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興国寺城(静岡県沼津市)   鬼丸 : 2012/03/10(Sat) 09:41 No.28

今回ご紹介するのは静岡県沼津市にある国指定史跡「興国寺城跡」です。北条早雲公旗揚げの城として、度々歴史小説などに
取り上げられるほど有名な城で支配者も北条、今川、武田、徳川と時代変遷があり、まさ中世城郭紀行のサブタイトルに相応しい
城であります。


【地理・案内】
所在地は静岡県沼津市根小屋 で愛鷹山の尾根筋が駿河湾方向へ伸びる舌状台地先端部に築かれ、城内には隣の富士市から沼津市内に抜ける根方街道が通り、また城跡から南へ一直線に伸びる竹田道(現在は興国寺通りと改名されている。)という道があり旧東海道の十三番目の宿駅、原宿に連絡している。

原宿は、宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ源平合戦の折、源義経がここで馬揃え(閲兵式の様なもの。)を行ったと伝え
られ、また鎌倉時代の紀行文「十六夜日記」にも原中宿として登場していることから、古くからの交通の要所だったことが窺える。

この浮島原は、原始から中世にかけては広大な湿原であった。その湿原の中のあちらこちらに島があり、その島だったと思われる微高地から縄文時代や弥生時代の遺跡が多数発見されている。

【概要】
興国寺城は「杜若城」、「深田山城」、「高国寺城」などの別名がある。現在、沼津市教育委員会による継続的な発掘調査により
保存整備が行われている。興国寺城は築城年代等不明な点が多く今後の発掘成果がおおいに期待される。

この城は、北条早雲(伊勢新九郎盛時、北条早雲は自らこの名前を一度も使用していない。)が、今川家の家督争いで今川氏親を
助けた功により、長享元年(1487)に富士郡下方十二郷とともに与えられた城で、明応2年(1493)の伊豆侵攻の足掛かりの城と
されているが、これは江戸時代に書かれた「北条五代記」や「今川記」などに記述が見られるだけで、他の文献には記述が見られ
ない。一部の研究者の間ではこれら記録の信憑性を問い創作ではないかとの意見も聞かれ、現在研究者の間では興国寺の築城年代や当時の今川氏と北条氏の様子などの再検討が行われている。

富士郡下方十二郷は、現在の富士市の潤井川左岸地区の広い範囲を示す地域で、もともとは犬懸上杉家の領地であったが、今川
範政が上杉禅秀の乱鎮圧に際しての功績により、将軍足利義持から拝領した土地とされる。

今川家の家督を継いだ氏親の最大の関心事は、父義忠が為しえなかった遠江の平定と斯波氏からの遠江守護職の奪還であり
また、この時点では今川家よる富士川以東の支配権は確立されておらず、実際にこの地域は関東管領のひとつ山内上杉家が支配権を行使していた地域であり、他人の土地を恩賞として与えるということは考えにくいと思う。

また興国寺城は伊勢新九郎盛時の伊豆進出後、興国寺城は今川家に返されたとされるが、天文六年(1536)から同十四年(1545)の間に勃発した今川義元と北条氏綱・氏康との抗争、いわゆる「第1次河東の一乱」(河東とは富士川左岸以東の地)では、戦術上の要衝の地にありながら、この城が使用された形跡が窺われない。

そこで考えられるのは、この時点では興国寺という寺院はあったが興国寺城は存在しなかった。中世においては寺院を臨時の陣場として取り立てることは全国的にもあることなので、伊勢新九郎が拝領したのは興国寺城ではなく城にも代用できる興国寺という寺院だったかもしれない。

そうすると北条早雲公旗揚げの城ではなく、早雲公旗揚げの地とするのが正しいのだろうが・・・
今後の発掘成果により、興国寺の寺院としての遺構や城郭として体裁を整えた初期段階の遺構が検出されることにより、歴史の隠れた部分が見えてきそうな感じする。

【アクセス】

http://www.numazu-s.or.jp/yajikita/koukokuji2.htm

東名高速道路「沼津」ICより車15分〜20分

JR東海道線「原」駅より徒歩25分〜35分


つ づ く


【写真左】北条早雲公旗上げの記念碑
【写真中】天守台の石垣
【写真右】天守台のある土塁から城内をみる。

単独表示 1.jpg 単独表示 2.jpg 単独表示 3.jpg

山中城(宗閑寺の不思議な場所)   鬼丸 : 2012/03/03(Sat) 08:41 No.27

先回は、宗閑寺にある北条方と豊臣方の武将のお墓についてアップさせて頂いた。

宗閑寺の建物の裏に、すこしばかり不思議な空間があります。お寺の裏といえば大体墓地になっていることが多いが、ここのお寺
の裏もやはり墓地になっていた。

山中城攻防戦で亡くなった、名も無き将兵の五輪塔でもないかとあたりを散策すると、奇妙な彫刻が施された墓石が複数目に飛び
込んできた。墓碑にはこれまた風変わりな戒名が刻まれ、年紀をみると江戸時代のものである。しかしそれらの墓石がどういう意
味するものなのかは解らなかった。後日ネットで三島市の歴史に関するサイトを検索してみたら、なんと「隠れキリシタンの墓で
はないか」とのこと。

宗閑寺は、山奥にある小さなお寺ではあるが徳川将軍家に縁のお寺である。(ちなみに宗閑寺の屋根の軒瓦は三つ葉葵の紋章が
施されている。)何故この場所に「隠れキリシタンの墓」があるのだろうか?

