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幕末明治に筑後柳川藩士から明治政府に仕えた漢学者・官吏で、旧制五高などで教鞭を執った笠間益三(1844-97)の『日本略史』という本があります。明治11年(1878)刊の木版本の日本史概説、神武天皇から明治10年(1877)の西南戦争終結までですが、政治史を中心に外交史、文化史、挿話などにもふれ、面白い通史でした。
その古代史、人皇11代垂仁天皇の記事に 「二十七年 兵器ヲ以テ神幣ト為スヲ卜(ぼく)ス。吉ナリ。兵器ヲ以テ神ヲ祭ル、此ニ始ル。本邦尚武ノ風。由リテ来ル所ナリ」。 とありました。
垂仁天皇は『古事記』にも 「また鳥取の川上宮に坐して横刀(たち)一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り・・・」とあり、この刀剣大量製造と石上神宮への奉納の記事は『日本書紀』垂仁天皇39年紀にも見えますが、兵器奉納の事はそれより12年前の垂仁紀に
「二十七年秋癸酉朔己卯。祠官(かむつかさ)ニ令(のりごと)シテ兵器(もののぐ)ヲ神幣(かみのまひ)ト為(せ)ンコトヲ卜(うらな)ハシムルニ吉也(これよし)。故、弓矢横刀ヲ諸神ノ社ニ納ム。乃チ更ニ神地、神戸ヲ以テ定メ、時ヲ以テコレヲ祠シマツル。蓋シ兵器ヲ以テ神祇ヲ祭ルハ是時ニ始テ興ルナリ」。 とあります。
時代が神仏習合・神儒合一を離れて純粋の日本神道への回帰を模索していた時でもありますが、こういう些事にも気づくとは流石明治の史学者だと思いました。
令和元年もあとわずか。皆様よいお年を。
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