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森蘭丸の大太刀   野崎 準 : 2010/03/08(Mon) 22:34 No.422
11  長雨の合間に京都河原町の本能寺大宝殿を拝観してきました。信長公ゆかりの品々、茶器や文書に混じって大太刀が一振装具をそえて展示してあり、「陣太刀・森蘭丸使用。刃長三尺四寸六分」、「実戦用ではなく陣中に立てかけて魔除けに使ったもの」と説明がありました。約104.8cmとなり、柄を含めると150cmほどになると思われます。
 一般に刀・太刀は三尺以下で、騎馬武者の用いる太刀はともかく、徒歩で戦う場合長大な刀は重くて移動にも戦闘にも不利、儀礼用で実戦では使われないとされていますが、大太刀として知られている宮城県鹽竈神社博物館にある伊達家臣後藤信康の刃長121cm、柄長99cmという巨大な太刀は刃こぼれが見られることから実戦で用いたとされています。備前にはさらに長大な大太刀、野太刀があったと記憶しますが、怪力の武士によって戦場で振り回されていたのでしょうか。
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北野天神にて   野崎 準 : 2010/02/12(Fri) 07:23 No.421
9  建国記念の日は北野天満宮を梅の便りにひかれて拝観して来ました。2月に花というのは東北育ちにとっては未だに違和感がありますが、境内にも紅白の梅花が咲き始めていました。
 宝物殿を再訪しましたら刀剣と常設展示の一部が展示替えになっていました。慶長12年(1607)信濃守国広の太刀(重文)に「北野天満宮豊臣秀頼公御造営時」とあり、これは前回にも見ました。古い拵が再発見され、銘のきり方から刀とされていたのが太刀として奉納されたことが判明したとか。また前田重熙公が宝暦2年(1752)奉納の備前長船師光の太刀(重文)、享保6年(1721)日本国鍛治宗匠伊賀守藤原朝臣金道の太刀もありました。金道の太刀は普通の糸巻拵でなく、柄が鮫皮で目抜金具の下に俵鋲を並べ鍔も唐鍔の復古様で、「衛府の太刀」と説明されていました。
 衛府の太刀といえば毛抜型の柄が普通ですが、『新編相模風土記』で鎌倉鶴ケ丘八幡宮の源頼朝公佩刀と伝えるこの形の太刀を「衛府の太刀」と言っているのでそちらの定義を取ったのでしょうか。江戸時代の考証ですから武衛将軍(兵衛佐の唐名)頼朝公の佩刀なら衛府の太刀、と考証した可能性もありますが?
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禅語と刀剣   野崎 準 : 2010/01/12(Tue) 05:43 No.418
11  上泉伊勢守の逸話に出てきた「剣刃上の事」の出典は
「剣刃上行 氷稜上走  不渉階梯 懸崖轍手」(『無門関』 第三二則)だそうです。

 秋月龍眠『無門関を読む』(講談社学術文庫)によりますと

「剣刃上に行き、氷稜上に走る。 階梯に渉(わた)らず 懸崖に手を轍(はな)す」と読み下すそうです。真実の悟りを開いたものはこのような絶体絶命の場面でも心は動じないのだとか。

 同書には「驀然(まくねん)として打発せば驚天動地、関将軍の太刀を奪い得て入手するが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖(師)に逢いては祖を殺し、生死巌頭において大自在を得る」(第一則)「殺人刀 活人剣」(第十一則)、などの言葉もありました。
 中国禅宗の言葉には意外と刀剣関係の比喩があります。時代が五代から宋、元にかけての戦乱相次いだ時代だからでしょうか。日本の武士階級にすんなり受容された理由も分るような気がします。
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Re: 禅語と刀剣   野崎 準 : 2010/01/22(Fri) 15:03 No.420
8  鈴木大拙博士の『続・禅と日本文化』には凶暴な鼠を退治した猫に剣士が教えを乞う話が出てきます。猫は「剣の道は禅の真理を感得する手段の一つである」と解説するのですが、これは出典も猫の真意もまだ理解の外です。剣士が猫語を解するところからして分らない。 [修正]
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正倉院の「賓鉄」についての新論文   野崎 準 : 2009/12/29(Tue) 07:56 No.413
9  正倉院献物帳に「賓鉄刀子」というのがあり、中国では賓鉄というのは西域の、それで作った刃に模様が出来る鋼を指していることから「ダマスカスの鋼ではないか?」という問題を窪田蔵郎氏が『鉄の文明史』(1991)で指摘しておられました。

