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慶長19年(1614)大坂冬の陣の最中、11月26日の明け方に鴫野で小競り合いがあり、押し出してきた大坂方渡辺内蔵助糺の兵は陣内に退いた。上杉景勝軍がこれを攻撃、丹羽長重、安田上総介、隅田(須田)大炊助、長野、岩井らが豊臣方の銃撃を物ともせず敵を大和川の対岸に退かせた。 上杉景勝は直江山城を呼び「備えを指図したか?」「安田を第一、隅田を第二にいたしました」。景勝は「老練の士を先手にするのは良くない、隅田を第一にせよ。また(大和川の南に)西堤を掘り切って鉄(くろがね)孫左衛門に鉄砲500で備えさせよ」と命じた。 兵士たちは「殿は六十歳にもなっていない(まだお若い)、なぜ敵の虎口(危険な攻撃地点)を離れた所を守るのか?」と不審がった。 大坂方は天満の兵に城内から出動した大野治長、木村宗明らが加わり上杉の軍を攻撃した。隅田の備えが崩れたのを左右に分けて第三陣の杉原常陸介、第四陣の安田上総介が攻撃し、大坂方を押し止めた。 平野の徳川本陣からは五字指物の伝令がかけつけ、「犠牲者を増やすな。堀尾山城の軍を派遣するから退け」と命令を伝えたが、景勝は「弓矢の道は一寸増しという。これだけ犠牲を出して取った地を離れる訳にはいかない、と伝えよ」と言い、堀尾はやむを得ず上杉軍の南から攻撃した。直江山城が鉄孫左衛門の鉄砲隊で大坂方を横から射撃して総崩れとし、大坂方は遂に鴫野を放棄して退いた。 同日の今福とこの鴫野の戦闘で大和川は血に染まった。大坂方の渡辺内蔵助糺は面目を失い 渡辺が浮き名を流す鴫野川 敵にあひてや目は内蔵助 と嘲笑された。(『大坂軍記』)
『日本外史』は上杉軍に派遣されていた軍監・小栗又市が家康に「なお追撃するべきだと進言したが、景勝は日が暮れたからと言って兵を引いた」と苦言を言うと「おまえなどが批判できる状況ではない」と相手にしなかったとか、杉原・長尾・安田・須田らが功状を受けて「亡き謙信公の家範に従ったまで。武田との合戦に比べれば本日の戦闘は子供の遊び」と語ったなどと追記しています。 ただ大坂城博物館に展示されている『大坂冬陣合戦屏風』には今福の佐竹義宣軍が扇に月輪の旗印をあげて戦う場面だけで、上杉の戦闘は描かれていません。まあ、こちらの大坂方は木村長門守重成、後藤又兵衛基次で、それと一進一退の激戦をしたのですから、屏風絵にするならこちらの方が描きがいがあるとは思いますが。 なお大和川は江戸時代に流れを変えて現在のように大阪湾に流れ込んでいますが、当時は大坂城下を廻って淀川に注いでいました。隅田(須田)大炊助長義は関ヶ原の戦いのとき福島・梁川城主として伊達政宗の軍を押しとどめた勇者ですが、翌年春死去したのは鴫野合戦での負傷が原因のようです。 |
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