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大正時代の民俗学者が   野崎 準 : 2012/01/27(Fri) 22:41 No.466
10  民俗学者・柳田國男の全集を読んでいましたら、柳田の主催した郷土会記録の大正五年(1916)の発表原稿に、小此木忠七郎(おこのぎ・ちゅうしちろう)という、大正から昭和はじめに活躍した福島県の民俗学者が「刀鍛冶の話」を書いていました(筑摩書房『柳田國男全集』22)。

 「世界中の刀は沙鉄より作る…。山中の地を平にし穴を掘り、五週間ほど木炭を焼いた上に鉄鉱と炭を積んで炉を築き、百姓にフイゴを踏ませて溶解する。炉の上の穴からヅク、中の穴からハガネ、下の穴からナマガネが湯となって流れ出る。硬軟の鉄を短冊状として積み上げて加熱鍛造し…」などはやや誤解がある様ですが、「古代の青銅武器は分析によると周礼・考工記の武器の成分と一致する。奈良時代までは輸入刀剣が珍重された。平安時代に反りのある刀ができた。刀工に不動明王、地蔵信仰がある。刀銘の製作年には実際の月と関係なく二月または七月に造ると記す」などは実際の例に拠っているようでした。

 「明治初期までの刀匠名鑑に見える刀匠9,700人、最も多い国は備前1,549人、第二九州北部985人、第三美濃780人、第四山城636人、以下第五武蔵、第六攝津、第七奥州、第八九州南部、第九大和、第十伯耆、第十一備後三原 第十二北国、第十三相模・・・」とありました。時代別の統計もあり、よく調べられたものです。小此木氏は「都と江戸は除き北九州・奥州・伯耆は国防の要地なので刀匠が多かった」としていますが、大陸文化に触れる機会の多かった場所もあったと思います。最近「弥生時代の鉄器に中国鉄官の製品あり、鉄器文化は畿内より高い」と言われ始めているのが島根、鳥取、福岡、瀬戸内海沿岸などですから。
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よろしくお願い致します。   真改 : 2012/01/01(Sun) 00:39 No.465
1 皆様
明けまして おめでとうございます \(^o^)/。

旧年中は大変お世話になりました。
本年は、特に昨年と比較しましても、公私にわたる生活におきましても、刀剣生活におきましても、素晴らしい年になりますよう祈念し、また、努力も続けて行きたいと思います。

どうか、よろしくお願い申し上げます。m(__)m。
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窪田先生の思い出   野崎 準 : 2011/12/25(Sun) 17:31 No.461
8  故窪田先生は晩年「鉄を50年以上調べてきたが、分からない事がどんどん出てくる」と語っておられました。

 その一つ、ご著作の中にも何度か取り上げておられた問題ですが、鉄および刀剣とヘビ、オオカミとの関係がありました。
 「ヤマタノオロチ退治による名剣の発見、名剣による大蛇退治と似た話は世界中にある。『刀が盗人の目には赤いヘビに見えた』、などは研ぎ澄まされた硬い鉄と柔らかいヘビがどう関係するのか分からない。また製鉄炉の中にできた鉄の塊を西洋では「オオカミ」を意味するloup, luppe, wolfなどといい、ゾーリンゲンの刃物にはオオカミの紋章がつくものがある。『蒙古秘史』には成吉恩汗(チンギス・ハン)は鍛冶屋の子孫で上祖は蒼きオオカミだったとある。これが日本の『オオカミが鍛冶屋の婆に化けた』という民話とつながるのか、偶然の一致なのか分からない」… これらは私たち残されたものへの問題提起です。
 機会があれば冬の炉辺で興味のある方々と語り合いたいなどと思います。

 来年もよろしくお願いします。
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Re: 窪田先生の思い出   花散里 : 2011/12/25(Sun) 21:45 No.462
1 神話や伝承については、以前から疑問に思っていたことがありました。
いったい、なぜ比喩や婉曲な表現をする必要があったのでしょうか?
また、誰に聞かせることを目的としていたのでしょうか?
子供相手のお伽噺ならばわかりますが、仮に秘密を守るためだとしても、別の伝え方があったようにも思えます。