この疑問を解消すべく、更に検索を重ねると以外な情報を入手することが出きた。それは箱根にある北条氏五代の菩提寺「早雲寺」
にも同じような「隠れキリシタンの墓」があるとか。

偶然かもしれないが北条氏に関係したところに、このようなお墓が残されていることに何か因縁めいたものを感じるが、結論を見
出すまでには至りませんでした。


【写真左】
墓石の上部に変わった装飾が見られる。通常の場合はこの辺には家紋などが刻まれているのだが・・・

【写真中】
奇妙な彫刻、何をモチーフにしているのか見当がつかない。、杖にも見えるし、あるいは人物をデフォルメしているようにも見える。

【写真左】
前出の写真左のものを、更に豪華な装飾を施した感じがする。

近世宗教史などは、あまり知られていない史実や遺跡が全国にかなりあるそうだ。山城同様に貴重な歴史遺産として後世に残さねばならないと思う。

今回で、山中城攻城は一区切りとします。まだまだ沢山の見所がありますが紹介しきれないのが現状です。

【追記】
山中城では、毎年5月の第3日曜日に三島山中城まつり実行委員会主催の「山中城祭り」というイベントが開催されます。なかでも
「戦国合戦絵巻(殺陣)」は見ごたえがあり、戦国好きには堪りません。

晴天に恵まれれば駿河湾や富士山が一望でき、更に整備された芝生の緑と赤や白の躑躅の花が綺麗で家族揃って楽しめます。
また、会場では「寒ざらし団子」や「三島コロッケ」なども発売されますので是非とも足を運んで頂ければと思います。


単独表示 DSCF0008.jpg 単独表示 DSCF0010.jpg 単独表示 DSCF0009.jpg

小田原城御用米曲輪(その3)   鬼丸 : 2012/02/24(Fri) 08:23 No.26

【写真左】
北条氏政公(中央左の五輪塔)と氏照公(中央右の五輪塔)の墓石、一番左の大きな墓石は氏政公の奥方のもの。

墓所前のお店の軒先に「幸せの鈴」なるものが置いてある。この鈴に願いをかけて持ち帰り、願いがかなったらここに鈴
を返えしにくるのがお約束になっているようだ。墓所にある由緒を記した説明板には「願いがかなったら、幸せの鈴を結
びに来てください。幸せの鈴が一杯になれば、ここに眠る領主への、なによりの供養となるでしょう。」と書かれていた。

初代早雲公からの「四公六民」の善政をもって領国支配を行った北条氏、それを慕う領民たちの思いが平成の時代まで、
受け継がれているような気がしてなんとも心地よい感じがした。  

【写真中】
小田原市内には、いたるところに戦国時代や江戸時代の遺構が残っています。これは幸田門跡付近に残る土塁で江戸
時代のものとされていますが、上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻撃した際には、この付近まで兵を進めたと言われて
います。

【写真右】
現地説明会のあとのオフ会の一コマ
ここのお店は、焼肉店特有のベタベタ感がなく店内は綺麗で雰囲気のあるお店だ。店員さんの接客マナーも良く、ホルモン
の部位別に美味しい焼き方などをアドバイスしてくれる。お奨めは大根を薄くスライスしたものに牛刺しを巻いた、北条巻
なるもの。大根のシャキシャキ感とお肉の脂のコラボがなんとも言えない。小田原城攻城の際には是非お立ち寄りを。

詳しくはこちら

http://r.gnavi.co.jp/ga10501/



単独表示 墓所.jpg 単独表示 土塁.jpg 単独表示 ホルモン.jpg

小田原城御用米曲輪(その2)   鬼丸 : 2012/02/19(Sun) 17:30 No.23

本題の発掘現場の写真です。

【写真左】
今回の発掘調査では、御用米曲輪の輪郭をはっきりとさせ、今後の整備に方向性を持たせることを目的としていましたが、
調査が進むにつれて重要な発見が相次ぎ、その一つは戦国時代の障子堀や石積みを伴う堀の検出で、特に江戸時代の
本丸、二の丸付近からの障子堀の発見は珍しく、これら堀の検出により小田原城の歴史や構造、特に曲輪の変遷を考え
る上では貴重な発見で、これまで考えられていた戦国期の小田原城の縄張り自体を再検討する必要があるそうだ。

【写真中】
もう一つは、現在の本丸広場にある売店の裏側で、御用米曲輪側の斜面盛土部から江戸時代の鉄門(くろがねもん)跡及
び御用米曲輪から本丸へ連絡する階段状の登城道と、それに伴う排水設備などの遺構が検出された。
この付近は1923年(大正12年)の関東大震災により石垣などが崩落した箇所で、現在でも大きな石材がごろごろしている
場所である。

