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中国の刀剣書に日本刀が   野崎 準 : 2008/09/04(Thu) 20:40 No.376
11  ネットで検索しますと日本の中国書店にも出ており、ホームページに抄訳を掲載されている方もいますので皆様は周知と思いますが、皇甫江『中国刀剣』(2007)という本を見つけました。著者の皇先生はコレクターと自己紹介されておりますが、中国最古の春秋時代長沙揚家山や河南三門峡の鉄剣から始まって民国時代の青竜刀、近代儀礼刀に至る中国刀剣の通史を図版を多用してご説明しておられました。

 興味深いのは日本の刀にも広く言及しておられることで、三国・南北朝時代の刀として平戸市亀岡神社の伝・神功皇后佩刀、高知県小村神社双竜環頭太刀、隋唐時代に正倉院刀や「美国大都市博物館(アメリカのメトロポリタン・ミュージアムでしょうね)所蔵日本鉄刀」、鞍馬寺伝坂上田村麻呂剣、鹿島神宮宝剣などが紹介されていました。また漢時代からの中国刀剣の研磨結果や靭性についても言及されています。

 圧巻は明時代の「日本輸入の倭刀」「日本造の御林軍(皇帝親衛隊)刀」、「日本造明式腰刀」「倣倭刀」「倣倭双手刀」などで、勘合貿易でかの地に輸出された日本刀剣やその模造品の評価や性能についても言及しておられました。刀の側面に「日本国薩摩州宝高造」と篆文で浮き彫りにした腰刀もありました。

 個人的には清時代の工芸の粋を尽くした皇帝やその側近の刀剣が見事と思いました。「七星」「竜泉」「紫雁」のような古代の刀剣の名を付け、刀身に象嵌や彫刻を施しており、君子は実用武器に関心なし、と非実用的な工芸品を作っていたから倭寇の倭刀にほしいままにされたのではと言いたくなる所もありました。なお著者の号が「抜刀斎」だとありましたが「るろうに剣心」とは関係ない様です。
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どくろ盃?それとも?   野崎 準 : 2008/08/29(Fri) 21:13 No.375
10  人類学者、故金関丈夫博士の随筆『発掘から推理する』(朝日新聞社、1975)に「髑髏盃」として、研究室にあるチベット仏教の儀式に使う頭蓋骨の上部(skull-cap)を利用した盃を紹介し、世界の人骨崇拝、頭蓋骨の盃の例をあげています。中国『戦国策』に見える予譲の主君の仇討ちの話は、主君が趙襄子に殺されてその頭蓋骨を盃にされてしまったからであるとか、水戸光圀が成敗した藤井紋大夫の頭蓋骨で作らせた盃が『甲子夜話』にみえる、とかの例をあげ、織田信長が浅井父子と朝倉義景の頭を盃にし、酒を強いられた明智光秀が拒んだのを怒った話は「信長の残虐性を誇張するためのつくり話」とされていました。

 信頼性の高いといわれる『信長公記』では天正二年(1574)正月の宴で「古今承り及ばざる珍奇の御肴出て候てまた御酒あり、去年北国にて討とらせられ候 一、朝倉左京大夫義景首、一、浅井下野(久政)首、一、浅井備前(長政)首 以上薄濃(はくだみ=漆塗り金箔)にして公卿(木の角盆)に据え置き御肴に出され候て御酒宴」とあります。
 江戸川柳は光秀が拒んで信長の機嫌をそこねた話を踏まえてか「されこうべ出して信長酒を強(し)い」と、頭蓋骨を盃にしたと解釈していますが、『信長公記』では首そのままを漆で固めて保存し、眺めながら酒を飲んだような感じです。

 頼山陽は『日本史詩』で
「匡(きょう)を発すれば血、模糊(もこ)たり。捧げ出す両雄の首。此の好下物有り。誰か辞せん満酌の酒。 百戦わずかに一觴(しょう)を共にするを得たり。酔時は及ばず戦時の長きに(一部現代活字に変更)」と詠じています。
 非情な戦国の世、戦い続けて一緒に酒を飲むことが出来たのは一方が首を取られてから、という戦士の感慨をうたうには、加工された頭蓋骨の盃より漆で固定され金箔を押されて恨みの形相のまま保存された生首、の方が合うような気もします。
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ハイテク兵器技術者集団?   野崎 準 : 2008/07/20(Sun) 12:53 No.374
8  滋賀県長浜市の長浜城にある歴史博物館に行きました。7月15日まで二つの特別展があり、一つは中世近江の惣村、西浅井郡菅浦文書の紹介、もう一つが下坂鍛冶でした。
 近江国坂田郡下坂は現在の長浜市下坂中、下坂浜町で、室町時代に「下坂」銘の槍を大量生産していたそうです。
 室町時代に越前の刀匠を招いて技術改良をし、戦国時代が終わると下坂八郎左衛門が筑後細川家臣田中吉政に仕えて筑後へ、下坂甚兵衛は加藤嘉明に仕えて会津へ行き、加藤氏転封後も会津に居住、下坂市左衛門貞国は越前結城氏、のち徳川家康に仕え、「康」の字を拝領して越前康継となった・・・。と解説にありました。展示作品は短刀のほか槍・薙刀など銘の拓本を添えての分りやすい展示でした。

