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山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/22(Sun) 21:54 No.1


中世城郭紀行にお越し頂きありがとうございます。
ここで紹介する城跡は天守閣や門、櫓など一切ありません。土の芸術をご堪能頂ければと思います。

第1回目は、静岡県三島市箱根西麓、標高580m付近に所在する日本百名城の一つで国指定の山中城の紹介です。


【地理・案内】
JR東海道線三島駅南口から「元箱根行き」のバスで30分程揺られると山中城跡バス停に到着する。バス停から箱根
方向を望むと、右が岱崎出丸、左側に三ノ丸、二の丸及び本丸と続き、更に西に突き出た尾根を進むと西の丸へ到達し
ます。

車を利用の場合、東名高速道を沼津ICで降り、沼津市街地方向には向かわずに、新しく完成した伊豆縦貫道に進入する
と、約15分程度で三島市の塚原IC交差点に着く、そこを左折し国道1号線に進入、箱根山方向に向かうと先のバス停
に到着する。バス停周辺には国道1号線を挟んで両側に無料駐車があります。

無料駐車場内には売店があり、日本百名城のスタンプが入口に置かれている。売店名物の「寒ざらし団子(¥300)」
は城攻め前の腹ごなしにうってつけ。アツアツを出してくれるので多少時間がかかる。また訪城記念に山中城ピンズも人
気の一品だ。

徒歩の場合は、JR三島駅南口から箱根旧街道ハイキングコースがあるので(約2時間、距離にして約8km)健脚の
方はこちらをお奨めする。(途中、旧東海道松並木や一里塚などが出迎えてくれる楽しいコースです。)

アクセスマップ(以下をクリックすると地図がでます。)

http://www.mapion.co.jp/m/35.156193_138.992361_8/?wgs=1


【概要】
山中城は、小田原城を本拠とする後北条氏の支城で駿河と相模の国境警備の城として、また東海道を城内に取り込む
ことにより関所的な役割も果たし戦略上重要な拠点として機能していた城でありました。

この城は北条流築城術の最高傑作といわれ畝堀、障子堀などの遺構が明瞭に残され城郭愛好者に人気の城跡であると
ともに眺望が素晴らしく、北は富士山と広大な富士の裾野が、南は天城連山と田方平野、そして目線を少し右に向け
れば駿河湾が一望できる絶好の観光スポットでもあります。

山中城の築城時期については、築城に関する一次資料(古文書などの文献資料)に乏しく詳しいことは分かっていない。
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で当主今川義元を亡くし弱体化が始まった今川氏に対して、永禄10年師走に甲斐の
武田信玄が駿河への侵攻作戦を開始し相模・伊豆・駿河に極度の軍事的緊張が高まる。

さらに永禄12年(1569)武田信玄は、和平協定である「甲相駿三国同盟(善得寺の会盟)」を反故にし、第2次駿河
侵攻を開始する。武田勢の攻撃は伊豆にまで押し寄せ、韮山城と山中城攻撃の様子が武田方の文書(甲陽軍鑑)に記録
が見えることから、山中城は永禄12年以前には既に完成していたものと思われます。その後天正15年(1587)から
同17年の間に大規模な改修及び増築工事が行われました。

豊臣秀吉が織田信長の後継者としてその地位を固めると、関東にもその権力を誇示するため「関東惣無事令」なるものを
公布した。その当時北条氏政・氏直親子は旧武田領の割譲問題で真田氏と係争中であったが、天正17年(1589)11月、
北条方の部将猪俣範直が真田方の名胡桃城を攻略し、ほぼ同じ時期に北条氏邦が宇都宮に侵攻を開始した。

これに激怒した秀吉は、全国の諸大名に北条氏政・氏直親子とその一門の討伐を命じた。これが世にいう「小田原の役」
(小田原征伐とも。)です。

天正18年(1590年)3月29日払暁、駿河の黄瀬川右岸にある長久保城を中心に展開していた豊臣勢は攻撃前進を開始
する。秀吉子飼いの主力勢は東海道沿いに前進、徳川家康率いる支隊は古い東海道(平安鎌倉古道)沿いに前進したもの
と思われます。

寅の刻(午前8時30分頃)、北条氏勝を総大将に、城将松田康長・副将間宮康俊以下の北条勢約4000名に対し、先
ずは岱崎出丸に攻撃を開始、右の第1線中村一氏隊、左の第1線に一柳直末隊、それを補う第2線に山内一豊隊、堀尾吉
晴隊、含めて約13000名が攻撃を開始した。後方予備隊には羽柴秀次・秀勝勢が約20000名が続き、徳川支隊約
30000名は西の丸から二の丸方向に攻撃を始めている。攻城側の総兵力は67000名と言われ、攻防戦は火縄銃主
体の銃撃戦だったようです。

