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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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天命逃れ難し   野ア 準 : 2020/04/27(Mon) 11:55 No.685
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11  武家故実の伊勢貞丈(1718-84)の『軍神問答』は

「当節の武士は毘沙門天・大黒天・弁財天、或いは摩利支天、夜叉神、勝軍地蔵を軍神としているが、いずれも天竺の神。日本の武士なら大已貴命・武甕槌命・経津主命を祭り、甲冑を神の依代として勝利を祈れ」という趣旨です。

その中に、現代語訳しますと;
「問う、楠木正成のごとき良将・忠臣が大義のために戦った湊川合戦で討ち死にしたのは軍神の加護がなかったからか?」
「答う、合戦の勝敗は天命、すなわち運命が決する。天命は軍神にも変えられず、人知では予測できない。中国古代の聖人も天命を恐れた」
とありました。軍記などで「大義のため挙兵したが破れたのは天命の定め」などとあるのはこれですね。

新型コロナウィルスの蔓延でふと思い出しました。日常生活で気をつけてもいつ感染して肺炎併発、医療崩壊で「酸素吸入器不足・若い人優先・高齢者は安楽死」・・・となったら、これは「天命逃れ難し」かも。まあ、その時は「古武士の如く従容として逝く」の覚悟は必要でしょうね。

皆様にもどうかご無事でご健康・ご長寿を。
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『日本略史』の鉄炮伝来記事   野ア 準 : 2020/03/24(Tue) 16:50 No.683
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 既出『日本略史』第五巻、天文十二年(1543)に;

八月。葡萄牙(ぽるとがる)ノ人百余人、一大船ニ乗シ種島【大隅】ニ来ル。言語通ゼズ。杖ヲ以テ沙ニ書キ、互市ヲ求ムルノ意ヲ示ス。時ニ葡人鳥銃ヲ齎(もたら)シ来ル。島主時尭(ときたか)、之ヲ購ヒ、人ヲシテ之ヲ學バシム。是ヨリ吾邦初テ鳥銃アリ、耶蘇教ノ我国ニ入ル、亦是ヨリ始ル。

 この種本は薩摩の僧南浦文之の『鉄炮記』で、海外史料とも矛盾しないというので、日本への鉄砲伝来は1543年、はほぼ定説でしたが、その後はこれ以前の鉄砲使用の記録あり、とか南蛮船でなく明の船だとか異論も出ているようです。

 海外から伝えられた新兵器を直ちに国産でき、30〜40年後には弓矢・槍に代り歩兵の主要武器になるのは日本の鉄加工技術のレベルが高かったから、と言われています。
 なお鉄の鍛接に硼砂を使うのはこの時南蛮人から教わったという説もあり、技術の交流は他にもあったようです。
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Re: 『日本略史』の鉄炮伝来記事   田舎侍 : 2020/04/22(Wed) 00:20 No.684
1 甲陽軍鑑 信長公記 そしてNHK大河ドラマ脚本 この3つが私たちが刷り込まれた戦国歴史ですね(笑)
まぁ ルイスフロイスや貿易商など外国人の報告も自分を美化してるでしょうし 真実は??



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岡野左内と刀   野ア 準 : 2020/02/26(Wed) 19:22 No.682
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8  戦国時代末に蒲生氏、上杉氏に仕えた岡野左内という武士がいました。生没年不明で、上杉景勝に仕えていた時、関ヶ原の戦い直後から翌慶長六年(1601)にかけ伊達政宗が上杉領福島・梁川を攻めた時の活躍で知られます。

 阿武隈川の支流松川に伊達郡本陣と二万の軍勢を見た岡野は、伊達の軍勢は渡河の支度をせず小荷駄を遠ざけている事から上杉軍の渡河を待って迎え撃とうとしていると判断、二十騎ほどで渡河し、大軍に取り巻かれての苦戦を犯して戦いました。『常山紀談』は

 政宗勇み進んで追いかけられしに、岡野猩々緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り支え戦いけるを、政宗馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野返り見て政宗ノ兜の真っ向より鞍の前輪をかけて切りつけ、返す刀で兜のしころを半ばかけて切り払う。政宗刀を打ち折りてければ、岡野すかさず右の膝口に切りつけたり。政宗の馬飛び退きてければ、岡野、政宗の物の具以ての外見苦しかりし故、大将とは思いもよらず、続いて追い詰めざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきにとて大いに悔やみけるとなり。

