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浜松城(静岡県浜松市)   鬼丸 : 2012/04/30(Mon) 11:42 No.57

久ぶりの更新となります。今回は連休2日目に攻城した浜松城です。浜松城公園内ではイベントで「家康楽市(食のイベント)」が開催されていました。

詳細はこちらから:http://hamamatsunogenki.hamazo.tv/c568048.html

徳川家康が築いた浜松城は、天下統一への足がかりとなった城で、今年では「出世城」の愛称で呼ばれています。桶狭間の合戦後、今川家を離れた徳川家康は永禄十一年(1568年)に今川領への侵攻のため東進を開始したが甲斐武田信玄も駿河及び遠江の今川領を我が物にせんと狙っていました。

対武田勢の西進阻止のため三河の岡崎城を嫡男「信康」に譲り、当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際に天竜川により「背水の陣」となることから、浜松城の前身曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗退する意味に繋がることから縁起を担いで、平安時代から伝わる名称「浜松荘」に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めたといわれています。

西進を開始した甲斐の武田信玄は元亀三年(1573年)に、この城を攻めると見せかけた欺騙行動を行い徳川家康を挑発した。この計略にまんまと乗せられた家康は浜松城から打ってでますが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫したのが、かの有名な「三方原の戦」であります。

この時、家康は浜松城へ逃げ帰る途中に馬上で「うんこ」を漏らしたという説話は有名で、後に家康はこの敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられています。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれています。
画像はこちらから:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18704

また浜松城は代々の徳川家とゆかりの深い譜代大名が城主となり、歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになった。その中でも有名なのは天保の改革で知られる水野忠邦であります。

浜松城は南北約500m、東西約450m。三方原台地の斜面に沿い、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一直線に並ぶ「梯郭(ていかく)式」の築城法で、各曲輪(くるわ)が隣接しながら梯子状になっている様式であります。

浜松は5月3日からは浜松まつり(別名:凧あげまつり)が開催されます。浜松まつりの起源は、一説によると今からおよそ450余年前の永禄年間(1558〜1569年)に、当時の浜松を治めていた引間城主の長男誕生を祝って城中高く凧を揚げたことが、凧揚げの起源であると言われています。お越しの際には公共交通機関がおすすめ。

【アクセス】
その1:遠鉄バス JR浜松駅バスターミナル(13)(14)乗り場発のすべてのバス「浜松城公園」バス停下車徒歩約1分
その2:東名高速道路浜松ICより約30分/東名高速道浜松西ICより約30分、浜松城公園駐車場(約55台)または近隣の民間駐車場があります。

【写真左】(浜松城天守閣)
昭和30年に復元された天守閣内部は資料館や売店があります。家康グッズが沢山ありますよ。金色の「顰(しかみ)像」カードも売ってます。お守りに最適

【写真中】(会場で販売されていた、ゆるキャラグッズ)
左は「出世大名家康くん」、右は「武田菱丸(ひしまる)君」、敵方の武田勢をイベントに呼ぶとは遠州人の懐の深さを感じます。

【写真右】(浜松歴女探検隊のブース)
井伊の赤備えの甲冑は有名であります。これ全部牛乳パックで作られています。一領欲しい・・・

単独表示 浜松城.jpg 単独表示 キャラ.jpg 単独表示 紙.jpg

柏久保城周辺(静岡県伊豆市修善寺)   鬼丸 : 2012/04/22(Sun) 10:49 No.55

去る2月に静岡県伊豆市修善寺(旧田方郡修善寺町)にある柏久保城に攻城したの際、周辺付近を散策した時に面白いものを発見したのでご紹介します。
伊豆箱根鉄道修善寺駅を降りて修善寺温泉街に向かう途中、狩野川左岸の河岸段丘上に横瀬八幡宮という村の鎮守様ほどの大きさの神社があります。総本社は日向(大分)宇佐八幡宮、祭神は品陀和氣命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)とされています。
修善寺の温泉街に鎌倉幕府二代将軍頼家の墓所のある「指月殿」という御堂が現存しています。この御堂は伊豆最古の木造建築といわれ、ここに平安末期と比定される仁王像二体が安置されていますが、この仁王像は一時期この横瀬八幡宮に安置されていたと言われています。ちなみに指月殿は、北条政子が非業の最後を遂げた、我が子の冥福を祈って建立したもの。
この八幡宮には、漫画チックな狛犬さんがお社を守っています。由緒伝来は解りませんが、とにかく可愛いくてユニークな狛犬さんです。