【写真右】
御用曲輪北側にある土塁の基底部付近からの遺物の出土状況です。
ここからは、中世の土器(かわらけ)が多量に出土していた。おそらく出土地点付近に饗応などの儀礼を行う空間が存在
したものと推測される。また、この付近に残る土塁は戦国時代の遺構として認識されていたが、遺物の出土状況からこれ
ら土塁は近世小田原城に伴うもので、戦国期の遺構面に盛土して構築したものではないかとの意見も聞かれた。

次回へつづく。

単独表示 堀障子.jpg 単独表示 登城路.jpg 単独表示 基底面.jpg

Re: 小田原城御用米曲輪(その2)   鬼丸 : 2012/02/23(Thu) 11:21 No.24

【速報】

来る3月10日(土)に国指定史跡興国寺城跡発掘調査現地説明会が行われます。

北条早雲公旗上げの城として有名なお城です。一見の価値あり。

詳しくはこちら

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisei/kouhou/kouhounumazu/1431/page12-13.pdf

Re: 小田原城御用米曲輪(その2)   鬼丸 : 2012/02/24(Fri) 07:20 No.25

【速報】その2

来る3月17日(土)に国指定史跡諏訪原城跡発掘調査現地説明会が行われます。

甲州流築城法の三日月堀や丸馬出しの遺構が残る城郭・歴史マニア必見の城跡です。

詳しくはこちら

http://www.city.shimada.shizuoka.jp/hakubutu/bunkazai/hakubutubunkazaomoyoosi/haku-bun-suwaharagennchi_3.jsp

小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   鬼丸 : 2012/02/16(Thu) 18:34 No.14

さる、2月4日(土)に中世城郭紀行第1回オフ会として、小田原城御用米曲輪の発掘現場で行われた現地説明会に
花散里さん、家内の笹丸、私の3人で行って参りました。

午前10時40分、小田原駅構内で花散里さんと再会のご挨拶をした後、駅前の横丁にある「北条氏政公、氏照公」の
墓所にお参り(この場所、最近若者に人気のあるスポットらしい。詳細は後日)、昼食を駅中の麺どころで花散里
さんともどもチャーシュー麺を食する。

説明会の開始は午後1時30分からなので、時間潰しに小田原城天守閣へ移動し、館内をウロウロ観て回る。
十数年前に訪城した時と展示品はあまり変わらず、展示されていた刀剣類は発錆し手入れの悪さを残念に思う。

定刻の20分前に現地入り、受付で説明会のレジメと別の場所で行われる報告会の入場整理券を頂き、いざ発掘現場
へ。説明会が始まる前に、どのような遺構が検出されているか下調べのため現場を一周見学、江戸時代の排水施設
が検出されたところで、説明会前にも係らず若い女性の学芸員さんがいろいろと説明してくれたのは非常にラッキー
でした。

ところで、小田原城は他藩の城とは違い、江戸城の出城で徳川将軍家のものだったことをご存じでしょうか。将軍
が京へ上洛する際などに使用するため、本丸は将軍家専用、藩主は二の丸に御殿を建て居住していたそうです。
(簡単にいえば、小田原城本丸は将軍家専用の本陣みたいなもの。)

今回発掘場所の「御用米曲輪」は、本丸と二の丸の間に位置し、幕府の蔵が存在していたことからこの曲輪名が付け
られた。「御用米」とは幕府直轄領で取れた年貢米をいい、本来は軍事用の備蓄米だったが、幕府財政の悪化による
財政再建や災害や飢饉などの時に利用されるようになった。有名な二宮尊徳さんも小田原地方が飢饉のおり、ここの
御用米を活用したといわれている。

この曲輪は戦国時代からあったようで、北条氏時代には百間蔵という名称ですでに倉庫群が存在していたようである。
小田原の役には、ここに沢山の兵糧米が備蓄されていたからこそ、世にいう「小田原評定」ができたのかもしれない。

【写真左】
復興された天守閣、もちろん鉄筋コンクリート製でございます。1960年(昭和35年)完成し、既に半世紀も経ている。
あと百年もしたら、この天守閣も昭和の遺産として文化財になるのかなあ?

【写真中】
今回の発掘現場の一部です。近くに行かないとなんだか良くわかりません。外周の溝は、この曲輪が野球場として使
われていた時に、スタンドを構築するため掘削されたもの。曲輪のアウトラインではありません。

【写真右】
現場説明担当の学芸員さん。ドカジャンに作業服そしてゴム長靴と完全装備のバリバリの学芸員さんだ。この方の説明
は非常に丁寧で聞きやすく、花散里さんも「発掘現場の現地説明会は初めての参加だが、内容がとても分かり易く勉強
になった。」とのコメントを頂いた。

次回へつづく。

単独表示 天守閣.jpg 単独表示 発掘現場.jpg 単独表示 DSCF0048.jpg

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   花散里 : 2012/02/16(Thu) 22:59 No.15

鬼丸さん、先日は発掘説明会にお誘いいただき、ありがとうございました。

鬼丸さんも触れていますが、このような学術調査の場には初めて参加したわけですが、一言で言って「楽しく、勉強になった」に尽きますね。
やはり、何事も実際に自分の目で見ると、素直に理解できることが多いですね。

