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浜松城(静岡県浜松市)   鬼丸 : 2012/04/30(Mon) 11:42 No.57

久ぶりの更新となります。今回は連休2日目に攻城した浜松城です。浜松城公園内ではイベントで「家康楽市(食のイベント)」が開催されていました。

詳細はこちらから:http://hamamatsunogenki.hamazo.tv/c568048.html

徳川家康が築いた浜松城は、天下統一への足がかりとなった城で、今年では「出世城」の愛称で呼ばれています。桶狭間の合戦後、今川家を離れた徳川家康は永禄十一年(1568年)に今川領への侵攻のため東進を開始したが甲斐武田信玄も駿河及び遠江の今川領を我が物にせんと狙っていました。

対武田勢の西進阻止のため三河の岡崎城を嫡男「信康」に譲り、当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際に天竜川により「背水の陣」となることから、浜松城の前身曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗退する意味に繋がることから縁起を担いで、平安時代から伝わる名称「浜松荘」に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めたといわれています。

西進を開始した甲斐の武田信玄は元亀三年(1573年)に、この城を攻めると見せかけた欺騙行動を行い徳川家康を挑発した。この計略にまんまと乗せられた家康は浜松城から打ってでますが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫したのが、かの有名な「三方原の戦」であります。

この時、家康は浜松城へ逃げ帰る途中に馬上で「うんこ」を漏らしたという説話は有名で、後に家康はこの敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられています。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれています。
画像はこちらから:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18704

また浜松城は代々の徳川家とゆかりの深い譜代大名が城主となり、歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになった。その中でも有名なのは天保の改革で知られる水野忠邦であります。

浜松城は南北約500m、東西約450m。三方原台地の斜面に沿い、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一直線に並ぶ「梯郭(ていかく)式」の築城法で、各曲輪(くるわ)が隣接しながら梯子状になっている様式であります。

浜松は5月3日からは浜松まつり(別名:凧あげまつり)が開催されます。浜松まつりの起源は、一説によると今からおよそ450余年前の永禄年間(1558〜1569年)に、当時の浜松を治めていた引間城主の長男誕生を祝って城中高く凧を揚げたことが、凧揚げの起源であると言われています。お越しの際には公共交通機関がおすすめ。

【アクセス】
その1:遠鉄バス JR浜松駅バスターミナル(13)(14)乗り場発のすべてのバス「浜松城公園」バス停下車徒歩約1分
その2:東名高速道路浜松ICより約30分/東名高速道浜松西ICより約30分、浜松城公園駐車場(約55台)または近隣の民間駐車場があります。

【写真左】(浜松城天守閣)
昭和30年に復元された天守閣内部は資料館や売店があります。家康グッズが沢山ありますよ。金色の「顰(しかみ)像」カードも売ってます。お守りに最適

【写真中】(会場で販売されていた、ゆるキャラグッズ)
左は「出世大名家康くん」、右は「武田菱丸(ひしまる)君」、敵方の武田勢をイベントに呼ぶとは遠州人の懐の深さを感じます。

【写真右】(浜松歴女探検隊のブース)
井伊の赤備えの甲冑は有名であります。これ全部牛乳パックで作られています。一領欲しい・・・

単独表示 浜松城.jpg 単独表示 キャラ.jpg 単独表示 紙.jpg

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