 まもなく上杉氏は米沢に転封、岡野は伊達氏からの誘いを断り蒲生忠郷に仕えます。武器・武具以外には浪費せず、質素な生活に甘んじましたが死に臨んで蒲生忠郷に、「金子三千両、正宗の刀を遺物に献じ、忠郷の弟中務にも金子三千両、景光の刀、貞宗の小脇指を形見に・・・人に貸しける金銀の手形証文を焼きすて」た、と言います。常に戦場の覚悟、武器武具の用意、名刀の収集、これが戦国武将の一つの理想の生き方だったのでしょう。
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明治の歴史書から   野ア 準 : 2020/01/08(Wed) 12:08 No.680
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11  明治の漢学者・歴史学者笠間益三(1844-97)の『日本史略』を古書店で偶然、再刊本も含め全八巻入手できました。
 著者は筑前柳川藩士、明治政府の官吏となり旧制五高などで教鞭を執っていた人です。神武天皇から明治10年の西南の役の終結まで、明治13年の木版本でした。
 「小学童蒙のための平易な通史」といい面白い国史概説です。

 謙信・信玄の川中島の戦いは「五度合戦記」等により、二人の一騎打ちは天文23(1554)年、川の中とされています。一部現代漢字にしました。

 天文二十三年八月。謙信復タ兵八千を帥テ信濃ニ入リ、犀川ヲ渡リテ陣ス。信玄一万人ヲ以テ出テ之ト対ス。塁ヲ固クシテ出デズ。謙信伏ヲ設ケ、甲斐ノ軍ヲ誘キ出シ、之ヲ殺ス。甲斐ノ軍随テ皆出ツ。大ニ戦フテ互ニ勝敗アリ。信玄潜ニ令ヲ下シ、犀川ヲ渡リ、旗ヲ伏セ、葦中ヲ経リ直ニ謙信ノ麾下ヲ襲フ。麾下潰走ス。宇佐美定行、横ニ信玄ヲ撃チ之ヲ破ル。信玄数騎ト走リ河ヲ乱ル。一騎将アリ。白布ヲ以テ面ヲ覆ヒ、太刀ヲ抜キ、来リテ信玄ヲ中流ニ逼ル。信玄将ニ逃レントス。騎将罵テ曰ク、「豎子、此ニ在ルヤ」ト。刀ヲ挙テ之ヲ撃ツ。信玄麾扇ヲ以テ之ヲ扞ク。信玄ノ従士、之ヲ救ハント欲ス、水速シテ近ク能ハズ。槍ヲ挙テ之ヲ撃ツ。馬ニ中ル、馬跳リテ淵中ニ入ル。信玄因リテ免ル。是日両軍死傷相当ル。信玄創ヲ被レリ。・・・越後ノ捕虜云フ、「導キノ騎将ハ乃チ謙信ナリ」ト。

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[→680] Re: 明治の歴史書から   野ア 準 : 2020/01/09(Thu) 09:59 No.681
11  上杉謙信・武田信玄の「川中島合戦」は天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで5回行なわれた、とされています。しかし基本文献が武田方の「甲陽軍鑑」、上杉方の「北越太平記」など後世の脚色されたものしかなく、しかも面白いエピソードはこれらの文献にしかないという厄介な歴史だそうです。

 両軍が本気で衝突して大きな戦いになったのは第二次の天文24年、川中島八幡原で両軍主力が戦った永禄4年の第四次合戦とされています。江戸時代には信玄・謙信の一騎打ちは第二次の合戦で川の中、とされていました。川中島合戦の屏風絵などにはこの様子が描かれ、笠間氏のこの場面の種本となっている頼山陽「日本外史」もこの説に拠っています。

明治以後は小説や映画、テレビドラマなども両雄の対決は第四次合戦に上杉軍が武田の本陣に迫った時の事としています。大将自ら斬り合ったという以外に同時代史料なし、脚色自由自在と判明したからでしょう。

 なおこの真偽不明の文献には「小豆長光鉄砲斬り」という名剣伝説もあります。

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神社への刀剣奉納の始まり   野ア 準 : 2019/12/17(Tue) 15:47 No.677
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8  幕末明治に筑後柳川藩士から明治政府に仕えた漢学者・官吏で、旧制五高などで教鞭を執った笠間益三(1844-97)の『日本略史』という本があります。明治11年(1878)刊の木版本の日本史概説、神武天皇から明治10年(1877)の西南戦争終結までですが、政治史を中心に外交史、文化史、挿話などにもふれ、面白い通史でした。