小田原城は小学校の日帰り遠足で訪れて以来、かれこれ40年以上振りになりますが、当時とはかなり様子が異なっていました。
馬出しや城門などが再建されている以外にも、自分自身の変化がそう感じさせたのだと思います。

また、機会がありましたら、ぜひお誘いください。

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   波平 : 2012/02/17(Fri) 00:15 No.16

同級生で小田原城内高校の出身者がいました。昭和40年代に父と訪れ、売店で土産に買った木製の鯱が今でも兜のミニチュア人形ケースに入れてあります。城というと天守だけの復元が一時期多かったようですが、緊急発掘以外にもこのような学術調査が進んでいるのはうれしいかぎりですね。

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   鬼丸 : 2012/02/17(Fri) 19:56 No.17

花散里さん、波平さん、コメントありがとうございます。

>自分自身の変化がそう感じさせたのだと思います。
花散里さん、大変に重みのある言葉ですね。日本刀はなんなのか、これを知るためにも城郭散策は有益だと感じています。

波平さん、今度現地説明会にご一緒しましょう。発掘現場は埋め戻されるか、破壊されるかのどちらかです。美術館や刀剣
店で見る日本刀より新鮮味がありますよ。

まだ正確な情報ではありませんが来月上旬に静岡県沼津市にある興国寺城の現地説明会があります。この城は北条早雲公
旗揚げの城として有名です。皆さん是非ご一緒に城攻めしませんか?

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   花散里 : 2012/02/18(Sat) 14:21 No.18

鬼丸さん

今のところ、3月上旬であれば特に予定はありませんので、参加できる見込みです。
詳細は、後ほど連絡を取り合いましょう。

−−−−−
今回から、「投稿ランキング」機能を有効にしてみました。
この掲示板の上部にあるタイトル画像の下にある「投稿ランキング」をクリックすると現在の状態がわかります。

本日現在で、鬼丸さんがもう一回の投稿で正八位上、波平さんは正八位下に叙せられたばかり、真改さんは1回の投稿ですので従八位下、私がこの投稿で従八位上となります。

官位相当表によれば、鬼丸さんが隼人佑(はやとのすけ)任官間近、波平さんは中宮大属(ちゅうぐうだいさかん)あたり、真改さんは和泉掾(いずみのじょう)あたりでしょうか。

まぁ、先は長いですが、まずは下国の国司(従六位下:投稿50回)を目指して投稿ください(^_^)v

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   鬼丸 : 2012/02/18(Sat) 18:54 No.19

花散里さん

また、面白いカラクリ(企画)を考えましたね。従八位下からのスタートはおまけかな?本来は小初位下が一番下でした
よね。

ところで興国寺城現説について、詳細が解り次第ご連絡します。この情報は、先月の5日に現場の学芸員さんから直接
入手したもので今だおおやけに公表されていませんので、公表があり次第ご連絡します。

興国寺城現説のあと、なにを肴に一杯やりましょうかね?おっとその前に神奈川の小机城か東京の八王子城を攻めよう
かと思っています。

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   花散里 : 2012/02/18(Sat) 19:30 No.20

鬼丸さん

おっしゃるとおり、律令制の位階は小初位下から正一位までの30ランクです。
明治初期の太政官制だと、上下がなくなって20ランク。
明治20年の叙位条例や大正15年の位階令ですと、従八位からの16ランクですね。

小初位や大初位だと任官できる位にあまりなじみがないので、大小初位を省いて26ランクとしました。

お望みでしたら、律令制の30ランクにいつでも変更できます(^^ゞ

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   波平 : 2012/02/18(Sat) 23:23 No.21

花散里さん
私は「蔭位の制」を適用して特進というのは…むりでしょうね(^_^;)

Re: 小田原城御用米曲輪(発掘現場現地説明会)   花散里 : 2012/02/19(Sun) 00:33 No.22

波平さん

「蔭位の制」ですか・・・なるほど、考える余地はありますね。

「蔭位の制」そのものは「親の七光り」ということなので、いくらなんでも親子二代で電脳倶楽部に参加されている方はいないでしょう。
しかし、この「中世城郭紀行」だけに捉われず、「電脳倶楽部」全体に関する投稿数をカウントすることにすれば、例えば波平さんの場合はざっと数えても過去ログを含め350回以上の書き込みがあります。
今の基準ですと、いきなり「正三位 大納言」ですね。

なじみのある官位に絞って「電脳倶楽部 官位相当表」を作り、電脳倶楽部全体の投稿数で叙位をおこない本人の望む官職に任官する、といった感じでしょうか?
まぁ、その場合は叙位の基準も見直すことになると思いますが。

山中城(宗閑寺を訪ねて)   鬼丸 : 2012/02/05(Sun) 17:03 No.10

三の丸内にひっそりと佇むお寺がある。寺名を東月山普光院宗閑寺といいます。今は無住で現在、寺の管理は三島市内にある寺院
が担当しているそうだ。

岱崎出丸での激烈な戦闘の末戦死した北条方の老将間宮豊前守康俊の娘で、徳川家康の側室となった於久の方が、山中城で戦死
した父親と一族の菩提を弔うために開基したと伝わる。