 気になったのは槍の大量生産をしていたという記述で、槍が足軽の武器として戦場で活躍するのが室町時代ですから、当時の最新鋭兵器ということになります。鉄炮の産地国友村も同じ坂田郡ですから、琵琶湖北部は何か新型兵器製造の伝統があったのでしょうか?
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「主君押し込め」?それが何か?   野崎 準 : 2008/06/14(Sat) 20:58 No.371
11  京都御所の近くに「清(きよし)荒神」があり、台所の竈と防火の神として知られています。むかし東北地方の鍛冶神としての三宝荒神を調査したことがあるので、その勧請元である兵庫県宝塚市の清澄寺の清三宝荒神を見学してきました。奉納品が火箸というのは京都の分社と同じですが、船の錨も奉納されるのだそうで、所願成就で返納された火箸の納所にはミニ錨と、奥に本物の船錨も納められていました。
 清澄寺の縁起の中に「天正7年(1579)、荒木村重の乱で堂宇を焼亡」とあり、現在は宝塚市ですが、すぐ近くの伊丹有岡城の支配下だったと気がつきました。荒木村重は織田信長の腹心の一人でしたが、信長の上洛、安土築城、上杉謙信の急死、石山本願寺の包囲、毛利・長曽我部氏との対決と、天下統一直前の最も危険な状況の天正6年(1578)、叛旗を翻した戦国武将です。
 昔は天下統一直前の英雄に刃向かった無謀な行為、と嘲笑されていたのですが、織田政権の実情が分るに従って、当時の薄氷を踏む状況の信長にとっては痛恨の一打になっていたと判明して来ました。
 主君を裏切って毛利方につこうとした計画はしかし失敗、有岡城は織田の大軍に包囲されます。ところが当時「家臣合意の上で主君を切腹させれば家臣団の命だけは許す」という『主君押し込め』の風潮があったのに村重はさっさと逃亡、残った妻子並びに家臣団の大半が怒り狂った信長に片端から磔、斬首、焼殺などにあって全滅したのに、毛利、後に豊臣秀吉に仕えて天寿を全うしました。
 落城の責任は城主の潔いハラキリ、という江戸の武士道からは悪人にされてしまい、頼山陽『日本外史・織田氏』の巻でも「怯きょう(きょうはリッシンベンに匡=いくじなし)なり」と一刀両断ですが、まあ“主君押し込め”をあまり過大評価してもいけないと言う事でしょうか。
 村重の有岡城は破却され、現在の伊丹市街地の真中なのでもう残っていないと思っていましたら、発掘調査を受けて史跡公園になっているとのこと、いつか訪れてみたいと思います。
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Re: 「主君押し込め」?それが何か?   田舎侍 : 2008/06/15(Sun) 00:30 No.372
1 いつも楽しく読ませて頂いてます。
有岡城を落ち延び 次に入った? 花隈城も 神戸三ノ宮の直ぐ上に、石垣部分が駐車場になってありますね。 ここでも沢山の人が殺され 一族の小さな供養塔がひっそりとあります。
しかし私の周辺には 「信長に秀吉に滅ぼさられた」という案内板のある史跡の多いこと多いこと・・・御両名関係者の子孫の方は肩身が狭いでしょうね。
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Re: 「主君押し込め」?それが何か?   野崎 準 : 2008/06/15(Sun) 06:05 No.373
10  コメントありがとうございました。戦国末期に急造された小規模な城でも関西では立派な縄張りや石垣があるのに驚いております。これからも多くの城跡を巡ってみたいと思っております。 [修正]
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南関東の小さな城址   野崎 準 : 2008/05/27(Tue) 15:43 No.370
10  神奈川県平塚市北金目の東海大学湘南キャンパスで考古学の学会を聴講してきました。大学は丹沢山地の裾が平地に突き出しているところで、大学敷地およびその周辺には石器時代からの遺跡が沢山あり、大学や市の教育委員会で調査が行われていました。大地末端の湧水地を中心に遺跡が集中していますが、自然の谷でほとんど大地端から切り離されそうになっている部分に城館がありました。
 大学で頂いた解説『真田・北金目のむかし』によりますと、源頼朝の石橋山挙兵で頼朝方について討死した真田与一義忠の館で、のち伊勢長氏(北条早雲)に小田原城を追われた大森藤頼が明応7年(1498)落城まで居住していたとあります。藤頼は落城の時切腹したとか、文亀3年(1503)まで存命していたとか諸説があるようですが、まあ小田原城を失ったところで歴史の表舞台からは消えてしまったのでしょう。今は天徳寺と真田神社、その周辺に土塁が残るのみであるとか。
 展示されている考古資料に鎌倉時代の常滑三筋壷と伊勢土鍋がありましたから、中世南関東の、上杉、三浦、北条などの勢力争いのなかでそれなりの歴史を担った古城だったのでしょう。
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草津と関の宿場   野崎 準 : 2008/05/08(Thu) 13:40 No.367
8 二つの宿場
 4月に滋賀県草津市の草津宿、三重県亀山市の関宿と、二つの宿場を訪ねました。近江国草津は東海道と中山道の分岐点、関は伊勢国で桑名から鈴鹿峠を越えて草津に向かう東海道と、大和国から伊賀国を経、加太(かぶと)峠を越えて伊勢神宮に向かう街道がクロスする、ともに交通の要衝でした。草津は本陣、関は宿場町の町並みがよく保存され、将軍上洛、参勤交代から野次喜多までの江戸時代の旅に興味があるものには宝の山でした。
 草津本陣は明治以後郡役所などに使われていたのを復元し、江戸時代の大名宿の姿で公開していました。宿帳は見学したときは薩摩藩姫君、すなわち篤姫の掲載されている頁が出ていましたが、新撰組土方歳三、斉藤一などの記入した頁もスライドで展示されていました。また、「参勤交代の大名は駕篭に乗ったままだと運動不足になるので駕篭のそばを歩いたり騎馬で移動したりした」など興味深い話題も色々展示されていました。
 関宿は古代の鈴鹿関にちなむ地名で、672年の壬申の乱で吉野から脱出した大海人皇子はこの付近にあったという鈴鹿関で伊勢、尾張など東国の豪族の支持を取り付け、不破道、すなわち後の関ヶ原から近江に攻め込みます、古代に大和から東国に行く重要な交通路でした。古代の鈴鹿関は宿場の西北に奈良時代の瓦をもつ築地大垣が出土し、その付近にあると考えられています。
江戸時代に東海道が整備される以前、中世まで伊賀越えは重要な交通路で、本能寺の変の時に堺滞在中の徳川家康が服部半蔵に導かれて「兜越え」で伊勢へ脱出したのも、荒木又右衛門が伊賀上野鍵屋辻での決闘をすべく伊賀越道中をしたのもこの道でした。宿場の西端が追分で伊賀、大和道の道標があります。宿の東は伊勢街道との分岐点ですが、ここには神明鳥居という、伊勢神宮独特の形式の鳥居があり、伊勢神宮遷宮の時に古い鳥居を下賜されて建てているとか。
東海道は関宿を出て坂下宿を過ぎると鈴鹿峠の難所にかかり、峠の先は近江甲賀郡の土山宿です、鈴鹿馬子唄は「♪坂(下)は照る照る鈴鹿(峠)は曇る、あい(向かい)の土山雨が降る」、と歌いました。関宿は狭い道路の両側に旅籠が立ち並ぶ昔の宿場町の形態をよく保存しており、遅咲きの桜をめでながらのハイキング客で賑わっていました。
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Re: 草津と関の宿場   野崎 準 : 2008/05/08(Thu) 18:52 No.368
10 No.366の投稿が消えてしまっていましたので再投稿しました。 [修正]
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Re: 草津と関の宿場   システム担当 花散里 : 2008/05/08(Thu) 20:25 No.369
11 野崎先生
投稿が消えてしまい、大変失礼いたしました。
4月末から5月の始めにかけて、サーバ管理会社の変更を行った際の不手際が原因だと思います。

