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年頭に寄せて   野崎 準 : 2017/01/01(Sun) 19:36 No.611
11 新年おめでとうございます。

偶成 鍋島閑叟
孤島結団意気豪。西南決眥萬重濤。點奴若有窺辺事。羶血飽膏日本刀。

孤島 団を結びて意気豪なり。
西南 眥(まなじり)を決すれば萬重の涛。
點奴(てんど=悪賢い人々)もし辺を窺う事あれば。
羶血(鮮血)飽くまで膏(こう)せん日本刀。

 幕末佐賀藩主鍋島直正の漢詩です。『佐賀藩銃砲沿革史』によれば長崎に近く早くから西洋の事情に通じていた佐賀藩は他藩に先駆けて西洋技術を導入していた、とありますが藩主自ら文明開化の必要性を力説、一方ではこのような豪快な詩を詠んでいました。
 さて21世紀のわが国民の団結や如何に?
 

Re: 明けまして おめでとうございます   真改 : 2017/01/02(Mon) 14:12 No.612
1 明けまして おめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

年の瀬に   野崎 準 : 2016/12/27(Tue) 21:51 No.609
8  今年もあと数日になりました。12月初めに北野天満宮の紅葉苑公開時の刀剣展を見てきました。お馴染みの名刀が並んでいましたがさすがに混雑はなくゆっくり拝見できました。詳細に拝見して初めて気が付いたのは備前長船祐定作の刀で、「映り」が鎬地まで達していた事です。備前刀の「映り」は焼き刃の上の平地の部分にあるとだけ思っていたのですが。

 京都愛宕神社の本地「勝軍地蔵菩薩」について調査し、石仏や明治の廃仏をのがれて保存されている像を沢山拝見しました。甲冑の上に僧衣をまとい白馬に乗った地蔵菩薩です。軍神として室町時代に盛行し、各地の戦国大名により勧請されましたが、近世には防災防火の神となり、軍神としての記憶が消えつつある仏です。仏教史の研究者によると日本で創作された仏、典拠とされる「蓮華三昧経」も日本撰述経典とされています。刀剣に不動明王やその象徴である倶利伽羅不動剣を彫刻する例は多いのですが、勝軍地蔵を彫刻した例は浅学にしてまだ見つけられません。ただ地蔵菩薩を示す梵字を彫刻した刀は案外この勝軍地蔵を現していたのではないかと思いました。来年への宿題です。

皆さまよいお年を。

Re: 一年、おせわになりました。   真改 : 2016/12/28(Wed) 12:31 No.610
1 野崎先生、今年一年、大変お世話になりました。

また来年もよろしくお願い致します。
良いお年をお迎えくださいませ。

真田丸大阪展にて   野崎 準 : 2016/11/19(Sat) 22:38 No.608
11  大阪歴史博物館の「真田丸」大阪展を見てきました。戦国末期に武田・上杉・豊臣・徳川の間を渡り歩いて生き延びた真田家の流転がテーマで、華々しい武器武具はあまり展示されていませんでした。特に鉄砲がなく、津和野の青銅製仏狼机大砲だけというのも残念な気がしました。

 刀剣は伝・矢沢頼幸の脇差(伝・為継)、長宗我部盛親の無銘刀(伝・孫六兼元)の他初公開という短刀「小尻通新藤五(国光)・越前康継再刃」と康継による模作の脇差「以南蛮鉄 骨喰吉光模」と、「なんばんがね しし貞宗のうつし」が展示されていました。

 骨喰藤四郎はオリジナルが明暦大火で焼け身になり再刃する前の模造で貴重との事でした。梵字・不動明王と倶利伽羅竜の表と裏の彫を見ることができるよう独立ケースでの展示でした。

今年も正倉院展へ   野崎 準 : 2016/10/26(Wed) 17:22 No.607
8  アクセス50万件突破のご様子、おめでとうございます。

 例年通り奈良国立博物館で開催中の正倉院展を見てきました。今年の中心は染織工芸のようで、テーマ展示に「金属加工」があったのですが刀剣は刀子一口だけで、従来白銅と考えられていたものが化学分析でアンチモンと判明したインゴット、伝製品として稀有な「和同開宝」「神功開宝」それに鈴などの金工品だけでした。

 正倉院宝物の管理台帳に「天平宝字八年(764)九月に太刀88、弓103、甲冑100等が出庫されて戻ってこない、藤原仲麻呂の乱に関係した事か」とありました。正倉院の本来の収納物が武器・武具を多数含み、古墳の副葬品と似ている、というのは昔から問題にされていました。「古墳に副葬された武器も国家非常の時には掘り返して国防のために使う目的ではなかったか?」と。

 刀剣・弓箭・甲冑はわずかに残っているのですがめったに展示されないのが残念です。

三春秋田家の名刀   野崎 準 : 2016/10/13(Thu) 10:27 No.606
11  福井県小浜市に行きました。日本海に面した小浜港から少し丘陵地帯に入ったあたりに「羽賀寺」という古寺があります。開山は奈良時代で元正・村上両天皇の勅願寺、本尊の十一面観音ほか重文の仏像三体がありました。