その後、於久の方と生前より親交の深かった駿府の華陽院(静岡市葵区)の住職で、後に芝の増上寺十四世となった了的上人が、彼
女の遺志を受けて華陽院の末寺として改めて建立した。

この寺の境内には、間宮一族だけでなく、かつて敵同士であった北条、豊臣両軍の武将の墓が静かに並んでいる。松尾芭蕉ではない
が「夏草やつわものどもが夢のあと」の句が良く似合うところだ。

【写真左】
北条方の武将の墓で、右から「追沼帯刀氏雅」、「長谷川志摩守近秀」、「多米出羽守長定」の文字が読みとれますが、いずれも法名
は刻まれていない。このうち多米家は、初代早雲から仕えている重臣で御由緒家として格付けされた名門である。

【写真中】
右の大きい墓石から山中城の城将「松田康長」の墓石で、家紋の下に「山中院殿松屋玄竹大居士」の文字が読み取れる。その左に三
つ五輪塔がありますが、右から「間宮豊前守康俊」、「間宮監物信俊(康俊弟)」、「間宮源十郎信冬(康俊息子)」のもので、墓石台座に
名前と法名が刻まれていますが風化と磨耗で読みとることが難しい。

五輪塔の台座の前にお酒が供えられていました。ラベルを見ると「林蔵」と印刷されていた。「おやっと」思った方は、勘が鋭いか知識の
広い方ですね。幕末に樺太を探検し「間宮海峡(タタール海峡)」を発見した「間宮林蔵」は、この「間宮一族」の末裔で他に「ターヘル・
アナトミア」を翻訳し「解体新書」を著した「杉田玄白」もこの一族の末裔です。

【写真右】
ほかの墓石に比べて重厚なこの墓は、豊臣方の武将「一柳伊豆守直末」のものです。墓石の前面には法名「大通院殿前豆州太守長
運大禅定門」と刻また文字が読み取れます。この墓石は直末の玄孫で播磨小野藩主「一柳末礼」が元禄十一年(1698)に建てたもの
で、もともとの墓所は国道1号線を三島方面に下った笹原新田という部落にある一柳庵というところであり「胴塚」とも呼ばれています。

「胴塚」があれば「首塚」もあります。直末が戦死した直後、敵に主人の首級が渡るのを恐れた、旗指足軽の「留兵衛」は直末の首級を
抱えて戦線を離脱、前日まで露営していた駿河の長久保城近くの黄瀬川支流桃沢川右岸の高台に首級を埋葬した。
留兵衛はこの地に土着し、末長く主人の首塚を守ったという。首塚は直径約8m弱の墳墓で、子孫の伊予小松藩主「一柳頼親」が文化
四年(1807)に奉納した石灯篭などを見ることができる。

陣中(おそらく駿河の長久保城か。)で黒田如水から直末戦死の報を聞いた秀吉は、持っていた箸を落とし「直末を失った悲しみで
関東を得る喜びも失せてしまった。」と嘆き、三日三晩黙して語らなかったという逸話が残っています。


宗閑寺を訪ねて つづく。

単独表示 追沼・長谷川・多米.jpg 単独表示 間宮・松田.jpg 単独表示 一柳直末.jpg

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   波平 : 2012/02/06(Mon) 23:29 No.11

戦国というとついつい「信長・秀吉・家康」ときて代表的な決戦のみに目を奪われがちです。しかし、このように城を枕にして覚悟の討ち死にをした武将たちこそ近代的な「義務感」を身につけた人々だったのかとも思います。武士道という言葉はこの時代にはなかったかもしれませんが「己の為すべきことを成す」概念こそ近代人の感覚かもしれません。…などと考えながら鬼丸さんの解説を拝読いたしました。
 間宮林蔵…世界地図で唯一我が日本人の名前がついた間宮海峡と父から教わりました。大日本帝国海軍の艦船中最も愛された艦「間宮」、何故って専門の補給艦として糧食輸送にあたり、船内にはアイスクリーム製造器やサイダー製造器なんていうのがあったそうです。とにかく腹が減っては…ですものね(笑)

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   鬼丸 : 2012/02/08(Wed) 18:41 No.12

波平さん、コメント有難うございます。

「給糧艦:間宮」をご存じとはさすがですね。大日本帝国海軍「給糧艦」として約2万人弱の食料を三週間分貯蔵できるとともに、艦内では
饅頭や羊羹などの嗜好品から豆腐、厚揚げ、蒟蒻、蒲鉾など多種多様な加工食品が製造できたらしい。

間宮林蔵は探検家として有名ですが、裏にもう一つの顔がありました。それは幕府の隠密として生涯を終えたことです。

そして給糧艦の間宮も、もう一つの顔を持っていたことをご存じでしょうか。給糧艦の間宮は、商船構造になっており艦内には色んな部屋が造られいた。
実はそこには当時として最新鋭の通信機器が設置され、艦船同士の通信内容や無電よる軍事機密の漏えい、許可された周波数を遵守しているかなど
の通信監査を行う特務艦としての任務を持っていました。

