刀剣の中心に元号が刻まれていることがありますねその元号は、何なのか? 読売新聞社がわかりやすい記事を発表していますのでご紹介します。                                
 
89/01/08 東京朝刊 特集面 06段 
元号の歴史とその時代 
 昭和から平成へ−−新しい元号(年号)が決まった。大化から数えて二百四十七番目の元号である。
元号には、新しい世を祝福し、人びとの幸福を祈願する意味
が込められている。新元号の制定を機会に、元号の歴史、その意味などを特集した。

?明治から一世一元 平安時代、天災恐れ改元◆

 元号は約二千年前、中国の古代王朝・漢の武帝時代(在位紀元前一四一―八七年)に初めて制度として制定された。
この制度は周辺の国にも広がり、高句麗では好太王の時代の三九一年、すでに「永楽」という独自の元号を立てていた
ことが好太王碑文に見える。しかし、このころはまだ十干十二支の組み合わせによる干支
紀年法が一般的で、好太王碑文にも辛卯年というように記されている。
 日本でも七世紀半ばまでは干支によっていたが、六四五年、大化改新のとき初めて元号を立てた。
「大化」という文字は「漢書」をはじめ、中国の古典のいくつかに見られ、新しい政治理念のもとに天下を治めるという
意味があったという。新体制にふさわしい元号だった。
 大化に始まった元号は、同六年二月、白い雉(きじ)が発見されたことを祥瑞(しょうずい・吉兆)として
「白雉(はくち)」と改元された。しかし、孝徳天皇を継いだ斉明女帝時代から元号は立ち消えになる。
天武天皇晩年に「朱鳥」が立てられたが、わずか二か月で終わり、持統朝にも元号はなかった。
 日本の元号が制度として確立したのは、七〇一年、文武天皇五年の「大宝」建元からである。
この年、古代国家体制の基礎となる法典「律」と「令」が制定され、それに先立って元号が定められた。
つまり、元号は律令国家体制の一環として重要な役割を担うことになり、以後、日本の公式な紀年法となった。
「大宝」以後現在まで元号はとぎれることなく続いている。しかし、別表の元号一覧に見られるように、
一帝一元から、数年おきに改元しているものまである。
現在のような「一世一元」になったのは「明治」からで、それまでは、さまざまな理由で改元が行われたからである。
改元の理由は、いくつかに分けられる。一番大きなものは即位による改元である。新帝が即位すると元号を改める。
「代始改元」と呼ばれているものである。元明天皇は即位の翌年「和銅」と改元し、次の元正天皇も即位の年「霊亀」と
元号を改めている。即位したら必ず改元するという慣例は奈良時代に確立した。ただし改元は即位の翌年に行われること
が多く、平安朝以後は、翌年改元が定着した。これは先帝の元号を尊重し、その喪中に改元することをはばかったものと
言われている。

 つぎに祥瑞や災害・異変による改元、中国思想による辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)改元がある。
祥瑞は、金の産出や珍しい天然現象を吉兆とみて元号を改めたもので飛鳥・奈良時代に多い。
平安時代になると、災害・異変による改元が増えた。
 辛酉・甲子改元は、干支一巡の六十年に当たる辛酉年と甲子年に革命が起こるという説による改元。
最初の辛酉改元は「延喜」(九〇一年)で、以後、応和、治
安、永保、永治、建仁と六十年ごとに改元され、甲子改元は村上天皇の康保(九六四年)に始まり、
六十年ごとに行われた。
 
 ◆中国の古典から採用◆

 このように、さまざまな理由で改元が行われたが、改元の手続きはほぼ一定していた。天皇の命により当代の学者(文章博士)
が文字を何種類か選ぶ。それを公卿(くげ)たちが審議して最終案を決め、天皇に奏上する。「勅定」があると「改元の詔書」を
作成し、公布する。文字を選んで答申することを「勘申(かんじん)」と言い、公卿の審議を「難陳(なんちん)」と言うが、
慎重な審議が行われたようである。勘申する文字は、おもに中国の古典から取られ、「漢書」「後漢書」「史記」「書経」
「詩経」「礼記」などが多い。
 室町以後の動乱期になると、元号にも影響が出る。その頂点が南北朝時代で、後醍醐天皇と光明天皇が並立し、以来南北合体
まで約六十年間、南朝と北朝でそれぞれ別の元号を立てることになった。
また、戦乱と飢きんの世に、世直しと救いを求める「弥勒」などの私年号も流行した。
 江戸時代最初の改元は一六一五年の「元和」(げんな)である。後水尾天皇の即位改元であるが、実は改元の直後、幕府は
「禁中並公家諸法度」を発表、改元の規則というべきものを定め、改元の主導権を持ち、将軍職の継承を理由にした改元も行われた。
 しかし、幕末になると勤王思想や儒教の名分論が盛んになり、元号制定を朝廷固有の権限とし、みだりに改元せず明清のように
一代一号とすべきだという議論が出てくる。こうして、明治の元号改革が行われることになる。