【地理・案内】

http://www.mapion.co.jp/m/34.980203_138.945042_9/?wgs=1

【写真左・中】
たてがみも何もない「ナマコ頭」の狛犬さん。ドングリまなこで、締りない口、眉は毛虫のようなゲジゲジで、他の神社の狛犬さんと比べると威厳なんて微塵も感じられない。でもなんとなく「ほのぼの」とした感じが哀愁を誘いますね。ちなみにこの狛犬さん、静岡県下では最古級の狛犬さんらしい。

【写真右】
指月殿横にある、鎌倉幕府二代将軍「正二位征夷大将軍左金吾督源頼家公」の墓所です。修善寺温泉街にあり行楽シーズンには大勢の観光客で賑わいます。散策は行楽シーズンを外した平日がベストです。修善寺周辺には柏久保城のほか、修善寺城・狩野城・金山城などあり、少し離れて伊東市の鎌田城や伊豆の国市の韮山城や堀越御所遺跡などがあり城郭研究者や愛好家が多く訪れている地域です。

単独表示 狛犬1.jpg 単独表示 狛犬2.jpg 単独表示 源頼家公墓所.jpg

Re: 柏久保城周辺(静岡県伊豆市修善寺)   花散里 : 2012/04/23(Mon) 16:55 No.56

確かに、ユニークな狛犬ですねぇ。
別に参拝者を脅かす積りは無いのでしょうが、一般的に狛犬というものは境内の入口で威厳を見せて鎮座しているものですよね。

子供の頃は近所にあった神社の境内で鬼ごっこやかくれんぼをしたもんですが、夕方になって日が陰ってくるとそれまでは何ともなかった狛犬の顔が、急に恐ろしく見え始めたのを覚えています。
まるで「いつまでも子供だけで遊んでいないで、早く家に帰れ」、とでも言いたげでしたね。

それに引き替え、この狛犬の顔は確かに「ほのぼの」としていて怖さを感じられません。
それとも、長い年月の間に顔も変化して柔らかな表情になったのでしょうか?

新東名開通(失われた城郭)   鬼丸 : 2012/04/14(Sat) 17:42 No.54

新東名高速道路の御殿場ジャンクション(JCT)―三ケ日(みっかび)JCT間(162キロ)が今日の午後、先行開通した。
「高速道路建設はすべてムダであり悪」という風潮の中、着工から17年目にして予定より一年ほど早い開通という。昨年の東日本大震災以降は防災面や経済効果を期待してか世論は逆転し、高速道路建設反対論を唱えた先生方はテレビなどでお見かけしなくなった。

新東名は、地盤が堅固な南アルプスなどの山地を通る分、災害にも強いと言われている。東南海大地震が起きれば、東名は間違いなく津波などの大きな被害を受けると想定されています。新東名の方が地震にも津波にも強いことは確かでしょう。

しかし、この新東名建設に伴って静岡県内では多くの埋蔵文化財が姿を消してしまった。その一つに静岡市清水区にある「庵原山城」
がある。落語家で城好きの春風亭昇太師匠も中学生の頃、この庵原山城には良く通われたそうだ。

新東名の開通は、日本の流通経済にはプラスの効果をもたらすことは間違いないが、埋葬文化財だけではなく動植物の生態系やその他
色んなところに払った代償は計り知れないものがあると思う。

【写真左・中・右】(工事中の新東名高速、庵原山城付近)

単独表示 4671.jpg 単独表示 4686.jpg 単独表示 4691.jpg

さくら   鬼丸 : 2012/04/07(Sat) 21:38 No.51

天気の良い日は城攻めも良いのですが、草花もね。
ということで、地元にある国立遺伝学研究所の年に一度の一般公開に行って参りました。ここには桜が200種類以上植樹されており、西の大阪造幣局の桜の通り抜けと東の遺伝学研究所は桜名所の双璧と思っています。
また所内では色々なイベントがあり、遺伝学の研究テーマ展示として「モデル生物としてのマウス」、「ゲノム遺伝情報・進化」、そして今や日本中で関心のある「放射線・アイソトープ」に関する展示ブースもあり、城郭・日本刀・甲冑などの凝り固まった自分自身の頭をリフレッシュしてきました。