Re: 山中城(宗閑寺を訪ねて)   波平 : 2012/02/08(Wed) 23:29 No.13

鬼丸さん、近藤重蔵も「お庭番」として有名ですね。東京都北区滝野川 正受院には甲冑姿の石像があるそうですから、こんど訪ねてきますね。

>約2万人弱の食料を三週間分貯蔵できる
すごいですねえ、これは初めて知りました。
又、通信監査についても知りませんでした。ありがとうございます。

日本の艦船で私の好きな点は人物名を冠していないことです。
「間宮」は海峡名からとられましたし、南極観測船「白瀬」も人名からではありません。イギリスでは「プリンス・オブ・ウェールズ」なんて皇太子の称号をつけた船が撃沈されたりしてその名誉はどうなんでしょうか。異論のある方もいらっしゃるでしょうが、中国の戦闘機の名前なんてやたらに「殲」だの勇ましい名前ですが、なんたる悪趣味でしょうか。まあ文化の成熟度の違いといえば…おっとっと…だいぶ横道へそれました。
鬼丸さん、続編を楽しみにしています。

山中城(見どころ)   鬼丸 : 2012/01/29(Sun) 10:55 No.7

今回は、山中城見学のお奨め場所を少しばかり。

【写真左】
山中城の西側尾根の防御施設に、「西の丸」とその前面に構築された「西櫓(角馬出し)」があります。西櫓との間には
「障子堀」が配置されており、一段と防御力を高めています。
「馬出し」とは、二つの虎口(出入り口)と1つの広場が組み合わされたもので、北条流の築城法ではこの馬出しを角形に
構築し、更に畝堀や障子堀がセットになって攻撃力と防御力を増しています。西の丸から西櫓への連絡は写真の中央部辺り
に板橋を架けて通行していたと思われます。出撃に際しては西櫓北側に板橋が架けられ、南側には土橋が今でも残っていて
そこから出撃したのでしょう。この西櫓と西の丸は、城郭愛好者にとっては身震いを感じさせる山中城一番の見どころだ。
更に付け加えれば、城内一番の富士山絶景ビューポイントでもあります。

【写真中】
元西櫓跡から二の丸(北条丸)の櫓台を見る。この橋の下はもちろん畝堀となっています。左に櫓台、右に虎口が設けられ
ています。左の櫓台と右の虎口の土塁がブラインドとなって、二の丸内部が直接見通すことができない構造になっています。

【写真右】
二の丸櫓台と虎口の様子
攻城方はこの虎口のある坂道を槍や刀を手に取り前進してきます。すると左右にある土塁及び前方にある櫓台から鉄砲の玉
や弓矢の矢が雨あられのように射かけられます。(横矢掛などいいます。)やっと辿りついた虎口は狭く左右死角となりど
ちらに前進してよいか解らない。そうこうしている間に左右から槍衾でぶすっと。恐ろしい仕掛けだ。ちなみに解説版によ
ると、この櫓台の高さは4.5mだそうです。これに井楼を築くと10m位の高さになり攻城勢にとってはかなりの威圧感を与え
たでしょう。

【用語の解説】
虎口:城の出入り口のこと。城内の各曲輪の出入り口も虎口といいます。城砦の縄張りで重要な場所と捉えられ、各種の工夫
   がなされています。前述写真右の虎口は坂虎口と平入り虎口の複合したものと思われます。
曲輪:城内の守備位置ごとに区画された平面空間をいいます。城将が指揮を執る場所を本曲輪といい、兵の屯所や塩・米・硝
   煙の貯蔵施設などの曲輪や水源のある曲輪を特に水の手曲輪などという。
横矢:城内外に近づく敵兵に対して側面攻撃をすること。城の縄張りや築城に関して重要な要素であり、特に虎口部分では横
   矢が多く用いられています。それは虎口が堀や土塁が開口した部分に造られるからです。

つづく。

単独表示 西櫓跡.jpg 単独表示 元西櫓から二の丸櫓.jpg 単独表示 二の丸櫓台と虎口.jpg

Re: 山中城(見どころ)   波平 : 2012/01/29(Sun) 23:26 No.8

鬼丸さん、丁寧な解説ありがとうございます。
山中城址の整備されている様子と城の備えがよくわかります。やはり実戦をくぐり抜けた城には迫力があります。しかしこれほどの城がどうして短期間で落城の憂き目を見たものでしょうか。いよいよ訪蹟したくなりました。

Re: 山中城(見どころ)   鬼丸 : 2012/01/30(Mon) 21:33 No.9

波平さん、「どうして短期間で落城の憂き目を見たのか。」

まず考えられるのが圧倒的な兵力の差であったと思います。城の攻防における兵力比は、攻め手10に対して守り手1で互角
とされています。つまり守備兵100名に対して攻城兵1000名で互角ということです。この根拠は軍学書で有名な孫子の兵法
「故用兵之法」に記述を見ることができます。

山中城攻防戦では豊臣勢は北条勢の16倍とも17倍とも言われています。これでは多勢に無勢、数字から見ても勝ち目を見
出すことは無理からぬことでしょう。手薄の場所から逐次突破されるのは必然です。