それはともかく、

野崎先生、本年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
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Re: 窪田先生の思い出   野崎 準 : 2011/12/28(Wed) 10:03 No.463
7  まあ、歴史も伝説も比喩も婉曲表現も一つだった時代の語りですから。細かく分析して裏の意味を探すのは近代になってからでしょう。

 『平家物語』には昔「剣の巻」という刀剣伝説一杯の章が最初にありました。室町以後の追加だ、ということで今は「灌頂の巻」祇園精舎の鐘の声…から始まっていますが、この剣の巻には名刀が名前を何度も変えられる話があります。これなども深く考証したら面白そうです。
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Re: 窪田先生の思い出   真改 : 2011/12/28(Wed) 22:38 No.464
1 野崎先生、今年も残り少なくなりましたが、1年間お世話になりました。
どのお話も大変勉強になりました。
ありがとうございます。

来年も、どうぞよろしくお願い致します。m(__)m。
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窪田先生がご逝去   野崎 準 : 2011/12/21(Wed) 19:47 No.460
7  新聞などでもほとんど報じられなかった様ですが、『鉄の生活史』(角川新書、のち講談社学術文庫に増補改訂し『鉄から読む日本の歴史』)や『鉄の考古学』(雄山閣)の著者窪田蔵郎先生が12月18日にご逝去されました。1926年のお生まれですから85歳でした。
 日本鉄鋼連盟の広報室におられ、デパートの夏休み啓蒙展「わたくしたちの生活と鉄」などの企画から取材されて鉄の歴史・文化を研究された方でした。何度かご著作の校正をお手伝いした事があり、忘れられない方でした。
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秋の展覧会など   野崎 準 : 2011/11/02(Wed) 22:17 No.459
8  京都国立博物館の「細川家の至宝」展で正宗や光忠の国宝刀剣を拝見し、奈良国立博物館の「正倉院展」も見てきました。

 今年の正倉院展の注目される展示品は名香「蘭闍待」と金銀鈿荘唐大刀でしたが、正倉院献物帳に「賓鉄」とある刀子ではないかという「斑犀把漆鞘銀漆荘刀子(はんさいのつかうるしのさやぎんうるしそうのとうす)」も陳列されていました。窪田蔵郎氏が「中近東の鋼ではないか」と注意されたので再検討されたのでしょうか。

 展示図録には「鍛えは不明だが刃紋はなく粗めの地沸と細かな地景がみられる。鋼色は濁りがなく白金を思わせる明るさをもつため、純度の高い鋼が使用されたと推定されている。…刃紋がないことに関しては一度焼き入れした後に高温で焼戻をした結果と考えられており、わが国の刀や刃物には見られない処置であるという」と解説されていました。
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戦争の神仏   野崎 準 : 2011/10/21(Fri) 23:32 No.458
11  滋賀県立安土城考古博物館で開催中の「武将が縋(すが)った神仏たち」展を見学してきました。合戦の勝利を祈る武神・仏で、八幡大菩薩、勝軍地蔵、飯縄権現、妙見菩薩、毘沙門天、竹生島弁才天、摩利支天、四天王、それに武将の軍神化ということで聖徳太子、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の神像が展示されていました。

 愛宕山の勝軍地蔵は普通の地蔵菩薩像と、騎馬姿に宝幢・剣・宝珠を持ち、甲冑の上に僧衣をまとったものがあり、左右に不動明王と毘沙門天、愛宕太郎坊大天狗、役行者と前鬼後鬼、愛宕のカラス天狗8匹を従えた愛宕曼荼羅も展示されていました。勝軍地蔵は他に清水寺本尊千手観音の左右に勝敵毘沙門・勝軍地蔵がいる清水寺系のものがあり、こちらは疾走する姿でした。王城守護の兜抜毘沙門天や、獅子に乗り八本の手に刀をもった「刀八毘沙門天」の像、イノシシに乗る摩利支天、白狐に乗るカラス天狗の姿の飯縄(綱)権現、亀に乗って剣を構える妙見菩薩童形像、京都大将軍八神社武神像など珍しい像も展示されていました。