単独表示 さくら1.jpg 単独表示 さくら2.jpg 単独表示 さくら3.jpg

Re: さくら   波平 : 2012/04/07(Sat) 23:54 No.52

鬼丸さん、素敵な一日を過ごされましたね。
桜の淡い色を写真にするのは大変だと思いますが綺麗ですね。ところで桜の花はどうしてこうも日本の風土や私たちの心に響くのでしょうね。私の生まれた東京都豊島区には「染井」という地区があり、江戸時代には植木屋が多かった地区です。彼らの手で「ソメイヨシノ」が生まれたわけですが、私の勤務先にも「河津桜」「シダレダクラ」等々、そして石神井川沿いのソメイヨシノは今が満開です。

Re: さくら   鬼丸 : 2012/04/08(Sun) 09:44 No.53

波平さん、コメントありがとうございます。
桜の種類も沢山あるようで、「駿府桜」「三島桜」なんて品種もあるそうです。虎徹の居住地で有名な上野不忍池辺りも桜が綺麗なんでしょうね。

城攻めの途中で   鬼丸 : 2012/04/02(Mon) 18:44 No.40

城攻めの途中の景色です。この時期は色んな木や草花が元気です。
城跡を訪ねる副産物ですかねえ。

【写真左】(百花繚乱)
いろんな花が咲きそろっています。土塁や堀切もいいけどお花もね。

【写真中】(土塁上の土筆】
沢山採れば佃煮にもなる土筆くん、なんとなく土の香りがして良いものです。ご馳走さまでした。

【写真右】(三島大社にて)
鬼平犯科帳のエンデングでこんな風景がありましたね。この日は平日だったにもかかわらず結構な人の出でした。

単独表示 DSCF0001.jpg 単独表示 DSCF0015.jpg 単独表示 DSCF0037.jpg

Re: 城攻めの途中で   花散里 : 2012/04/02(Mon) 20:14 No.41

長く寒い冬から、ようやく桜がほころびてきました。
三島大社の桜も見事ですが、城跡には桜の花が似合いますね。

以前、波平さんと一緒にこてつ。さんの地元を訪れた際、神奈川ではとっくに散っていた桜が、小諸では見頃でした。

城跡と桜の花、夜空に月でもかかっていれば、無条件に日本人の心の琴線に触れるものがありますねぇ。

Re: 城攻めの途中で   鬼丸 : 2012/04/02(Mon) 21:08 No.42

花散里さん コメントありがとうございます。

小諸城ですか。こちらからもバスツアーを企画している旅行会社もあるようです。なんたって桜の似合う城址ですからね。

個人的には、信州山城ツアーなんてあったら良いのになあ〜と思っています。

Re: 城攻めの途中で   花散里 : 2012/04/02(Mon) 21:17 No.43

探せばあるんじゃないですかね〜、城跡めぐりツアー。

例えば、このような。

http://tour.club-t.com/vstour/WEB/web_tour3_tour_tmp.aspx?p_company_cd=1002000&p_course_no=215513&p_date=&p_from=800000&p_afset=&p_AffFrom=&p_baitai=923&p_baitai_web=TD03

Re: 城攻めの途中で   鬼丸 : 2012/04/03(Tue) 05:58 No.44

探せばあるもんですね。今度、波平さん誘って行きましょうか。
でも彼、出不精だからなあ〜。

情報ありがとうございました。

Re: 城攻めの途中で   菊久 : 2012/04/03(Tue) 15:44 No.45  HomePage

土筆は、炒めて卵とじしても美味しいですよ・・・ビールのアテにもピッタシ(^_-)

Re: 城攻めの途中で   花散里 : 2012/04/04(Wed) 08:03 No.46

菊久さん

うちは卵ではとじず、甘辛く煮ただけでした。
どちらかというと、ご飯のおかずといった感じでしたね。

Re: 城攻めの途中で   波平 : 2012/04/06(Fri) 20:18 No.47

花散里さん、その節はありがとうございました。
あれは楽しかったですね。

城跡めぐりツァー、よろこんで参加させていただきますよ(^_^)
鬼丸さんの健脚にはとてもついて行けそうもありませんが是非お誘いください。

美味しいもののご案内もよろしくお願いします(^^;)

菊久さん、お久しぶりです。
土筆が食べられることは知っていましたが、まだ食したことがありません。卵とじですか、どんな味がするんでしょうね。

Re: 城攻めの途中で   花散里 : 2012/04/06(Fri) 20:27 No.48

波平さん

土筆を召し上がったことが無いんですか?
それは、羨ましい(^^)