箱根神社の文書(もんじょ)の中に「松田康長消息」という2通の古文書が残されています。これは山中城の合戦直前に書かれ
た情況報告書と言うべきもので、以下の要旨が書かれています。「二子山もその他の山も小田原の防御にはならない。足柄、山
中、韮山の各城はそれぞれに防御準備をしているが、敵の豊臣勢の兵力は余りにも多い。」また「敵の陣営も食料が底をつきそ
うなので長期戦に持ち込む様子はない。われらも城を枕に討死を覚悟している。」

また総大将であった北条氏勝は、玉縄城の留守を預かる家臣の堀内日向守あてに「わずかな軍勢で豊臣勢の大軍を防ぎようも
ない小田原へ援軍を要請しても誰も来る気配がない。かくなるうえは討死を覚悟しているので玉縄城のことは宜しく頼む。」旨の書状
を出しています。

要するに後詰の兵力もないまま戦闘に突入し、あっけなく落城してしまったということです。





山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/22(Sun) 21:54 No.1


中世城郭紀行にお越し頂きありがとうございます。
ここで紹介する城跡は天守閣や門、櫓など一切ありません。土の芸術をご堪能頂ければと思います。

第1回目は、静岡県三島市箱根西麓、標高580m付近に所在する日本百名城の一つで国指定の山中城の紹介です。


【地理・案内】
JR東海道線三島駅南口から「元箱根行き」のバスで30分程揺られると山中城跡バス停に到着する。バス停から箱根
方向を望むと、右が岱崎出丸、左側に三ノ丸、二の丸及び本丸と続き、更に西に突き出た尾根を進むと西の丸へ到達し
ます。

車を利用の場合、東名高速道を沼津ICで降り、沼津市街地方向には向かわずに、新しく完成した伊豆縦貫道に進入する
と、約15分程度で三島市の塚原IC交差点に着く、そこを左折し国道1号線に進入、箱根山方向に向かうと先のバス停
に到着する。バス停周辺には国道1号線を挟んで両側に無料駐車があります。

無料駐車場内には売店があり、日本百名城のスタンプが入口に置かれている。売店名物の「寒ざらし団子(¥300)」
は城攻め前の腹ごなしにうってつけ。アツアツを出してくれるので多少時間がかかる。また訪城記念に山中城ピンズも人
気の一品だ。

徒歩の場合は、JR三島駅南口から箱根旧街道ハイキングコースがあるので(約2時間、距離にして約8km)健脚の
方はこちらをお奨めする。(途中、旧東海道松並木や一里塚などが出迎えてくれる楽しいコースです。)

アクセスマップ(以下をクリックすると地図がでます。)

http://www.mapion.co.jp/m/35.156193_138.992361_8/?wgs=1


【概要】
山中城は、小田原城を本拠とする後北条氏の支城で駿河と相模の国境警備の城として、また東海道を城内に取り込む
ことにより関所的な役割も果たし戦略上重要な拠点として機能していた城でありました。

この城は北条流築城術の最高傑作といわれ畝堀、障子堀などの遺構が明瞭に残され城郭愛好者に人気の城跡であると
ともに眺望が素晴らしく、北は富士山と広大な富士の裾野が、南は天城連山と田方平野、そして目線を少し右に向け
れば駿河湾が一望できる絶好の観光スポットでもあります。

山中城の築城時期については、築城に関する一次資料(古文書などの文献資料)に乏しく詳しいことは分かっていない。
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で当主今川義元を亡くし弱体化が始まった今川氏に対して、永禄10年師走に甲斐の
武田信玄が駿河への侵攻作戦を開始し相模・伊豆・駿河に極度の軍事的緊張が高まる。

さらに永禄12年(1569)武田信玄は、和平協定である「甲相駿三国同盟(善得寺の会盟)」を反故にし、第2次駿河
侵攻を開始する。武田勢の攻撃は伊豆にまで押し寄せ、韮山城と山中城攻撃の様子が武田方の文書(甲陽軍鑑)に記録
が見えることから、山中城は永禄12年以前には既に完成していたものと思われます。その後天正15年(1587)から
同17年の間に大規模な改修及び増築工事が行われました。

豊臣秀吉が織田信長の後継者としてその地位を固めると、関東にもその権力を誇示するため「関東惣無事令」なるものを
公布した。その当時北条氏政・氏直親子は旧武田領の割譲問題で真田氏と係争中であったが、天正17年(1589)11月、
北条方の部将猪俣範直が真田方の名胡桃城を攻略し、ほぼ同じ時期に北条氏邦が宇都宮に侵攻を開始した。

これに激怒した秀吉は、全国の諸大名に北条氏政・氏直親子とその一門の討伐を命じた。これが世にいう「小田原の役」
(小田原征伐とも。)です。

天正18年(1590年)3月29日払暁、駿河の黄瀬川右岸にある長久保城を中心に展開していた豊臣勢は攻撃前進を開始
する。秀吉子飼いの主力勢は東海道沿いに前進、徳川家康率いる支隊は古い東海道(平安鎌倉古道)沿いに前進したもの
と思われます。