 その古代史、人皇11代垂仁天皇の記事に
「二十七年 兵器ヲ以テ神幣ト為スヲ卜(ぼく)ス。吉ナリ。兵器ヲ以テ神ヲ祭ル、此ニ始ル。本邦尚武ノ風。由リテ来ル所ナリ」。
 とありました。

垂仁天皇は『古事記』にも
「また鳥取の川上宮に坐して横刀(たち)一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り・・・」とあり、この刀剣大量製造と石上神宮への奉納の記事は『日本書紀』垂仁天皇39年紀にも見えますが、兵器奉納の事はそれより12年前の垂仁紀に

「二十七年秋癸酉朔己卯。祠官(かむつかさ)ニ令(のりごと)シテ兵器(もののぐ)ヲ神幣(かみのまひ)ト為(せ)ンコトヲ卜(うらな)ハシムルニ吉也(これよし)。故、弓矢横刀ヲ諸神ノ社ニ納ム。乃チ更ニ神地、神戸ヲ以テ定メ、時ヲ以テコレヲ祠シマツル。蓋シ兵器ヲ以テ神祇ヲ祭ルハ是時ニ始テ興ルナリ」。
とあります。

時代が神仏習合・神儒合一を離れて純粋の日本神道への回帰を模索していた時でもありますが、こういう些事にも気づくとは流石明治の史学者だと思いました。

 令和元年もあとわずか。皆様よいお年を。
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Re: 神社への刀剣奉納の始まり   花散里 : 2019/12/31(Tue) 18:12 No.679
1 いつも興味深い話題を提供いただき、誠にありがとうございます。

体調にはくれぐれもご自愛いただき、良いお年をお迎えください。
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Re: 神社への刀剣奉納の始まり   真改 : 2019/12/29(Sun) 15:22 No.678
1 今年も大変お世話になりました。

来年もよろしくお願い致します。
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久米舞を見てきた   野ア 準 : 2019/11/24(Sun) 09:48 No.676
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8  11月14日に奈良県橿原神宮の大嘗祭を拝観してきました。

例年は勤労感謝の日に執行の新嘗祭を今年はご即位大嘗祭に合わせこの日におこなったとの事です。

新穀奉納の後は巫女舞かと思っていましたら男性四名が抜刀しての勇壮な舞がありました。「久米舞」と言い舞楽でなく雅楽の「国風歌舞」で、宮中では大嘗祭の時のみ舞われる舞、とのことです。橿原神宮に伝えられたのはご祭神 神武天皇ゆかりの舞だからでしょうか。「みつみつし久米の子らが頭鎚(かぶつつい)、石槌(いしつつい)持ち、討ちてしやまむ」です。

 太刀は金装の直刀でしたが、気になったのは水平でなく柄の方が高くなるように佩びていたことです。抜刀しやすいためでしょうか。
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今年の正倉院展   野ア 準 : 2019/10/30(Wed) 14:42 No.675
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7  10月29日に奈良国立博物館の正倉院展を見てきました。台風でもないのに強い雨で、例年のような行列はなくゆっくり見られたのはいいのですが往復が大変でした。

 今年の展示の目玉は「鳥毛立女屏風」全6枚一挙公開、天武天皇ゆかりの木厨子、金銀平文の琴、帝冠の破片、象牙尺(物差)などで武器・武具はなし。鉄器は「子の日手辛鋤(ねのひのてからすき)」程度でした。聖武天皇追悼の東大寺への奉納品のリストは武器・武具が三分の二を占めていたというのに。刀剣・弓矢・甲冑などは天平宝字八年(764)、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の直前に大半が出蔵されて戻ってこなかったそうです。

 寺院の勢力が増加しつつあり、武器武具の保管は危険、とされたのでしょうか。
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刀剣を打つ日   野ア 準 : 2019/09/28(Sat) 12:34 No.673
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8 多田義俊『南嶺遺稿』(日本随筆大成・10)に