子供の頃と大人になってからは、味覚が変わりますよね?
子供の頃はそれほどでもありませんでしたが、大人になると土筆や菜の花などを食べると春を感じますねぇ。
土筆も、季節の味がするんです(^^)

その初めての感覚をこれから味わえるなんて、羨ましいですね(^^)

Re: 城攻めの途中で   波平 : 2012/04/06(Fri) 23:19 No.49

花散里さん、こんばんは。

「ふきのとう」の「ほろ苦い」味は血液が浄化されるみたいな気がしますから土筆もそんな感じなのでしょうか。

料理方法にも五ヶ伝があるのでしょうか?
是非、春の味を皆さんでご一緒させてください。

Re: 城攻めの途中で   鬼丸 : 2012/04/06(Fri) 23:44 No.50

菊久さん、波平さんコメントありがとうございます。
また、花散里さんホローありがとうございます。
「土筆誰の子 すぎなのこ」という通り、夏場の庭の敵ですが、日本人としては、四季の移り変わりの風物詩です。
菊久さんの仰せのとおり、調理法よってはお酒のオツマミに持ってこいですね。
タンポポの根っこのコーヒーも飲んでみたいです。

人間以外の雑兵(恐ろしい奴ら)   鬼丸 : 2012/03/31(Sat) 16:53 No.39

これから段々と暖かくなりますが、城攻めには色んな敵がいます。皆さん、こんな伏兵もいますので注意して攻城して下さい。

【写真左】(沼津市興国寺の本丸裏の大堀切り)
巨大なすずめ蜂の巣であります。ここの働き蜂(足軽ども)に刺されたら、それはもう大騒ぎとなります。
共通事項ですが、整備された城跡にはこの様な標識などがありますが、鳥も通わぬ山城ではありません。自己責任で格闘して下さい。

【写真中】(沼津市興国寺の東船着き場跡付近)
長いものには巻かれろ。いやいや、会うのもご遠慮します。

【写真右】(袋井市久野城)
どうして城跡には「マム君」が多いのだろうか?当局の嫌がらせ?

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小田原城三の丸外郭の散策ツアー   鬼丸 : 2012/03/24(Sat) 20:50 No.36

見送り予定していた「小田原城三の丸外郭の散策ツアー」に申込みが間に合い本日参加してきました。生憎の曇り空でしたが、諏訪原城の時のような雨に祟られずに散策日和でした。

午前10時に清閑亭に集合し、今回新たに史跡公園として暫定的に開放された三の丸外郭新堀土塁(旧MRAアジアセンター)を回り、小峰大堀切を経て城山公園から小田原駅西口までというコース。
特に「新堀土塁」は安全面の問題などから閉鎖していたそうで本日が開放初日ということでとてもラッキーでした。
参加者全員に大判の地図が用意され、ツアー終了後も資料として活用できる優れモノを頂いた。

【写真左】中世城郭遺構ではないが、小田原城の銅門
平成9年に復元され石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門として機能している。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に銅が用いられたことに由来する。

【写真中】新堀土塁での学芸員さんによる説明
新堀土塁からは、一夜城こと石垣山城方向の眺望が開け軍事上重要な地点であることが窺えるが、逆にこの地点を豊臣勢に奪取されたと仮定すると小田原本城は丸見えとなる。

【写真右】
小峰の大堀切
堀は直線的ではなく、屈曲部分を伴って「横矢(側面攻撃)」が掛かるようになっている。堀底を移動する敵の軍勢は常に鉄砲や弓矢などの攻撃にさらされて恐怖のどん底を味わうことになる。こういう大規模な土塁を見ると当時の土木技術の高さに驚かされる。ユンボやダンプカーもなく、どのような土木作業が行われたのか非常に興味が湧く。

単独表示 akagane.jpg 単独表示 shinhori.jpg 単独表示 komine.jpg

Re: 小田原城三の丸外郭の散策ツアー   花散里 : 2012/03/26(Mon) 23:34 No.37

鬼丸さん、再度の小田原城攻め、お疲れ様でした。
諏訪原城の雪辱が成ったようで、よかったですね。

新堀土塁や小峰の大堀切をみると、重機などを駆使した現代の土木工法も大きな顔はできませんね。
いかに人件費が安かったとはいえ、人力だけで大工事を成し遂げたのですから中世の人々も大したものだと言わざるを得ません。