寅の刻(午前8時30分頃)、北条氏勝を総大将に、城将松田康長・副将間宮康俊以下の北条勢約4000名に対し、先
ずは岱崎出丸に攻撃を開始、右の第1線中村一氏隊、左の第1線に一柳直末隊、それを補う第2線に山内一豊隊、堀尾吉
晴隊、含めて約13000名が攻撃を開始した。後方予備隊には羽柴秀次・秀勝勢が約20000名が続き、徳川支隊約
30000名は西の丸から二の丸方向に攻撃を始めている。攻城側の総兵力は67000名と言われ、攻防戦は火縄銃主
体の銃撃戦だったようです。

丑の刻(午前11時頃)に落城、北条流築城術の総結集とも言われる城が僅か半日しか持ちこたえることが出来ませんで
した。北条勢の総大将北条氏勝は、城将松田康長や氏勝の弟直重・繁広の諫言に従って山中城を後に、本拠である相模国
玉縄城へ撤退、その他城将松田康長・間宮康俊以下多数が戦死しました。

また豊臣方では、一柳直末が岱崎出丸での銃撃戦で戦死、また山内一豊の弟康豊は北条勢より放たれた矢を頬当て受けて
負傷し、両軍とも多大な犠牲を払いました。

小田原開城後、山中城は廃城。江戸時代に町場として山中新田の集落が作られ、東海道箱根宿と三島宿との間の宿として繁
栄した。そのため主郭跡や北ノ丸跡及び岱崎出丸跡などは手付かずのまま残されていました。

城跡は昭和9年(1934)国の史跡に指定され、また昭和48年(1973)年の公園整備以来現在まで数度の発掘調査が行なわ
れ、これによって畝堀・障子堀の形態や橋・門・土塁・柵・土橋の跡が検出され、山中城の全容が明らかになった。出土品
には陶磁器、建築部材などが見つかっているが、武器・武具の発見が少ないことから城内の戦後処理が行われたと指摘する
意見もあります。

昭和54年(1979)に、国の史跡指定範囲が追加指定され、ゴルフ場のように芝生が張られ、土塁や堀の輪郭沿いには植樹
がされ、とても良く整備された史跡公園として無料で開放されています。平成18年(2006)には日本百名城の一つに指定さ
れました。

山中城の熾烈な戦闘の様子を中村一氏の配下で、山中城の一番乗りを果たしたとされる渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」とい
う書物で詳細を知ることが出来ます。

また、この渡辺勘兵衛を主人公とした、池波正太郎著の「戦国幻想曲」(角川文庫)や北条方の小笠原長治という人物を主
人公とした、津本陽著「新陰流、小笠原長治」(新潮社)などが刊行されているので興味のある方は一読をオススメ。

【おまけ】
攻城後にお腹が減ったら、三の丸内にあるこのお店で昼食を。ここのご主人は三島市内の有名店で修業されたらしい。

http://www.unagitakeya.com/

なお、ご主人が刀剣鑑定に詳しいかどうかは解りません。

写真:左より三の丸堀、西の丸障子堀、岱崎出丸畝堀

つづく。

単独表示 7.jpg 単独表示 7-2.jpg 単独表示 7-3.jpg

Re: 山中城(静岡県三島市)   花散里 : 2012/01/22(Sun) 22:16 No.2


新企画のスタート、おめでとうございます。
今後とも末永く、よろしくお願いいたします。

なかなか実際の城跡を訪れることは少ないのですが、機会があればぜひ本物に触れながらご指導ください。
(先に足腰を鍛えないといけませんね(^^ゞ )

Re: 山中城(静岡県三島市)   真改 : 2012/01/23(Mon) 12:03 No.3

新企画のスタート、おめでとうございます。
とても楽しみにしております。

よろしくお願い致します。<m(__)m>。


Re: 山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/23(Mon) 19:56 No.4

花散里さん、真改さん、早速のご訪問ありがとうございます。
城郭関連サイトは多々ありますが、少し趣向を変えたものにしたいと思います。
たとえば武将と刀剣などの逸話話しも盛り込みたいですね。

Re: 山中城(静岡県三島市)   波平 : 2012/01/24(Tue) 00:17 No.5

鬼丸さん
新企画楽しく拝見いたしました。
「三の丸堀、西の丸障子堀、岱崎出丸畝堀」こんなにもよく残り又、整備されているとは驚きました。
 九州の岡城趾に昔行きましたが、それとは違った風光明媚な明るさを感じます。最も平成の平和な時だからこそでしょうが。足腰を鍛錬してから是非伺いたいものです。鰻もおいしそうですねぇ。

Re: 山中城(静岡県三島市)   鬼丸 : 2012/01/24(Tue) 19:01 No.6

波平さん ご訪問ありがとうございます。

山中城は良く整備されていますので、お散歩気分でも大丈夫ですよ。ただし、サンダル履きはお薦めできません。

ところで、数年前、電脳倶楽部佐野美術館特別展鑑賞ツアー後で、うな重を食べた「池田屋」風の鰻屋さんを覚えていますか?実は建物ごとなくなり更地になっていました。残念です。老舗だったのに。

あの店の二階床の間に飾ってあった、「旧陸軍野戦重砲兵連隊の大隊長からの感謝状」は記憶に残っています。

栄枯盛衰、山中城もそんな感じがします。

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