お忙しい中再度投稿いただきまして、ありがとうございました。
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信貴山と楠木正成・松永久秀   野崎 準 : 2008/03/28(Fri) 20:41 No.365
10  大阪と奈良の境、生駒山地の信貴山朝護孫子寺に行きました。このあたりは南北朝時代に楠木正成が活躍した地域で、有名社寺には必ず「伝:正成公遺品」があるのですが、ここの宝物館にも太刀、兜、軍旗などが展示されていました。昔は南北朝ゆかりの社寺にはあちこちに「正成が愛児正行に残した遺書」があったそうですが、さすがにその手の怪しい史料は影をひそめていました。
 吹き返しに菊水の紋の入った兜、菊水を墨書きし、「元弘元年(1331)正成(花押)」という旗指物は確か武家故実の本で見た記憶があります。太刀は腰反りがありますが白鞘の柄がついたままで銘などは不明でした。
 南朝が篭った千早・赤坂の城はもっと南の金剛山の方ですが、信貴山にも護良親王の陣が置かれたという伝説があるのでゆかりの品があるのでしょう。
 信貴山はもう一つ、戦国時代に松永弾正久秀が寺の背後に信貴山城を築いていました。織田信長に包囲され、「秘蔵の平蜘蛛の茶釜を出せば命だけは助けてやらないでもない」と言われた時、一笑に付すと茶釜に火薬を詰めて点火自爆、散華したという伝説があります。その側杖で飛鳥時代以来と称する信貴山の大伽藍は織田軍に焼き払われてしまったとか。いまは江戸時代再建の伽藍に国宝「信貴山縁起絵巻(宝物館展示品はコピー)」など戦火を免れた美術品がありました。
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Re: 信貴山と楠木正成・松永久秀   野崎 準 : 2008/03/29(Sat) 06:13 No.366
8 江戸川柳子曰く