丑の刻(午前11時頃)に落城、北条流築城術の総結集とも言われる城が僅か半日しか持ちこたえることが出来ませんで
した。北条勢の総大将北条氏勝は、城将松田康長や氏勝の弟直重・繁広の諫言に従って山中城を後に、本拠である相模国
玉縄城へ撤退、その他城将松田康長・間宮康俊以下多数が戦死しました。

また豊臣方では、一柳直末が岱崎出丸での銃撃戦で戦死、また山内一豊の弟康豊は北条勢より放たれた矢を頬当て受けて
負傷し、両軍とも多大な犠牲を払いました。

小田原開城後、山中城は廃城。江戸時代に町場として山中新田の集落が作られ、東海道箱根宿と三島宿との間の宿として繁
栄した。そのため主郭跡や北ノ丸跡及び岱崎出丸跡などは手付かずのまま残されていました。

城跡は昭和9年(1934)国の史跡に指定され、また昭和48年(1973)年の公園整備以来現在まで数度の発掘調査が行なわ
れ、これによって畝堀・障子堀の形態や橋・門・土塁・柵・土橋の跡が検出され、山中城の全容が明らかになった。出土品
には陶磁器、建築部材などが見つかっているが、武器・武具の発見が少ないことから城内の戦後処理が行われたと指摘する
意見もあります。

昭和54年(1979)に、国の史跡指定範囲が追加指定され、ゴルフ場のように芝生が張られ、土塁や堀の輪郭沿いには植樹
がされ、とても良く整備された史跡公園として無料で開放されています。平成18年(2006)には日本百名城の一つに指定さ
れました。

山中城の熾烈な戦闘の様子を中村一氏の配下で、山中城の一番乗りを果たしたとされる渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」とい
う書物で詳細を知ることが出来ます。

また、この渡辺勘兵衛を主人公とした、池波正太郎著の「戦国幻想曲」(角川文庫)や北条方の小笠原長治という人物を主
人公とした、津本陽著「新陰流、小笠原長治」(新潮社)などが刊行されているので興味のある方は一読をオススメ。

【おまけ】
攻城後にお腹が減ったら、三の丸内にあるこのお店で昼食を。ここのご主人は三島市内の有名店で修業されたらしい。

http://www.unagitakeya.com/

なお、ご主人が刀剣鑑定に詳しいかどうかは解りません。

写真:左より三の丸堀、西の丸障子堀、岱崎出丸畝堀

つづく。

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Re: 山中城(静岡県三島市)   花散里 : 2012/01/22(Sun) 22:16 No.2


新企画のスタート、おめでとうございます。
今後とも末永く、よろしくお願いいたします。

なかなか実際の城跡を訪れることは少ないのですが、機会があればぜひ本物に触れながらご指導ください。
(先に足腰を鍛えないといけませんね(^^ゞ )

Re: 山中城(静岡県三島市)   真改 : 2012/01/23(Mon) 12:03 No.3

新企画のスタート、おめでとうございます。
とても楽しみにしております。

よろしくお願い致します。<m(__)m>。


Re: 山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/23(Mon) 19:56 No.4

花散里さん、真改さん、早速のご訪問ありがとうございます。
城郭関連サイトは多々ありますが、少し趣向を変えたものにしたいと思います。
たとえば武将と刀剣などの逸話話しも盛り込みたいですね。

Re: 山中城(静岡県三島市)   波平 : 2012/01/24(Tue) 00:17 No.5

鬼丸さん
新企画楽しく拝見いたしました。
「三の丸堀、西の丸障子堀、岱崎出丸畝堀」こんなにもよく残り又、整備されているとは驚きました。
 九州の岡城趾に昔行きましたが、それとは違った風光明媚な明るさを感じます。最も平成の平和な時だからこそでしょうが。足腰を鍛錬してから是非伺いたいものです。鰻もおいしそうですねぇ。

Re: 山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/24(Tue) 19:01 No.6

波平さん ご訪問ありがとうございます。

山中城は良く整備されていますので、お散歩気分でも大丈夫ですよ。ただし、サンダル履きはお薦めできません。

ところで、数年前、電脳倶楽部佐野美術館特別展鑑賞ツアー後で、うな重を食べた「池田屋」風の鰻屋さんを覚えていますか?実は建物ごとなくなり更地になっていました。残念です。老舗だったのに。

あの店の二階床の間に飾ってあった、「旧陸軍野戦重砲兵連隊の大隊長からの感謝状」は記憶に残っています。

栄枯盛衰、山中城もそんな感じがします。

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