 刀剣の彫り物として出てくる不動明王と倶梨伽羅竜も付け加えてほしかったと思いましたが、このような戦争の神仏を全国的に網羅した展示は珍しく、興味しんしんで見学しました。
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トラ・トラ・トラ   野崎 準 : 2011/09/21(Wed) 20:24 No.455
8  今日9月21日の各新聞社のホームページに速報で、福岡市元岡古墳から出土の鉄刀に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の象嵌銘が判読されたとありました。

 銘文を見て思い出したのが民族学の故大林太良教授・他が編纂された『剣の神 剣の英雄』(法大出版1984)に、「朝鮮では寅の歳、寅の日、寅の時刻に作られた刀は名剣である」旨の記述があったので、関係資料を探してみましたら、寅は陽の気、庚寅は金石合で吉とあり、李朝時代の韓国では三寅剣、四寅剣が製作されたともあります。

 唐代中国の段成式『酉陽雑俎』に「刀剣は七月庚酉か八月辛酉の製作がよい」、とあり、古墳出土の刀にも「八月中作刀」の銘が見られるなど、刀剣の故実にはまだ由来不明のものが多いようで、これからの研究の進歩が楽しみです。
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Re: 四寅?   野崎 準 : 2011/09/24(Sat) 22:47 No.456
8 「大歳庚寅正月六日庚寅日時」は普通に寅の年、寅の日、寅の時刻(昔は昼夜の時間をそれぞれ六等分したので時間差がありますが夜明け前で大体午前四時くらい)の三寅に造ったという事でしょうが、旧暦1月は寅月でもありますから、この刀は四寅の貴重な剣ということになります。

 古代中国の楚の名剣「太阿」は王が抜き放つと攻めて来た晋の三軍(37,500人)が壊滅し、生存者の髪の毛は恐怖で真っ白になっていた(越絶書)といいますが、この四寅の刀にはどんな魔力があるのでしょうか?
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Re: 丙午の刀   野崎 準 : 2011/09/26(Mon) 20:54 No.457
8  出土刀剣銘に見える製作月日は

漢 永初六年(112)中国の山東省出土鉄刀「永初六年五月丙午」
漢 中平年中(184〜189)奈良県東大寺山古墳出土刀「中平□年五月丙午」
東晋 石上神宮七枝刀の銘文は「泰(太)和四年五月十六日丙午正陽」、太和四年なら369年、泰始四年なら468年
中国年号を使わず干支のみで辛亥年(471年か)の埼玉県稲荷山古墳の剣、ほぼ同年代の熊本県江田船山古墳の刀が「八月中」、です。

 2世紀から5世紀までは午(馬)が普通のようで、方位からは南、月は五月、時刻は正午ですから高温の鍛造には相応しいのですが。寅は東北東、時刻は夜明け前です。

 芭蕉七部集『冬の日』には「寅の日の旦(あした)を鍛冶の疾く起きて」という句がありますが、夜明け前に焼き入れをする事とでも関係するのでしょうか?
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毛利勝永の戦い   野崎 準 : 2011/09/08(Thu) 19:29 No.454
11  大坂夏の陣最終日、元和元年五月六日、大坂方は今日が最後の決戦と、真田幸村、渡辺尚、大谷吉之は茶臼山に、森勝永、竹田永応は四天王寺の南に陣を張った。徳川軍が進出したら明石守重が敵の背後に回り放火、真田・森の攻撃中に秀頼と大野治長の中軍が中央から猛攻すれば最後の望みはある、というのが幸村の計画だった。
 しかし秀頼は城内に裏切りの可能性ありとの情報で引き返し、明石の放火も水野勝成軍との交戦に手間取って失敗した。幸村は徳川家康の本陣に猛攻撃をかけたが討ち死に。勝永は本多忠朝軍、小笠原秀政軍を破り、両将を斬り、井伊・藤堂の軍と戦いつつ退き、城内で秀頼の自刃を見届けて殉死した。・・・と『日本外史』豊臣氏は書いています。

