花散里 : 2012/05/22(Tue) 23:18 No.67

鬼丸さん、またも一日お付き合いいただきありがとうございました。

初めて訪れた山中城は、私の想像を遥かに超える規模でした。
実際に自分の足で歩いてみると障子堀はもちろんですが、曲輪や虎口の配置も実によく考えられているのが改めて分かります。
「百聞は一見にしかず」とは、よく言ったものです。

基本的に「山登り」のようなものですから、日ごろの運動不足が堪え体力的には厳しいものがありますが、それを補って余りある楽しさがありますね。

城跡とウナギ、猫と地元食材、とても贅沢な一日を過ごさせていただきました(^_^)/

また機会があれば、ご案内のほどよろしくお願いします。

> 波平さん
次は、ぜひご一緒しましょう(^^)
ただし、運動不足を感じていられるなら、事前の準備も必要かと(^^ゞ
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Re: 【速報】(第3回オフ会及び山中城まつり)   鬼丸 : 2012/05/23(Wed) 21:04 No.68

>波平さん、ご一緒できるのを楽しみにしてましたが残念です。次回まで体を鍛えて置いて下さい。(笑) 鰻美味かったです。

>花散里さん、お疲れ様でした。あの居酒屋さんは「当り」でしたね。次回は神奈川県内か東京都内(23区を除く。)を予定したいです。
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本立寺陣城(静岡県伊豆の国市)   鬼丸 : 2012/05/19(Sat) 20:36 No.64
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本立寺は、江戸時代伊豆韮山の代官家と知られる江川家の菩提寺で日蓮宗の本山の一つに数えられる。弘長元年(1261年)に江川家十六代当主「太郎左衛門英親」が、伊豆の伊東に配流されていた「日蓮上人」を韮山に招聘し日蓮の教えを受ける。後に英親は日蓮の一字を授けられ「日久」と称した。

永正三年(1506年)に江川家二十四代当主「英盛」によって創建され、現在でも本堂裏手には江川家歴代の墓所がある。また境内には、「鎌倉東慶寺」にあったとされる梵鐘(国の重要文化財)や幕末の刀工で「大慶直胤」の高弟として知られる「小駒惣太平胤長」の墓や江川家手代(公事方)を務め、明治維新後には足柄県令(廃藩置県によって設置された行政区のひとつ。)となった「柏木忠俊」の墓などがある。

織田信長の戦略・戦術を踏襲した豊臣秀吉は、天正十八年(1890年)の小田原の役の前哨戦として韮山城攻撃の際に、周辺に多数の陣城(付城)を構築し包囲作戦を展開した。

徳川家康の家臣で松平家忠が著した「家忠日記(徳川家と外交・敵対関係にあった戦国大名の動向を知る史料として、また武家や大名の日常生活や習慣を知る史料として有名である。)」によれば「八日庚戌雨降、明後日十日ニにら山表ニ御取手可有之由御ふれ候」との触れで同月二十九日には韮山城攻城が開始されると同時に陣城(付城)の構築が始まり、約ひと月程度でほとんどの陣城(付城)が完成したと思われる。

この時秀吉は、配下の大名に「韮山義も付城堀、塀、柵出来候、是又可被干殺候」、「堀、柵を丈夫相付、鳥之かよいも無之被仰付候」などの文面の書状を発給している。

築城された陣城(付城)の数は九つあるといわれ、今回ご紹介する「本立寺陣城」をはじめとして「太閤陣屋陣城」、「追越山陣城」、「香山寺陣城」、「常念寺陣城」、「山木兼高陣城」、「上山田陣城」、「昌渓院陣城」、「木戸稲荷陣城」などがあります。「木戸稲荷陣城」以外は開発の波が押し寄せず、ほとんどが完存の状態でいまに残る。

つづく。


【写真左】(江川家の菩提寺である本立寺本堂)

さすがに風格を感じさせます。お寺の範囲はかなり広い。この本堂の裏山が本立寺陣城です。

【写真中】(国重要文化財指定の梵鐘)

本立寺の梵鐘です。鎌倉東慶寺にあったもので、鎌倉幕府滅亡後に北條邸を圓成尼寺に改装して移したが同寺が廃寺となった際に本立寺に移された。元徳二二年(1330年)の銘があり、銘文の末尾には大檀那菩薩戒尼圓成の文字が読み取れるという。

【写真右】(刀工:小駒惣太平胤長の墓)

大慶直胤の高弟と知られ、江川太郎左衛門英龍公に鍛刀の技を伝授した。その作品が今でも江川邸内の展示ブースで見ることができる。彼の作品は毎年十月頃に都内で開催される「大刀剣市」で「竹を模した小柄」を売品として見かけたことが何度かある。これと同様のものを他でも経眼しているので、おそらく江川家から依頼を受けて贈答用に作製したものではないかと推測します。

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