 至文堂『日本の美術』2009年12月号の西川明彦氏「正倉院の武器・武具・馬具」でこの指摘が取り上げられ、中国文献に見える賓鉄とは「産地は特定しがたいが西域からの輸入鉄」だと考証されました。そしてその鉄で作られた刃物の候補として、従来の研磨作業で専門家が揃って普通の鋼と違うと指摘している、非金属介在物のほとんど認められず、組織も微細で洋式刀剣やナイフのような熱処理がされている一群の刀剣、刀子を候補にあげておられます。

 最近の技術考古学の進歩で、technologyは政治や文化の枠組みを超えて意外と自由に交流して、相互に影響関係を与えていると理解されて来ましたが、まだまだ新しい視点からの発展がありそうです。面白くなってきました。

 来年もよろしくお願いいたします。
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Re: 正倉院の「賓鉄」についての新論文   田舎侍 : 2009/12/30(Wed) 21:22 No.414
1 たしかインドのアショカ王?の錆びない鉄塔というのがありましたよね あれも関連繋がりありでは・・・・・

今年も楽しませてもらいました。
来年もよろしくお願いします。
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Re: 正倉院の「賓鉄」についての新論文   野崎 準 : 2010/01/22(Fri) 14:52 No.419
8 「デリーの鉄塔」は軟鉄で、錆びにくいのは表面に安定した酸化膜が出来るからとされています。ダマスカス鋼は「折れず曲らずよく切れる」鋼だということになっていますが・・・。 [修正]
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新年おめでとうございます   真改 : 2010/01/01(Fri) 00:47 No.415
1 明けまして、おめでとうございます。

昨年は、大変お世話になりました。

本年もよろしくお願い申し上げます。<m(__)m>。
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Re: 新年おめでとうございます   野崎 準 : 2010/01/01(Fri) 11:41 No.416
8 今年もよろしくお願いいたします。
 カウンターがどんどん上がっていくので多くの方が見てくれていると思い、せめて月2話と思っていたのですがなかなか材料探しの時間がなくて失礼しています。今年はもう少し参考書を読んでみます。
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Re: 新年おめでとうございます   花散里 : 2010/01/01(Fri) 13:16 No.417
1 明けましておめでとうございます。

いつもながら、興味の尽きない話題をご提供いただき、毎回更新を楽しみにしています。

本年もよろしくお願いいたします。
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京都・中世の秋   野崎 準 : 2009/11/28(Sat) 23:16 No.412
8  京都市考古学資料館で『土の中の京都』というニュースレターのバックナンバーを閲覧していましたら、その2001年10号に「堀川の二条城付近の西岸に穴太積の石垣がある。刻印のある石21箇所と『是ヨリ北紀州』の文字のある石もある」と書かれていました。
 京都市街地の堀川は暗渠工事をして殆ど水が流れていなかったのですが、昨年から鴨川の水を引いた河川敷公園になっています。現場がどうなっているかと早速行ってみましたら、細流沿いに遊歩道ができており、河原に下りて夷川橋と二条橋の間、二条城の東にあたる部分に古い石垣が残っていました。
 二条城石垣は天守台や京都御所に面する堀川通方面は立派な切石による「切り込みハギ」ですが、南から西、東にかけては徳川再建大坂城のように隙間に小石を積みながら割石を積む「打ち込みハギ」、一部には野面積の部分もあります。堀川の低い石垣は自然石と割り石を、一部後世に修理したらしい「落し積」の部分もありますが、大部分は大石を水平に積んでいく、「穴太積」と言われる工法でした。説明板には慶長8年(1603)の石垣とありますから、藤堂高虎が築城し家康の征夷大将軍任命があった創建期二条城の時の工事となり、徳川再建大坂城の石垣の様な諸大名による分担工事の始まりとも言えます。
 堀川の石垣は京都市の編纂になる『京都の城』(2006)の二条城の解説には出ていませんが、京都御所と向き合う部分だったので本格的な石垣にしたのでしょう。二条城の今のような切石積みの石垣は寛永3年(1626)、後水尾天皇の行幸に際して整えられたものと考証されていました。徳川幕府が京都を威圧する建造物だったためか、観光客は二の丸御殿だけを見て引き上げるようですが、天守台の石垣や、これに先立つ織田信長時代の二条城(京都御苑内に復元石垣あり)などと共に中世から近世初期の京都をしのぶ貴重な遺跡です。
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日蓮と法華の名宝展へ   野崎 準 : 2009/10/27(Tue) 21:49 No.411
7  京都国立博物館秋の特別展『日蓮と法華の名宝』を見て来ました。「数珠丸恒次」が出展されるかと思っていたのですが、同時代資料は文献や仏像で、法華衆の美術として本阿弥光悦、狩野山楽、尾形乾山などの作品に混じり、刀剣は「八坂神社神刀。『出雲大掾藤原国路作、金具御大工体阿弥』とあり、この体阿弥は光悦の芸術村にいた人物」と、本阿弥極め銘の郷義弘の刀が出品されていました。