現代とは違って大きな建築物がない当時、人々の感覚ではとてつもなく巨大なもとのして映ったでしょうね。

Re: 小田原城三の丸外郭の散策ツアー   鬼丸 : 2012/03/28(Wed) 19:21 No.38

花散里さん、コメントありがとうございます。

小田原城は、単なる城址公園とばかり思っていましたが、中世から近世にかけての遺構が大変良く残っていて、城マニアを飽きさせることがないお城ですね。

また機会がありましたら、次は一夜城(石垣山城)を攻めましょう。ここの入り口には、女優川島なおみさんのご主人鎧塚さんのお店があります。
奥様のお土産にスイーツでも如何でしょうか。

諏訪原城(静岡県島田市)発掘現場現地説明会   鬼丸 : 2012/03/18(Sun) 18:21 No.33

待ちに待った静岡県島田市(旧金谷町)にある諏訪原城の発掘現場現地説明会に行ってきましたが、雨天中止の看板が・・・小雨決行とホームページに書かれていたのに・・・残念である。

この日は、アンラッキーのことばかりであった。出発前に車の燃料を補給にとガソリンスタンドへ、まだ営業前で誰もいない。朝7時にやっていないとはドエライ大名商売だなと思い、一旦帰宅し朝食後再度スタンドへ、営業していた。

するとな・なんとリッター当たり普通よりも4円も高いではないか。正直めげた。なんやかんやで目指す諏訪原城に到着、辺りは小雨に煙り、霧も出て視界不良である。駐車場に車を止めていざ城内へと思いきや、本日中止の立て看板が目に入る。

や・やられた。城内から矢を射かけられたようなショックである。気を取り直して携帯電話で島田市博物館に連絡し、今後の予定を聞くと改めて現地説明会は実施しないとのこと。「本日使用予定のレジメがありますので寄って頂ければ差し上げますよ。」ということで一路島田市博物館に向かう。車のナビに従い運転すると10分程度で到着するはずなのにナビの野郎、遠回りを指示している。これを無視して最短距離で行くと今度は大渋滞にはまり、30分もかかってしまった。

博物館に到着レジメを頂く、なんとA5の片面刷りで図と写真だけで説明文が1行もない。家内の笹丸も口を開けて茫然としていた。
専門家でもこの一枚のレジメから情報を導き出すの無理であろう。

先月より神奈川県小田原の小田原城御用米曲輪現説と静岡県沼津市の興国寺城現説と連続参加となったが、両方とも非常に懇切丁寧でよかったので今回は余計にショックだった。

帰りは帰りで高速道路上で大渋滞に遭遇、非常に疲れた1日でした。

【写真左】
中止の立て看板である。雨が降ろうが槍が降ろうが実施して頂きたかった。

【写真中】
今年1月15日の攻城の際に撮影した一コマ、発掘前の大手外堀(旧11号堀)の径始状態

【写真右】
今回3月17日の大手外堀(旧11号堀)の発掘遺構、ベルトと呼ばれる層序を残している。これにより堀の埋没の推移や改修があれば、その工程などが分かる。

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Re: 諏訪原城(静岡県島田市)発掘現場現地説明会   花散里 : 2012/03/18(Sun) 22:33 No.34

鬼丸さん、お疲れ様でした<m(__)m>

天候が相手では文句の持っていきどころがありませんが、不運な一日でしたね。
春先は天気が安定しないものですが、先日の興国寺城の説明会でも雨模様の肌寒い日でした。
鬼丸さんのようなベテランはともかく、お年を召した方や女性なども多く参加されますので、足元の悪い中を強行して万が一怪我人などが出る危険性を考慮したのだと思います。

せめて、資料がちゃんとしていれば諦めもつくのですが・・・

Re: 諏訪原城(静岡県島田市)発掘現場現地説明会   鬼丸 : 2012/03/19(Mon) 05:34 No.35

花散里さん、コメント有難うございます。

諏訪原城は、来年の現説までお預けですね。

ところで小田原市では、24日(土)に「三の丸外郭の散策ツアー」を実施するそうです。
清閑亭〜新堀土塁〜小峯御鐘ノ台大堀切〜城山公園を散策する。詳細は小田原市のホームページから

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/shisekinoseibi/sinboridorui.html