 明治改元は明治天皇即位の翌年、慶応四年九月八日に行われた。出典は「周易」で「聖人南面而聴天下、嚮明而治」から得た
と言われる。
八日布告された「改元詔書」には「それ慶応四年を改めて明治元年となす。自今以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式となせ。
主者施行せよ」とある。「一世一元」を明確に打ちだしたのである。明治二十二年「大日本帝国憲法」とともに「皇室典範」が
公布され、この制度は明文化された。その第一二条に「践祚ノ後元号ヲ建テ、一世ノ間ニ再ビ改メザルコト、明治元年ノ定制ニ従フ」
と規定した。
 しかし、皇室典範の規定だけでは改元の時期・方法が不明のため、政府は明治四十二年に「登極令」を公布、そこで
「天皇践祚ノ後、直ニ元号ヲ改ム。元号ハ、枢密顧問ニ諮詢シタル後、之ヲ勅定ス。元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定した。
 「直ちに改元」という規定は従来と全く異なり、改元は短時間の間に行われなければならなくなった。そして、この規定は大正改元、
昭和改元に適用された。
 大正改元は明治四十五年七月三十日に行われた。政府は学者から提出された案の中から「大正」「天興」「興化」の三案を
あらかじめ決め、新天皇即位の後、枢密院に提出、同院で審査した結果、全会一致で「大正」に決まったという。
 昭和の改元も同じようにして行われた。宮内省と内閣が用意した案の中から「昭和」「元化」「同和」が最終案として枢密院の
会議にかけられ、昭和と決まった。昭和は「書経」が出典で「百姓昭明、協和万邦」から取られた元号である。
改元の日は大正十五年十二月二十五日だった。
 戦後、現在の憲法が施行されたとき、皇室典範も新しくなった。その中に改元の条項はない。そのため、明治改元百年の
昭和四十三年ころから元号をめぐる論議が高まった。さまざまな議論が行われ、五十四年六月六日、元号法が国会で可決成立した。
 元号法は「1 元号は、政令で定める。2 元号は皇位の継承があった場合に限り改める」という簡単なものだが、この法律で
「一世一元」の元号は存続することになった。
 
 ◆元号と西暦の併用論が多数◆

 昭和五十年(一九七五)前後、元号の存続をめぐって激しい論議があった。元号法がまだ制定されず、昭和のあとがどうなるのか
法的にはっきりしなかったため「存続すべきである」「廃止して西暦だけにすべきである」と両派に分かれて論争が行われた。
存続派は元号の歴史的伝統的役割を強調し、廃止派は元号が天皇制と結びついていて反民主的であり、国際的にも西暦が好ましいと主張した。
 こうした論議は現在でもある。しかし、世論調査や識者のなかで多数を占めたのは中間派というべき立場で、元号は残し、西暦も使う
という立場である。西暦と元号が両方使われているため、確かに混乱も起こる。五十年代という場合、昭和なのか西暦なのか紛らわしい。
そこで昭和なら五十年代、西暦なら五〇年代と書き分けたりしている。しかし、多少の混乱はあっても「元号・西暦併用」は続くだろう。
                  ◇
 
 ◆神獣鏡銘文、ナゾの元号◆

 わが国の元号の発端は「大化」とされているが、日本人と元号との関係は弥生時代にさかのぼる。中国の三国時代の魏王が
景初三年(二三九)、邪馬台国の使者に与えたと「魏志倭人伝」に記された銅鏡とみられる紀年鏡が存在するからだ。
 これまでに、古墳などから出土した中国の元号が鋳出された銅鏡は九枚。うち六枚がこの邪馬台国問題にからむと見られている。
内訳は「景初三年」、「景初四年」、「正始元年」(二四〇)が各二枚で、五枚までが三角縁神獣鏡。
 特に「景初四年」の銘文を持つ二枚はさる六十一年十月、京都府福知山市の広峰十五号墳と兵庫県西宮市の辰馬考古資料館で
相次いで発見された。だが、この景初四年という年号、実際には存在していない元号なのだ。それがなぜ、鏡の銘文に刻まれているのか。
この解釈をめぐって、学者、研究者の間では果てしない論争が続いている。
 