 最近『太閤記』を読み直したのですが、巻末の秀吉形見分けの記事、伊達政宗への鎬藤四郎をはじめ、毛利輝元(厚藤四郎)、浅野幸長(吉光)、石田三成(吉光)、など大物はみな脇指を拝領し、太刀・刀は正宗(前田利家)吉広(前田利長)などを例外としてずっと下の武士に与えられています。これは脇指の方が格が高いという意味でしょうか、それとも「脇指でも名作だから」という事なのでしょうか。定説がありましたらどなたかご教示下さい。
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島左近のこと   野崎 準 : 2009/09/08(Tue) 19:35 No.408
11  慶長五年(1600)関ヶ原合戦の時、石田三成が高禄で召抱えた島左近勝猛(清興)は三成を討とうと猛攻してきた黒田長政軍と戦って討死した。黒田長政が筑前の城主となって後、共に合戦に参加した家臣たちとの思い出話で「石田方の大将、鬼神も欺くという島左近の姿は今も目の前にある」という話題になったが、誰も島のその日の装束を覚えていなかった。元石田三成に仕えていた武士を呼び出したところ「兜の立物は朱の天衡(てんつき)、鎧は溜塗桶革胴に木綿浅黄(浅葱=薄い藍色)の羽織をきていた」との事であった。
 黒田の家臣の一人が「あの時は左近の兵が左右に分かれ、中央の軍が槍の届く距離まで近づいてから引き取り、追撃する我々を左右から挟み撃ちにする計画だった。菅政利の銃隊が横から鉄砲を撃ちかけて島を倒さねばわれわれは全員やられていた。今冷静に考えると冷や汗が出る。実戦の場では皆目の魂は失っているものだ。見間違いをしても恥ではない」と語った。(常山紀談)