 松永が立腹とんだ茶釜なり

「立腹」は腹立ちの「りっぷく」と立ったまま切腹する「たちばら」にかけており、「とんだ茶釜」は当時の流行語にかけています。江戸笠森稲荷の茶屋にいた看板娘が結婚し後任は禿頭の老人だったことから、「期待を裏切られる」。転じて美人の誉め言葉にもなったとか。(『柳多留拾遺』)
駄洒落が一杯でも詠史になっているところが面白いのでしょう。
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名残雪の京都から   野崎 準 : 2008/02/28(Thu) 06:54 No.364
8 幕末京都の面影
 今年の京都は雪模様の日が多く、東北地方で生活経験のある身からは冷え込みはそれほど厳しくは感じませんが、早朝に植え込みや屋根瓦がうっすらと白くなっている日が続きました。梅の名所はもう咲き始めているのですからすぐ春になるとは思うのですが。
 先日その雪模様の中を三条周辺で買い物の途中に「池田屋騒動之址」に立ち寄りました。数年前に行った時はゲームセンターの前でしたがその店も片付けられ、テナント募集中の掲示が出ていました。
 NHK大河で新撰組が取り上げられた時に江戸東京博物館と京都文化博物館で新撰組の展覧会があり、池田屋騒動は詳細に考証されていました。「チャンバラ映画では正面に大階段があり、近藤勇に天然理心流で斬られた志士が階段を転げ落ちる場面が約束になっていたが、実際は正面に階段はなく、『京都守護職会津中将様ご支配新撰組である!』と押し入った近藤たちが廊下奥の急な階段を駆け上がり、二階で『御用改めである。刃向かう者は斬って捨てる』と大声を上げ、志士たちは竦みあがった・・・」ようにあったと記憶します。時代劇ならその次は「猪口才な幕府の犬めら、返り討ちにしてくれん。寄らば斬るぞ!」で銃火器なしの刀槍による狭い木造家屋の中での死闘が続きます。
 時代劇映画のメッカといいますが、公家と町衆の京都では案外武士には関心が薄く、唯一名所が多いのは幕末維新の名所です。壬生寺、黒谷金戒光明寺、護国神社、それに諸藩の京都屋敷、志士の寓居・遭難の地などです。まあ、それも次第に近代都市に飲み込まれつつあるようで、さすがの古都でも昔の面影もまもなく消えてしまうのでしょう。
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天下分け目の関ヶ原   野崎 準 : 2008/01/26(Sat) 21:28 No.363
11 天下分け目の地
 岐阜県関ヶ原町に行きました。史跡に指定されている古戦場はむかし「歩いたのでは一日かかる」と車で案内された事があるので、今回は町立歴史民俗資料館の見学にしぼりました。東海道線関ヶ原駅の北西山裾が主戦場で、頼山陽『日本外史・徳川氏正記』では:
「浮田秀家、島津義弘は天満山を背にして東向して陣す。小西行長はその左に陣す。石田三成またその左に陣す。有馬・河尻・糟谷・石河・布施・玉置氏はその右、大谷吉隆は平塚為広、戸田重政とまたその右に陣す。小早川秀秋は松尾山に屯す。脇坂・小川・朽木・赤座は麓にあり、皆北嚮(ほくこう)して陣す。騎卒すべて十二万四千。・・・内大臣(家康)諸将を部署す、福島正則を先駆となし、下野守忠吉と井伊直政を申駆(第二陣)となす、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、田中吉政、生駒一正、竹中重門、戸川達安ら右軍たり、藤堂高虎、山内一豊、織田長益、津田信成、京極高知ら左軍たり。蜂須賀、筒井、稲葉、遠藤、小出、亀井、寺沢ら遊軍たり、浅野左京大夫、池田輝政ら南宮山に備え、水野勝成、松平康長は一柳、松下、津軽などと大柿に備え、内大臣は自ら中軍となる。騎卒凡て七万五千」
云々とありました。まあ、関ヶ原町のパンフレットでは参謀本部の調査によるとして石田方八万二千、徳川方七万四千としており、黒田の斥候毛谷主水が「敵は十万騎以上ですがやる気のあるのはせいぜい三万(『常山紀談』では一万)」と報告したと伝える位で、実質ぶつかり合ったのはさらにその一部だったのでしょう。
 慶長五年(1600)9月15日(旧暦)辰刻、雨上がりの濃霧のなかで開戦、双方互角で戦う内小早川秀秋が東軍に寝返って大谷吉継軍を攻撃すると一気に東軍有利となり、未刻(午後2〜3時)には決着がついたとあります。「西軍を追い首を斬ること四万級、原の草これがために赤し。わが(徳川)軍の死傷四千にみたず」と『日本外史』は記していますが、家康の首実験場、東西の首塚を伝承として残すのみで正確な死傷者数は不明というのが実像のようです。戦闘のエピソードはいろいろありますが、歩兵集団の銃と槍によるぶつかり合いで、日和見する部隊や裏切りを警戒しなければならない部隊がいては数と地の利を得ても勝てなかったというのが実情のようでした。町の歴史民俗資料館は刀剣・甲冑が複製品や出土品だけで一寸不満でしたが、火縄銃のコレクションとその要を得た説明は面白く見ることができました。
 冬の曇り空でしたが雪の伊吹山も見え、水田地帯のあちこちの諸大名の陣あと、開戦地、激戦地などには史跡の標識と旗印が立てられており、説明版も詳しくて戦闘の経過がよく分かりました。東西から移動した軍が出逢い、一日で決着のついた戦闘でしたから「遺跡」はまず残らず、文献と伝承だけが往時を偲ばせる地でした。
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来年もよろしくお願いいたします   野崎 準 : 2007/12/30(Sun) 18:16 No.359
11 福井藩の国学者 橘曙覧(たちばなあけみ 1812−68)の歌集から
 「赤心」
真荒男(ますらを)が朝廷(みかど)おもひの忠実(まめ)心
   眼を血に染めて焼刃みすます
正宗の太刀の刃よりも国のため
   するどき筆の鉾ふるひみむ
国を思ひ寝られざる夜の霜の色
   月さす窓に見る剣かな
国汚す奴(やつこ)あらばと太刀抜きて
   仇にもあらぬ壁に物言ふ