 森勝永は別名毛利吉政、父吉成とともに秀吉家臣で、吉成が天正15年豊前五万石を拝領しますが関が原の敗戦で領地召し上げ、土佐山内氏に預けられます。父吉成客死の後、土佐を脱出して大坂城に入り上記の大活躍をしました。

 神沢杜口『翁草』では巻157に「真田左衛門佐信仍略譜」として幸村の最後を述べ、真田信仍(幸村)、毛利(森)勝永、木村重成、後藤守次、明石全登(守重)ら五将の活躍を比較し、「東軍の先鋒を粉のごとく切り崩せしは真田の奇兵、毛利が正兵。両将の功にして他の援なし。・・・・古今独歩は真田信仍、第二の功は毛利勝永なるべし。惜しき哉、後世真田を云ひて毛利を不云(いはず)。これ毛利が不肖か」と感想を述べていました。
 確かに勝永は歴史辞典、歴史人名事典でもあまり取り上げられず、新人物往来社『戦国人名辞典』などが伝承を交えて紹介しているに過ぎません。猛将必ずしも歴史に記憶されず、か。
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大阪にて   野崎 準 : 2011/08/31(Wed) 06:54 No.453
10  平成23年の夏もあちこちの博物館を訪れましたが、一般の地方歴史博物館には刀剣の展示はほとんど無く、まあ展示する場合のメンテナンスが大変だからなのでしょうが、残念でした。

 大阪歴史博物館は民衆史なので中世・安土桃山のコーナーに石山合戦、大阪冬・夏の陣関係で出土品の槍、脇差、火縄銃の弾丸などがありました。
 意外だったのは近現代・伝統工芸のコーナーに現代大阪の刀匠の作品三点があったことです。刀、脇差の他に「祝・大阪市制百年記念刀」として復元蕨手刀がありました。尖先が諸刃なのは正倉院の蕨手刀を模したのでしょうが、残念ながら共鉄で作られた柄の反りが不足で、蕨の芽に見えませんでした。
 大阪は大陸文化の上陸地で、東北との関係は出羽からの西回り海運が主だったのに、なぜ陸奥の蕨手刀が市制百年の記念刀に選ばれたのでしょうか。
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刀剣研究の古典   野崎 準 : 2011/08/19(Fri) 08:47 No.452
8  下賀茂神社の古書市で故後藤守一先生の『雄山閣考古学講座第一巻』(昭和3年)所収「原史時代の武器と武装(1)」を求めました。東京国立博物館におられ、名著『日本歴史考古学』(昭和12年)で知られる方です。

 弓矢、槍・矛と刀剣の前半まででしたが、原史時代の直刀の解説と正倉院刀剣の簡単な紹介のあと、古刀、すなわち藤原時代末期より鎌倉時代、足利時代に使われた反りのある刀への移行を、歩兵戦より馬上戦が盛んになった承平天慶の乱から前九・後三年の役のごとき実戦が原動力であったとされています。その証拠としては秋田県小阿地墳墓出土の反りのある刀、戦前の平泉藤原三代のミイラ調査で藤原清衡、基衡棺の刀は直刀、三代秀衡の刀には「立派に反りができている」のを上げられ、騎馬戦の普及に伴う反りのある日本刀の起源を東北の戦乱に求めておられます。
 また刀剣の製造は俵国一、金子恭輔両博士の科学的研究を紹介され、古墳出土の刀剣が化学分析で鉄鉱石製錬の鉄を不十分ながら併せ鍛えをし、熱処理も行われていたことを紹介、分析例が増えれば砂鉄製錬による刀も見つかるであろうとしておられます。

 当時知られていた出土品、科学的研究でのご説ですが、以来ほぼ80年、現在の研究はどこまで進展しているのでしょうか。感慨を覚えました。
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Modified by Tambo