 京都市上京区の立本寺(りゅうほんじ)墓地に「島左近の墓」があります。表には「妙法院殿島左近源友之大神□」 裏には「寛永九年(1632)壬申六月二十六日没」とあり、年代がおかしいのですが、「実は関ヶ原で討死してはおらず、出家してここで死んだ」と言う説があるのだそうです。関ヶ原の後首級を確認されていないから…と言うのですが。
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Re: 島左近のこと   田舎侍 : 2009/10/02(Fri) 17:54 No.409
1 三成さんのお墓は発掘調査せれて 頭骸骨の下に 笄が見つかり 「斬首された首と胴を笄で繋いで埋葬したのでしょう」と書いてありましたね。
命を狙われた敵でも晒した後は敬意を持って接したのですかね それとも捨てられたのを 縁のある人がご供養したのでしょうか
偉人の方のお墓・・もっと発掘調査して欲しいような欲しく無い様な・・・合掌。
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Re: 島左近のこと   野崎 準 : 2009/10/06(Tue) 07:12 No.410
8 石田三成の遺骸は京都大徳寺が遺骸を引き取り、三成が創建した大徳寺の三玄院にあります。遺骨の調査も行われていますが、他にも伝・三成墓は数箇所あるようです。江戸時代に段々評価が高まり、明治以後は反徳川の英雄にされましたから他の墓は供養墓、参り墓と好意的に考えればいいのでしょうか。
 『常山紀談』に、処刑を待つ三成を嘲笑した小早川秀秋に「自分は義のために戦い、時の運で敗れたのだから悔いはない。しかしお前は裏切り者として永遠に笑われるのだ」とあざけり返したと伝えるのが武士道の三成観なのでしょう。
「勝って驕らず、負けて恨まず。敗者は勝者を敬し、勝者は敗者をいたわれ」、スポーツマンにガッツポーズは不要、というSamurai Spiritsは武家社会の遺訓として伝えて欲しいですね。
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大坂夏の陣・小笠原父子の討死   野崎 準 : 2009/08/22(Sat) 10:59 No.405
8  大坂夏の陣の戦闘が最高潮に達した5月7日、天王寺口で本多忠朝、小笠原秀政軍が大坂方の毛利勝永軍と戦った。毛利軍は家康本陣を攻撃した真田幸村軍の崩壊を知らずに家康の旗本を攻撃したのである。
 本多忠朝は鉄の棒を馬上で振り回して毛利勢を蹴散らしたが、十匁銃で狙撃され討死した。信州松本城主小笠原兵部大輔秀政は前日の戦闘で先陣が崩壊したら攻撃しようと躊躇して井伊勢に遅れを取ったのを屈辱と感じ、討死の覚悟を決めていた。松本城に残るよう命じられていた嫡子忠脩(ただなが)も出陣しており、毛利勢が退いた時に大野治長、浅井長房、竹田永翁の陣に突入した。
 しかし体制を取り直した毛利勢が側面から攻撃をかけたので乱戦となり、秀政・忠脩父子は討死、遺骸は大坂方と奪い合いの末家臣たちに担がれて陣に戻った。次男大学助忠真は七箇所に傷を受け落馬したが、家臣の渋多美縫殿が助け上げ、敵の馬を奪って陣に戻った。家康は本多忠朝、小笠原父子の遺骸に「ああ、忠臣なるかな、勇なるかな」と涙を流したと言う(『大坂軍記』)。

 8月始めに兵庫県明石市の明石城が築城390周年というので隅櫓の特別内部公開があり、見学して来ましたが、市立博物館で特別展「大坂夏の陣と明石藩の成立」を開催中でした。小笠原氏はこの功績により明石10万石を拝領、元和3年明石城を築き、寛永8年小倉藩に転じるまでこの地をおさめたとありました。
 文書と共に北九州市の福聚寺に収蔵されていた秀政・忠脩・忠真(初代明石城主小笠原忠政)の天王寺口庚申堂合戦時の甲冑が展示されており、秀政は浅黄威胴丸具足、忠脩は藤色威本小札胴丸具足、忠真は毛抜威胴丸具足とありました。兜は記録のみで保存されているのは胴鎧でしたが、裏地に血痕も残っているとあり、大将級の実戦で着用した甲冑として貴重な資料でしょう。
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Re: 大坂夏の陣・小笠原父子の討死   田舎侍 : 2009/09/01(Tue) 22:47 No.406
1 前日に遅れを取ったのを屈辱と感じ・・・翌日何の功績も無かったら 家康さんに大目玉・減俸処分位くらったのでしょうか
武士は大変ですね。