第三歌、平泉澄博士は『国史学の骨髄』で
 国を思ひ寝られぬ夜の霜の色
    ともし灯寄せて見る剣かな
という曙覧自筆の歌があるとしております。

激動の世界にあって邦家の前途は多難、「山堂夜半、夢結び難し、千山万峰風雨の声」(木戸孝允)ですが、故人の愛国の情を偲び、来年も頑張ることにしましょう。
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Re: 来年もよろしくお願いいたします   真改2007 : 2007/12/30(Sun) 20:01 No.360
1 野崎先生
今年一年、大変お世話になりました。

私も昨年から、心臓と胃に病気を持つことになり、まさか自分がと思い、健康のありがたさを感じることが多くなりました。
健康管理に特に注意して、生活して行こうと思う気持ちが強くなった一年でした。

では、来年もよろしくお願い致します。
良いお年をお迎え下さいませ。
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Re: 来年もよろしくお願いいたします   花散里 : 2007/12/30(Sun) 20:46 No.361
1 今年は記録的な猛暑の夏でもありましたし、冬も寒さが厳しそうですね。
健康に優るものはありませんので、せいぜい気をつけて「細く長く」で行きたいと思っております。
来年も、よろしくお願いいたしますm(__)m
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Re: アクセスが結構ありますね   野崎 準 : 2007/12/30(Sun) 21:13 No.362
8  カウンターをみて、書き込みが中断している間にも急速に増えているので驚きました。「電脳倶楽部」の人気が高いのでしょうが、来年はせめて月二回は書き込むよう努力します。 [修正]
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