刀剣を打つ日取
 刀剣を打つ日取のある事はいにしへよりある事なり。まづ『中右記』には庚申を用いるとあり。庚も申も皆金なり。それ故庚申を祭るも金と金とが相逢う故、何事も災事のなきやうにとまつる事也。また『藤原家長日記』を見れば、壬癸の日に打つと有り。剣は水気を含(ふくま)するがよしと也。また室町家の法は戊己なり。しかれば土生金なり。是は何によって故事を見給ふや知らずともよろしき日取りなるべし。さて唐(もろこし)『漢魏叢書』の中に、『刀剣録』と云が有り。又坪井先生の『本朝古今刀剣録』といふ書をせられたり。是には堅く『浅深抄』の庚申の説をとりて、金と金とが能(よじ)とあり。しかれども予が心には、土による金なれば室町家の方がよろしくおもふ也。
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Re: 刀剣を打つ日   野ア 準 : 2019/09/28(Sat) 13:17 No.674
8 追加説明
易占に詳しい方は御存知のように「十干十二支」は五行説では「木・火・土・金・水」のどれかに属し、互いに「生・剋」などの関係があります。刀剣を作る日は「金」、「水」「土」のどれに属する日がいいのか、です。刀剣の銘文にも関係します。十二支では寅の日も刃物を打つのにいい日とか。
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アフリカの鉄 補足   野ア 準 : 2019/08/28(Wed) 20:56 No.672
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8 日本が音頭をとったアフリカ開発国際会議が横浜でありましたが、一般の関心はあまりないようで残念です。
アフリカの伝統的製鉄が注意されてきた頃の本、 Yvonne Ayo “Africa” Eyewitness Gides 61,Doring Kindersley book 1995はヨーロッパの博物館の民族学資料を中心にした一般向けのアフリカ文化史図鑑ですが、鉄加工に1ページをあて、鍛冶屋の革フイゴなどの写真を出しています。
「鉄はサハラ以南のアフリカで紀元前300年頃からの多数の遺跡が見つかっている。鉄鉱石は土器の炉(earthenware furnace)で高温に加熱され「ブルーム(bloom)」という粗鉄塊になる。それはインゴットや棒の形にされて交易の対象物とされ、地方の鍛冶屋で製品に加工される。鉄の製錬はきわめて難しく、操業の前には音楽や踊りによる成功を祈る宗教儀式がおこなわれる」とありました。

 当時は「拾ってきた低品位の鉄鉱石、燃料は木炭というより消し炭、弁もない非効率な革フイゴ、銑鉄は作れず鉱滓を噛みこんだ粗悪な金属鉄、低炭素で焼き入れもできない」とされていましたが、最近のネットでは、「浸炭、脱炭、焼き入れ、焼き戻し自由自在。起源も古く、『鋼の時代』は古代アフリカに始まる」と話が大きくなっています。
あと武器は弓矢と槍が基本だそうで、刀剣文化はイスラム化した地域だけとか。
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アフリカの鉄文化   野崎 準 : 2019/07/29(Mon) 21:17 No.671
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8  堺市・羽曳野市の古墳群がユネスコの世界文化遺産に選定されましたが、今年は同時に西アフリカのブルキナファソの古代製鉄遺跡群も選ばれています。

 暗黒大陸と言われ西欧の植民地になるまで原始社会のように言われていたアフリカに意外に古くから鉄器文化があったことは20世紀はじめから注目され始め、ナイル川の上流スーダンに「アフリカの鉄都バーミンガム」と言われたメロエ製鉄遺跡群、フランスの記録映画「マンダラ」で革フイゴと粘土製炉による原始製鉄法が紹介された中央アフリカのカメルーンなどが知られていましたが、今世紀に入り西アフリカ・中央アフリカなど鉄鉱石の豊富な、森林の回復力も強い熱帯雨林地帯から紀元前2000年紀にまでさかのぼる古い製鉄遺跡が多数発見され、今回指定のブルキナファソの遺跡もその一部だそうです。

 アフリカ各地の原始製鉄はヨーロッパの鉄器が輸入され始めると途絶え、第二次世界大戦中の鉄需給逼迫時に一部で復活しますが、中国の過剰生産鉄の大量流入でそれも終焉となったそうです。

 ネットにはアフリカ各地での伝統的原始製鉄法の復元実験が紹介されていますが、中国語字幕の出る物もあり、最近のアフリカへの中国進出の一端もうかがえます。日本の鉄文化研究者はどの程度現地で研究しておられるのでしょうか?
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