大将級の実戦で着用した甲冑、意外と質素である意味驚きました。
現在よく我々が見るのは 神社に奉納された物であったり 家宝で式典用などの物なので よく考えるとあんな物で戦には行かなかったのでしょうか・・・。
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Re: 大坂夏の陣・小笠原父子の討死   野崎 準 : 2009/09/03(Thu) 13:01 No.407
7 サムライは常在戦場
江戸時代文政年間(1818-30)に書かれた松浦静山『甲子夜話』42巻に、江戸城西の丸でイジメを受けた若い武士が逆上し、睡眠中の上司3人を殺害して自殺した事件の顛末が出ています。不寝番のはずが就寝中に殺害、他の武士も逃げ回って背中に負傷したりしたので「犯人は乱心の上切腹、家中の死者はすべて病死である」と隠蔽しようとした事が発覚し、30人ほどが「御役御免」「改易」「逼塞」などを命じられたと記録されています。戦国の気風が残っていた江戸初期なら切腹も出ていたかも知れません。
関係者の年齢を見ると当時としては高齢の50台の武士もいますが、「治にいても乱を忘れず」、泰平300年でサラリーマン化していても武士は戦士、常に切り死にの覚悟は必要だったようです。
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大坂冬の陣の上杉氏   野崎 準 : 2009/07/30(Thu) 13:26 No.404
11  慶長19年(1614)大坂冬の陣の最中、11月26日の明け方に鴫野で小競り合いがあり、押し出してきた大坂方渡辺内蔵助糺の兵は陣内に退いた。上杉景勝軍がこれを攻撃、丹羽長重、安田上総介、隅田(須田)大炊助、長野、岩井らが豊臣方の銃撃を物ともせず敵を大和川の対岸に退かせた。
 上杉景勝は直江山城を呼び「備えを指図したか?」「安田を第一、隅田を第二にいたしました」。景勝は「老練の士を先手にするのは良くない、隅田を第一にせよ。また(大和川の南に)西堤を掘り切って鉄(くろがね)孫左衛門に鉄砲500で備えさせよ」と命じた。
 兵士たちは「殿は六十歳にもなっていない(まだお若い)、なぜ敵の虎口(危険な攻撃地点)を離れた所を守るのか?」と不審がった。
 大坂方は天満の兵に城内から出動した大野治長、木村宗明らが加わり上杉の軍を攻撃した。隅田の備えが崩れたのを左右に分けて第三陣の杉原常陸介、第四陣の安田上総介が攻撃し、大坂方を押し止めた。
 平野の徳川本陣からは五字指物の伝令がかけつけ、「犠牲者を増やすな。堀尾山城の軍を派遣するから退け」と命令を伝えたが、景勝は「弓矢の道は一寸増しという。これだけ犠牲を出して取った地を離れる訳にはいかない、と伝えよ」と言い、堀尾はやむを得ず上杉軍の南から攻撃した。直江山城が鉄孫左衛門の鉄砲隊で大坂方を横から射撃して総崩れとし、大坂方は遂に鴫野を放棄して退いた。
 同日の今福とこの鴫野の戦闘で大和川は血に染まった。大坂方の渡辺内蔵助糺は面目を失い
 渡辺が浮き名を流す鴫野川 敵にあひてや目は内蔵助 と嘲笑された。(『大坂軍記』)

 『日本外史』は上杉軍に派遣されていた軍監・小栗又市が家康に「なお追撃するべきだと進言したが、景勝は日が暮れたからと言って兵を引いた」と苦言を言うと「おまえなどが批判できる状況ではない」と相手にしなかったとか、杉原・長尾・安田・須田らが功状を受けて「亡き謙信公の家範に従ったまで。武田との合戦に比べれば本日の戦闘は子供の遊び」と語ったなどと追記しています。
 ただ大坂城博物館に展示されている『大坂冬陣合戦屏風』には今福の佐竹義宣軍が扇に月輪の旗印をあげて戦う場面だけで、上杉の戦闘は描かれていません。まあ、こちらの大坂方は木村長門守重成、後藤又兵衛基次で、それと一進一退の激戦をしたのですから、屏風絵にするならこちらの方が描きがいがあるとは思いますが。
 なお大和川は江戸時代に流れを変えて現在のように大阪湾に流れ込んでいますが、当時は大坂城下を廻って淀川に注いでいました。隅田(須田)大炊助長義は関ヶ原の戦いのとき福島・梁川城主として伊達政宗の軍を押しとどめた勇者ですが、翌年春死去したのは鴫野合戦での負傷が原因のようです。
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