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興国寺城(静岡県沼津市)   鬼丸 : 2012/03/10(Sat) 09:41 No.28

今回ご紹介するのは静岡県沼津市にある国指定史跡「興国寺城跡」です。北条早雲公旗揚げの城として、度々歴史小説などに
取り上げられるほど有名な城で支配者も北条、今川、武田、徳川と時代変遷があり、まさ中世城郭紀行のサブタイトルに相応しい
城であります。


【地理・案内】
所在地は静岡県沼津市根小屋 で愛鷹山の尾根筋が駿河湾方向へ伸びる舌状台地先端部に築かれ、城内には隣の富士市から沼津市内に抜ける根方街道が通り、また城跡から南へ一直線に伸びる竹田道(現在は興国寺通りと改名されている。)という道があり旧東海道の十三番目の宿駅、原宿に連絡している。

原宿は、宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ源平合戦の折、源義経がここで馬揃え(閲兵式の様なもの。)を行ったと伝え
られ、また鎌倉時代の紀行文「十六夜日記」にも原中宿として登場していることから、古くからの交通の要所だったことが窺える。

この浮島原は、原始から中世にかけては広大な湿原であった。その湿原の中のあちらこちらに島があり、その島だったと思われる微高地から縄文時代や弥生時代の遺跡が多数発見されている。

【概要】
興国寺城は「杜若城」、「深田山城」、「高国寺城」などの別名がある。現在、沼津市教育委員会による継続的な発掘調査により
保存整備が行われている。興国寺城は築城年代等不明な点が多く今後の発掘成果がおおいに期待される。

この城は、北条早雲(伊勢新九郎盛時、北条早雲は自らこの名前を一度も使用していない。)が、今川家の家督争いで今川氏親を
助けた功により、長享元年(1487)に富士郡下方十二郷とともに与えられた城で、明応2年(1493)の伊豆侵攻の足掛かりの城と
されているが、これは江戸時代に書かれた「北条五代記」や「今川記」などに記述が見られるだけで、他の文献には記述が見られ
ない。一部の研究者の間ではこれら記録の信憑性を問い創作ではないかとの意見も聞かれ、現在研究者の間では興国寺の築城年代や当時の今川氏と北条氏の様子などの再検討が行われている。

富士郡下方十二郷は、現在の富士市の潤井川左岸地区の広い範囲を示す地域で、もともとは犬懸上杉家の領地であったが、今川
範政が上杉禅秀の乱鎮圧に際しての功績により、将軍足利義持から拝領した土地とされる。

今川家の家督を継いだ氏親の最大の関心事は、父義忠が為しえなかった遠江の平定と斯波氏からの遠江守護職の奪還であり
また、この時点では今川家よる富士川以東の支配権は確立されておらず、実際にこの地域は関東管領のひとつ山内上杉家が支配権を行使していた地域であり、他人の土地を恩賞として与えるということは考えにくいと思う。

また興国寺城は伊勢新九郎盛時の伊豆進出後、興国寺城は今川家に返されたとされるが、天文六年(1536)から同十四年(1545)の間に勃発した今川義元と北条氏綱・氏康との抗争、いわゆる「第1次河東の一乱」(河東とは富士川左岸以東の地)では、戦術上の要衝の地にありながら、この城が使用された形跡が窺われない。

そこで考えられるのは、この時点では興国寺という寺院はあったが興国寺城は存在しなかった。中世においては寺院を臨時の陣場として取り立てることは全国的にもあることなので、伊勢新九郎が拝領したのは興国寺城ではなく城にも代用できる興国寺という寺院だったかもしれない。

そうすると北条早雲公旗揚げの城ではなく、早雲公旗揚げの地とするのが正しいのだろうが・・・
今後の発掘成果により、興国寺の寺院としての遺構や城郭として体裁を整えた初期段階の遺構が検出されることにより、歴史の隠れた部分が見えてきそうな感じする。

【アクセス】

http://www.numazu-s.or.jp/yajikita/koukokuji2.htm

東名高速道路「沼津」ICより車15分〜20分

JR東海道線「原」駅より徒歩25分〜35分


つ づ く


【写真左】北条早雲公旗上げの記念碑
【写真中】天守台の石垣
【写真右】天守台のある土塁から城内をみる。

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