《元号と歴代天皇》(元号・西暦・改元時の天皇)

〈飛鳥・奈良時代〉
大  化( 645)孝  徳
白  雉( 650) 〃
……………………  斉  明
……………………  天  智
……………………  弘  文
朱  鳥( 686)天  武
……………………  持  統
大  宝( 701)文  武
慶  雲( 704) 〃 
和  銅( 708)元  明
霊  亀( 715)元  正
養  老( 717) 〃 
神  亀( 724)聖  武
天  平( 729) 〃 
天平感宝( 749) 〃 
天平勝宝( 749)孝  謙
天平宝字( 757) 〃 
          淳  仁
天平神護( 765)称  徳
神護景雲( 767) 〃 
宝  亀( 770)光  仁
天  応( 781) 〃 
延  暦( 782)桓  武
〈平安時代〉
大  同( 806)平  城
弘  仁( 810)嵯  峨
天  長( 824)淳  和
承  和( 834)仁  明
嘉  祥( 848) 〃 
仁  寿( 851)文  徳
斉  衡( 854) 〃 
天  安( 857) 〃 
貞  観( 859)清  和
元  慶( 877)陽  成
仁  和( 885)光  孝
寛  平( 889)宇  多
昌  泰( 898)醍  醐
延  喜( 901) 〃 
延  長( 923) 〃 
承  平( 931)朱  雀
天  慶( 938) 〃 
天  暦( 947)村  上
天  徳( 957) 〃 
応  和( 961) 〃 
康  保( 964) 〃 
安  和( 968)冷  泉
天  禄( 970)円  融
天  延( 973) 〃 
貞  元( 976) 〃 
天  元( 978) 〃 
永  観( 983) 〃 
寛  和( 985)花  山
永  延( 987)一  条
永  祚( 989) 〃
正  暦( 990) 〃
長  徳( 995) 〃
長  保( 999) 〃
寛  弘(1004) 〃
長  和(1012)三  条
寛  仁(1017)後一条
治  安(1021) 〃
万  寿(1024) 〃
長  元(1028) 〃
長  暦(1037)後朱雀
長  久(1040) 〃
寛  徳(1044) 〃
永  承(1046)後冷泉
天  喜(1053) 〃
康  平(1058) 〃
治  暦(1065) 〃
延  久(1069)後三条
承  保(1074)白  河
承  暦(1077) 〃
永  保(1081) 〃
応  徳(1084) 〃
寛  治(1087)堀  河
嘉  保(1094) 〃
永  長(1096) 〃
承  徳(1097) 〃
康  和(1099) 〃
長  治(1104) 〃
嘉  承(1106) 〃
天  仁(1108)鳥  羽
天  永(1110) 〃
永  久(1113) 〃
元  永(1118) 〃
保  安(1120) 〃
天  治(1124)崇  徳
大  治(1126) 〃
天  承(1131) 〃
長  承(1132) 〃
保  延(1135) 〃
永  治(1141) 〃
康  治(1142)近  衛
天  養(1144) 〃
久  安(1145) 〃
仁  平(1151) 〃
久  寿(1154) 〃
保  元(1156)後白河
平  治(1159)二  条
永  暦(1160) 〃
応  保(1161) 〃
長  寛(1163) 〃
永  万(1165) 〃
仁  安(1166)六  条
嘉  応(1169)高  倉
承  安(1171) 〃
安  元(1175) 〃
治  承(1177) 〃
養  和(1181)安  徳
寿  永(1182) 〃
元  暦(1184)後鳥羽
文  治(1185) 〃
建  久(1190) 〃
〈鎌倉・室町・安土桃山時代〉
正  治(1199)土御門
建  仁(1201) 〃
元  久(1204) 〃
建  永(1206) 〃
承  元(1207) 〃
建  暦(1211)順  徳
建  保(1213) 〃
承  久(1219) 〃
          仲  恭
貞  応(1222)後堀河
元  仁(1224) 〃
嘉  禄(1225) 〃
安  貞(1227) 〃
寛  喜(1229) 〃
貞  永(1232) 〃
天  福(1233)四  条
文  暦(1234) 〃
嘉  禎(1235) 〃
暦  仁(1238) 〃
延  応(1239) 〃
仁  治(1240) 〃
寛  元(1243)後嵯峨
宝  治(1247)後深草
建  長(1249) 〃
康  元(1256) 〃
正  嘉(1257) 〃
正  元(1259) 〃
文  応(1260)亀  山
弘  長(1261) 〃
文  永(1264) 〃
建  治(1275)後宇多
弘  安(1278) 〃
正  応(1288)伏  見
永  仁(1293) 〃
