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山中城(宗閑寺を訪ねて)   鬼丸 : 2012/02/05(Sun) 17:03 No.10

三の丸内にひっそりと佇むお寺がある。寺名を東月山普光院宗閑寺といいます。今は無住で現在、寺の管理は三島市内にある寺院
が担当しているそうだ。

岱崎出丸での激烈な戦闘の末戦死した北条方の老将間宮豊前守康俊の娘で、徳川家康の側室となった於久の方が、山中城で戦死
した父親と一族の菩提を弔うために開基したと伝わる。

その後、於久の方と生前より親交の深かった駿府の華陽院(静岡市葵区)の住職で、後に芝の増上寺十四世となった了的上人が、彼
女の遺志を受けて華陽院の末寺として改めて建立した。

この寺の境内には、間宮一族だけでなく、かつて敵同士であった北条、豊臣両軍の武将の墓が静かに並んでいる。松尾芭蕉ではない
が「夏草やつわものどもが夢のあと」の句が良く似合うところだ。

【写真左】
北条方の武将の墓で、右から「追沼帯刀氏雅」、「長谷川志摩守近秀」、「多米出羽守長定」の文字が読みとれますが、いずれも法名
は刻まれていない。このうち多米家は、初代早雲から仕えている重臣で御由緒家として格付けされた名門である。

【写真中】
右の大きい墓石から山中城の城将「松田康長」の墓石で、家紋の下に「山中院殿松屋玄竹大居士」の文字が読み取れる。その左に三
つ五輪塔がありますが、右から「間宮豊前守康俊」、「間宮監物信俊(康俊弟)」、「間宮源十郎信冬(康俊息子)」のもので、墓石台座に
名前と法名が刻まれていますが風化と磨耗で読みとることが難しい。

五輪塔の台座の前にお酒が供えられていました。ラベルを見ると「林蔵」と印刷されていた。「おやっと」思った方は、勘が鋭いか知識の
広い方ですね。幕末に樺太を探検し「間宮海峡(タタール海峡)」を発見した「間宮林蔵」は、この「間宮一族」の末裔で他に「ターヘル・
アナトミア」を翻訳し「解体新書」を著した「杉田玄白」もこの一族の末裔です。

【写真右】
ほかの墓石に比べて重厚なこの墓は、豊臣方の武将「一柳伊豆守直末」のものです。墓石の前面には法名「大通院殿前豆州太守長
運大禅定門」と刻また文字が読み取れます。この墓石は直末の玄孫で播磨小野藩主「一柳末礼」が元禄十一年(1698)に建てたもの
で、もともとの墓所は国道1号線を三島方面に下った笹原新田という部落にある一柳庵というところであり「胴塚」とも呼ばれています。

「胴塚」があれば「首塚」もあります。直末が戦死した直後、敵に主人の首級が渡るのを恐れた、旗指足軽の「留兵衛」は直末の首級を
抱えて戦線を離脱、前日まで露営していた駿河の長久保城近くの黄瀬川支流桃沢川右岸の高台に首級を埋葬した。
留兵衛はこの地に土着し、末長く主人の首塚を守ったという。首塚は直径約8m弱の墳墓で、子孫の伊予小松藩主「一柳頼親」が文化
四年(1807)に奉納した石灯篭などを見ることができる。

陣中(おそらく駿河の長久保城か。)で黒田如水から直末戦死の報を聞いた秀吉は、持っていた箸を落とし「直末を失った悲しみで
関東を得る喜びも失せてしまった。」と嘆き、三日三晩黙して語らなかったという逸話が残っています。


宗閑寺を訪ねて つづく。

単独表示 追沼・長谷川・多米.jpg 単独表示 間宮・松田.jpg 単独表示 一柳直末.jpg

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   波平 : 2012/02/06(Mon) 23:29 No.11

戦国というとついつい「信長・秀吉・家康」ときて代表的な決戦のみに目を奪われがちです。しかし、このように城を枕にして覚悟の討ち死にをした武将たちこそ近代的な「義務感」を身につけた人々だったのかとも思います。武士道という言葉はこの時代にはなかったかもしれませんが「己の為すべきことを成す」概念こそ近代人の感覚かもしれません。…などと考えながら鬼丸さんの解説を拝読いたしました。
 間宮林蔵…世界地図で唯一我が日本人の名前がついた間宮海峡と父から教わりました。大日本帝国海軍の艦船中最も愛された艦「間宮」、何故って専門の補給艦として糧食輸送にあたり、船内にはアイスクリーム製造器やサイダー製造器なんていうのがあったそうです。とにかく腹が減っては…ですものね(笑)

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   鬼丸 : 2012/02/08(Wed) 18:41 No.12

波平さん、コメント有難うございます。

「給糧艦:間宮」をご存じとはさすがですね。大日本帝国海軍「給糧艦」として約2万人弱の食料を三週間分貯蔵できるとともに、艦内では
饅頭や羊羹などの嗜好品から豆腐、厚揚げ、蒟蒻、蒲鉾など多種多様な加工食品が製造できたらしい。

間宮林蔵は探検家として有名ですが、裏にもう一つの顔がありました。それは幕府の隠密として生涯を終えたことです。

そして給糧艦の間宮も、もう一つの顔を持っていたことをご存じでしょうか。給糧艦の間宮は、商船構造になっており艦内には色んな部屋が造られいた。
実はそこには当時として最新鋭の通信機器が設置され、艦船同士の通信内容や無電よる軍事機密の漏えい、許可された周波数を遵守しているかなど
の通信監査を行う特務艦としての任務を持っていました。

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   波平 : 2012/02/08(Wed) 23:29 No.13

鬼丸さん、近藤重蔵も「お庭番」として有名ですね。東京都北区滝野川 正受院には甲冑姿の石像があるそうですから、こんど訪ねてきますね。

>約2万人弱の食料を三週間分貯蔵できる
すごいですねえ、これは初めて知りました。
又、通信監査についても知りませんでした。ありがとうございます。

日本の艦船で私の好きな点は人物名を冠していないことです。
「間宮」は海峡名からとられましたし、南極観測船「白瀬」も人名からではありません。イギリスでは「プリンス・オブ・ウェールズ」なんて皇太子の称号をつけた船が撃沈されたりしてその名誉はどうなんでしょうか。異論のある方もいらっしゃるでしょうが、中国の戦闘機の名前なんてやたらに「殲」だの勇ましい名前ですが、なんたる悪趣味でしょうか。まあ文化の成熟度の違いといえば…おっとっと…だいぶ横道へそれました。
鬼丸さん、続編を楽しみにしています。

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