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天下分け目の地 岐阜県関ヶ原町に行きました。史跡に指定されている古戦場はむかし「歩いたのでは一日かかる」と車で案内された事があるので、今回は町立歴史民俗資料館の見学にしぼりました。東海道線関ヶ原駅の北西山裾が主戦場で、頼山陽『日本外史・徳川氏正記』では: 「浮田秀家、島津義弘は天満山を背にして東向して陣す。小西行長はその左に陣す。石田三成またその左に陣す。有馬・河尻・糟谷・石河・布施・玉置氏はその右、大谷吉隆は平塚為広、戸田重政とまたその右に陣す。小早川秀秋は松尾山に屯す。脇坂・小川・朽木・赤座は麓にあり、皆北嚮(ほくこう)して陣す。騎卒すべて十二万四千。・・・内大臣(家康)諸将を部署す、福島正則を先駆となし、下野守忠吉と井伊直政を申駆(第二陣)となす、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、田中吉政、生駒一正、竹中重門、戸川達安ら右軍たり、藤堂高虎、山内一豊、織田長益、津田信成、京極高知ら左軍たり。蜂須賀、筒井、稲葉、遠藤、小出、亀井、寺沢ら遊軍たり、浅野左京大夫、池田輝政ら南宮山に備え、水野勝成、松平康長は一柳、松下、津軽などと大柿に備え、内大臣は自ら中軍となる。騎卒凡て七万五千」 云々とありました。まあ、関ヶ原町のパンフレットでは参謀本部の調査によるとして石田方八万二千、徳川方七万四千としており、黒田の斥候毛谷主水が「敵は十万騎以上ですがやる気のあるのはせいぜい三万(『常山紀談』では一万)」と報告したと伝える位で、実質ぶつかり合ったのはさらにその一部だったのでしょう。 慶長五年(1600)9月15日(旧暦)辰刻、雨上がりの濃霧のなかで開戦、双方互角で戦う内小早川秀秋が東軍に寝返って大谷吉継軍を攻撃すると一気に東軍有利となり、未刻(午後2〜3時)には決着がついたとあります。「西軍を追い首を斬ること四万級、原の草これがために赤し。わが(徳川)軍の死傷四千にみたず」と『日本外史』は記していますが、家康の首実験場、東西の首塚を伝承として残すのみで正確な死傷者数は不明というのが実像のようです。戦闘のエピソードはいろいろありますが、歩兵集団の銃と槍によるぶつかり合いで、日和見する部隊や裏切りを警戒しなければならない部隊がいては数と地の利を得ても勝てなかったというのが実情のようでした。町の歴史民俗資料館は刀剣・甲冑が複製品や出土品だけで一寸不満でしたが、火縄銃のコレクションとその要を得た説明は面白く見ることができました。 冬の曇り空でしたが雪の伊吹山も見え、水田地帯のあちこちの諸大名の陣あと、開戦地、激戦地などには史跡の標識と旗印が立てられており、説明版も詳しくて戦闘の経過がよく分かりました。東西から移動した軍が出逢い、一日で決着のついた戦闘でしたから「遺跡」はまず残らず、文献と伝承だけが往時を偲ばせる地でした。 |
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