正  安(1299)後伏見
乾  元(1302)後二条
嘉  元(1303) 〃
徳  治(1306) 〃
延  慶(1308)花  園
応  長(1311) 〃
正  和(1312) 〃
文  保(1317) 〃
元  応(1319)後醍醐
元  亨(1321) 〃
正  中(1324) 〃
嘉  暦(1326) 〃
元  徳(1329) 〃
元  弘(1331) 〃
※南北朝時代【 】は北朝
【正 慶】(1332)光  厳
建  武(1334)後醍醐
延  元(1336) 〃
興  国(1340)後村上
正  平(1346) 〃
建  徳(1370)長  慶
文  中(1372) 〃
天  授(1375) 〃
弘  和(1381) 〃
元  中(1384)後亀山
……………………………
【暦 応】(1338)光  明
【康 永】(1342) 〃
【貞 和】(1345) 〃
【観 応】(1350)崇  光
【文 和】(1352)後光厳
【延 文】(1356) 〃
【康 安】(1361) 〃
【貞 治】(1362) 〃
【応 安】(1368) 〃
【永 和】(1375)後円融
【康 暦】(1379) 〃
【永 徳】(1381) 〃
【至 徳】(1384)後小松
【嘉 慶】(1387) 〃
【康 応】(1389) 〃
【明 徳】(1390) 〃
……………………………
応  永(1394) 〃
正  長(1428)称  光
永  享(1429)後花園
嘉  吉(1441) 〃
文  安(1444) 〃
宝  徳(1449) 〃
享  徳(1452) 〃
康  正(1455) 〃
長  禄(1457) 〃
寛  正(1460) 〃
文  正(1466)後土御門
応  仁(1467) 〃
文  明(1469) 〃
長  享(1487) 〃
延  徳(1489) 〃
明  応(1492) 〃
文  亀(1501)後柏原
永  正(1504) 〃
大  永(1521) 〃
享  禄(1528)後奈良
天  文(1532) 〃
弘  治(1555) 〃
永  禄(1558)正親町
元  亀(1570) 〃
天  正(1573) 〃
文  禄(1592)後陽成
慶  長(1596) 〃
〈江戸時代〉
元  和(1615)後水尾
寛  永(1624) 〃
          明  正
正  保(1644)後光明
慶  安(1648) 〃
承  応(1652) 〃
明  暦(1655)後  西
万  治(1658) 〃
寛  文(1661) 〃
延  宝(1673)霊  元
天  和(1681) 〃
貞  享(1684) 〃
元  禄(1688)東  山
宝  永(1704) 〃
正  徳(1711)中御門
享  保(1716) 〃
元  文(1736)桜  町
寛  保(1741) 〃
延  享(1744) 〃
寛  延(1748)桃  園
宝  暦(1751) 〃
明  和(1764)後桜町
安  永(1772)後桃園
天  明(1781)光  格
寛  政(1789) 〃
享  和(1801) 〃
文  化(1804) 〃
文  政(1818)仁  孝
天  保(1830) 〃
弘  化(1844) 〃
嘉  永(1848)孝  明
安  政(1854) 〃
万  延(1860) 〃
文  久(1861) 〃
元  治(1864) 〃
慶  応(1865) 〃
〈明治以降〉
明  治(1868)明  治
大  正(1912)大  正
昭  和(1926)昭  和
平  成(1989)
































古刀 平安中期 鎌倉時代 吉野時代 室町時代 
平安時代から文禄までに作られた刀    
今から405年前以前に作られた刀    
 












































































































































































































































新刀 桃山時代 江戸時代中後期まで   
慶長以降、安永(江戸中後期)までに作られた刀    
今から404年前から218年前までに作られた刀    
 



























新々刀 江戸時代幕末時代  明治時代初期?  
天明から明治初期までに作られた刀    
今から219年前から109年前?このあたり不明    
 













現代刀 明治時代中期?  大正時代 昭和時代 平成
明治以降に昔のままの鍛練法によって作られた刀