申し込みが今日までなんですよね。予定が立たないので今回は見送りです。

興国寺城(出土品)   鬼丸 : 2012/03/16(Fri) 21:07 No.32

興国寺城は判明しているだけでも、約120年間で城主が16人も替わっており、その都度大なり小なりの改修が行われたことが発掘の成果や文献資料で確認できます。

三の丸では古い年代の盛り土などが見つかり、少なくとも3回の改修が行われた形跡がみつかり、これまで最古とみられていた北側の本丸より、三の丸の方が先に築城された可能性が高いとの説明があった。
出土した陶磁器やかわらけなどを分析し、三の丸の変遷を詳しく調べて行く予定だそうだ。


【写真左】
志野焼の破片、志野焼で有名なものに本阿弥光悦の「白楽茶碗銘不二山」は有名で国宝に指定されている。

【写真中】
常滑焼の破片、壺や甕などの日用雑器だろうと思われる。

【写真右】
かわらけ、釉(うわぐすり)をかけてない素焼きの陶器で、灯明皿や酒器などに使用された。

ヤクザ映画で出入りの前に盃を地面に投げつける行為は戦国時代の武将が出陣の際、戦勝祈願のため酒を飲み干した盃を地面に叩きつけて割る儀式を真似たものと言われる。

従って完形品の出土は極めて少なく、城跡でこれらが多量に出土する場所は儀礼的空間であったとされる。

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興国寺城(発掘現場現地説明会)   鬼丸 : 2012/03/11(Sun) 17:47 No.29

3月10日(土)、早くも中世城郭紀行第2回オフ会を開催した。参加者は私、花散里さん、家内の笹丸の合計3人と前回同様少人数で、しかも生憎の小雨で肌寒いなかでの現地説明会参加となった。

一般見学者も雨模様のためか前回の小田原城御用米曲輪の現地説明会よりは少ない感じでしたが、それでも100名前後の市民や愛好家が集まり、また地元新聞社など報道関係者の姿も見えた。

今回の発掘調査では大きく2つの発見があった。ひとつは二の丸と三の丸の境付近の西外堀(調査区A)で発見された船着き場跡と護岸の石列と木杭の発見である。

もう一つは、三の丸(調査区C・D)で現在でも確認できる土塁の内側部分より更に古いと思われる土塁や掘跡が次々と発見され、三の丸だけでも3〜4回にわたる改修があったことを裏付ける結果が出たそうだ。後世の開発行為により遺構の残存状態は良好とは言えない中での発掘作業、調査員さんや作業に従事した方々の苦労がわかる現場でした。


【写真左】(調査区A)
担当の職員さんの説明によると今現在でも水が湧き出ていて確認しにくい状況ですが、底の部分は岩盤を真っ平に削られた平場になっているそうだ。立ち上がり部分は切岸状にしてあり、その後埋め戻す際に施された石積み、更にその外側に護岸と考えらる位置に横板を張るための杭を見ることができた。

【写真中】(調査区C・D)
数次にわたる改修が、どの時代のものか比定できる遺物が出土していないが、総体的に15世紀から16世紀の遺物が多く特に出土した陶磁器を詳細に調べ、三の丸の変遷を詳しく調べていく予定だそうだ。

【写真右】(こんなん出ました〜)
刀の切羽である。後世の攪乱された土中から発見されたものなので何時の時代のものかは解らないそうだ。
刀剣愛好家にとっては興味のある遺物である。私見であるが穴の大きさから短刀又は小脇差かと思われる。


つ づ く

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Re: 興国寺城(発掘現場現地説明会)   花散里 : 2012/03/11(Sun) 23:03 No.30

鬼丸さん、丸一日ご案内いただき、ありがとうございました。
当日は寒の戻りで、風も冷たく雨模様の一日でしたが、職員さん・学芸員さんの熱心な説明に寒さも忘れ聞き入ってしまいました。
説明会の後にご案内いただいた本丸なども、想像以上に広大で見ごたえのあるものでした。

前回の小田原城でも感じましたが、写真などだけで理解できるものではなく、実際に自分の足で理解することが大事だということがよくわかります。

巨大なスズメバチの巣には怯みましたが、楽しい一日でしたよ。

鬼丸さん、学芸員さんとは顔見知りのようですから、そのうち「銅製の内輪ではなく、切羽と言うんだよ」と教えてあげてください(^_^)/

Re: 興国寺城(発掘現場現地説明会)   鬼丸 : 2012/03/12(Mon) 20:28 No.31

花散里さん 小雨の降る寒空の下の見学ご苦労さまでした。

学芸員さんも専門外だったのでしょうね。「切羽詰まった」あげくの表記だったと思われます。

あのズズメバチの巣は「特別保存」以上の価値がありそうですね。そのうちアップする予定です。

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