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山中城(見どころ)   鬼丸 : 2012/01/29(Sun) 10:55 No.7

今回は、山中城見学のお奨め場所を少しばかり。

【写真左】
山中城の西側尾根の防御施設に、「西の丸」とその前面に構築された「西櫓(角馬出し)」があります。西櫓との間には
「障子堀」が配置されており、一段と防御力を高めています。
「馬出し」とは、二つの虎口(出入り口)と1つの広場が組み合わされたもので、北条流の築城法ではこの馬出しを角形に
構築し、更に畝堀や障子堀がセットになって攻撃力と防御力を増しています。西の丸から西櫓への連絡は写真の中央部辺り
に板橋を架けて通行していたと思われます。出撃に際しては西櫓北側に板橋が架けられ、南側には土橋が今でも残っていて
そこから出撃したのでしょう。この西櫓と西の丸は、城郭愛好者にとっては身震いを感じさせる山中城一番の見どころだ。
更に付け加えれば、城内一番の富士山絶景ビューポイントでもあります。

【写真中】
元西櫓跡から二の丸(北条丸)の櫓台を見る。この橋の下はもちろん畝堀となっています。左に櫓台、右に虎口が設けられ
ています。左の櫓台と右の虎口の土塁がブラインドとなって、二の丸内部が直接見通すことができない構造になっています。

【写真右】
二の丸櫓台と虎口の様子
攻城方はこの虎口のある坂道を槍や刀を手に取り前進してきます。すると左右にある土塁及び前方にある櫓台から鉄砲の玉
や弓矢の矢が雨あられのように射かけられます。(横矢掛などいいます。)やっと辿りついた虎口は狭く左右死角となりど
ちらに前進してよいか解らない。そうこうしている間に左右から槍衾でぶすっと。恐ろしい仕掛けだ。ちなみに解説版によ
ると、この櫓台の高さは4.5mだそうです。これに井楼を築くと10m位の高さになり攻城勢にとってはかなりの威圧感を与え
たでしょう。

【用語の解説】
虎口:城の出入り口のこと。城内の各曲輪の出入り口も虎口といいます。城砦の縄張りで重要な場所と捉えられ、各種の工夫
   がなされています。前述写真右の虎口は坂虎口と平入り虎口の複合したものと思われます。
曲輪:城内の守備位置ごとに区画された平面空間をいいます。城将が指揮を執る場所を本曲輪といい、兵の屯所や塩・米・硝
   煙の貯蔵施設などの曲輪や水源のある曲輪を特に水の手曲輪などという。
横矢:城内外に近づく敵兵に対して側面攻撃をすること。城の縄張りや築城に関して重要な要素であり、特に虎口部分では横
   矢が多く用いられています。それは虎口が堀や土塁が開口した部分に造られるからです。

つづく。

単独表示 西櫓跡.jpg 単独表示 元西櫓から二の丸櫓.jpg 単独表示 二の丸櫓台と虎口.jpg

Re: 山中城(見どころ)   波平 : 2012/01/29(Sun) 23:26 No.8

鬼丸さん、丁寧な解説ありがとうございます。
山中城址の整備されている様子と城の備えがよくわかります。やはり実戦をくぐり抜けた城には迫力があります。しかしこれほどの城がどうして短期間で落城の憂き目を見たものでしょうか。いよいよ訪蹟したくなりました。

Re: 山中城(見どころ)   鬼丸 : 2012/01/30(Mon) 21:33 No.9

波平さん、「どうして短期間で落城の憂き目を見たのか。」

まず考えられるのが圧倒的な兵力の差であったと思います。城の攻防における兵力比は、攻め手10に対して守り手1で互角
とされています。つまり守備兵100名に対して攻城兵1000名で互角ということです。この根拠は軍学書で有名な孫子の兵法
「故用兵之法」に記述を見ることができます。

山中城攻防戦では豊臣勢は北条勢の16倍とも17倍とも言われています。これでは多勢に無勢、数字から見ても勝ち目を見
出すことは無理からぬことでしょう。手薄の場所から逐次突破されるのは必然です。

箱根神社の文書(もんじょ)の中に「松田康長消息」という2通の古文書が残されています。これは山中城の合戦直前に書かれ
た情況報告書と言うべきもので、以下の要旨が書かれています。「二子山もその他の山も小田原の防御にはならない。足柄、山
中、韮山の各城はそれぞれに防御準備をしているが、敵の豊臣勢の兵力は余りにも多い。」また「敵の陣営も食料が底をつきそ
うなので長期戦に持ち込む様子はない。われらも城を枕に討死を覚悟している。」

また総大将であった北条氏勝は、玉縄城の留守を預かる家臣の堀内日向守あてに「わずかな軍勢で豊臣勢の大軍を防ぎようも
ない小田原へ援軍を要請しても誰も来る気配がない。かくなるうえは討死を覚悟しているので玉縄城のことは宜しく頼む。」旨の書状
を出しています。

要するに後詰の兵力もないまま戦闘に突入し、あっけなく落城してしまったということです。





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