 お寺の解説では「大河ドラマ『炎たつ』の安倍貞任の子孫」となっていましたが、津軽の戦国大名安東康季が室町時代永享八年(1436)から11年かけて衰微していた羽賀寺を再建、その子孫安東(後に秋田氏)実季も文禄二年(1593)から修理を行っていることが同寺の縁起に見え、安東実季書状などの文書も伝えています。
 津軽の安東氏は後に常陸国宍戸、更に陸奥国三春に移封させられ、系図にも不明な点が多いそうですが史料の少ない北東北の貴重な記録になっています。

 昔考古学の先生に、「昭和14年に秋田子爵家の文化財が某帝大に寄託され、膨大な古文書で大いに研究が進展したが、宝物の中に刀剣十数振があり、いずれ劣らぬ名刀揃い。筆頭は備前友成だった。友成といえば日本刀完成期の古刀の優品で、神社の神宝、摂関家など高級公家に伝わるものが大半なのになぜ三春五万五千石に伝わったのか?」と教えて頂きました。

 室町戦国の地方大名は意外と都で皇室や公家との繋がりを大切にしていたようですが、津軽安東氏も勅願寺で皇室とつながりの深い羽賀寺を中央権力との友誼に利用していたのではなかったか、と思いました。勅願寺は全国各地にありますが、若狭国は日本海沿岸の物資を陸揚げし、琵琶湖経由で都に送る要地で、都との結びつきの強い地でしたから。

 その先生のお話に「秋田子爵家寄託品の刀剣に祢々狐狸(ねねこり)の脇指という重代の宝があった。藩祖公の母君がねねこりという妖怪に悩まされていた時、この脇指が自然に抜けて妖怪を切り殺したという伝説があった。添えられた『折り紙』も帝大古文書学の教材に用いられるほどの貴重なものであった」とか。

地下室の火薬壺   野ア 準 : 2016/09/06(Tue) 15:59 No.605
10  文化庁の「発掘された日本列島2016」が大津市歴史博物館で巡回展示中なので見てきました。昨年の大発見だった淡路島の松帆銅鐸、奈良東大寺東塔、それに解体修理中の国宝薬師寺東塔基壇の発掘調査などは写真だけで、刀剣は九州の弥生時代の物だけでした。

 東京都港区六本木の旗本花房家屋敷跡の地下穴倉出土という信楽焼の四耳壺、桃山時代に珍重された「呂宋の茶壺」と同じ形の壺5点が展示されており「内部の黒色の粉末の科学分析の結果、硝酸カリウム・硫黄・炭素の混合物で火薬であったことが判明。花房家は『常火消鉄砲組』で鉄砲の火薬を備蓄していたのであろう」との説明でした。

 多湿の地下穴倉にあえて格納していたのは爆発事故を怖れたためか、と解説がありましたが、茶壺に火薬を入れていたというのは初めて知りました。銃砲史の雑誌に福島県相馬藩から輸出されていた焔硝が入れられていた相馬大堀焼の壺が紹介されたのを見た記憶がありますが、防湿容器としての応用でしょう。

 江戸時代を通じて各藩での「焔硝蔵爆発事故」の記録は多いのですが、昔火薬史の研究をしておられた方から「火縄銃の火薬は『火薬』、ダイナマイトやカーリットのような『炸薬』(旧海軍用語、一般には『爆薬』)と違い爆発力は小さい。時代劇映画のように建物を吹き飛ばしたり大岩を砕いたりするのは無理」と伺った事があります。

 大坂夏の陣前夜、平野の地蔵堂地下に真田幸村が火薬を埋め、作戦会議中の徳川家康を建物ごと吹き飛ばそうとしたという伝説も、「ヒトラー暗殺未遂をヒントにした戦後の創作民話でしょう」と言われましたが…。

隕鉄刀を身に行く   野ア 準 : 2016/08/21(Sun) 21:21 No.602
11  兵庫県明石市の明石市立天文科学館で開催の「宇宙のタイムカプセル・隕石」展を見てきました。国立科学博物館・極地研究所・地質調査総合センターなどの協力で日本三大隕石(新潟県米納沢、岩手県気仙、滋賀県田上・共にレプリカ)、関西の主要隕石(実物)、藤原定家の日記や江戸時代の古記録に見える流星・隕石、アメリカ・バリンジャー隕石、ロシア・チェリャビンスク隕石、世界各地の石質隕石、石鉄隕石、隕鉄、火星・月・小惑星起源の隕石…など最近の研究も取り入れた大規模かつ詳細なものでした。

 富山県科学博物館蔵の「流星刀」(期間限定展示)は榎本武揚が明治天皇に献上した「白萩隕石の刀」と共に作刀された短刀で、刀剣登録証・鞘書のある白鞘も展示されていました。刀名は金象嵌で「星鉄」鞘書きは読みにくいのですが「流星刀 岡吉圀宗 鍛錬星鉄造之長七寸五厘也 其成分者星鉄三十玉鋼七十也 比率其犀利可以能断鉄也」だと思います。平造り、杢目肌、直刃、と見えました。

 また福島県田村市・星の村天文台で刀匠藤安将平氏が製作した「隕鉄剣」もあり、これは両刃で鞘書きは「隕星剣 以米国アリゾナ隕石 平成二二(四)年八月日 立子山住人藤安将平造」と読めました。これは隕鉄の結晶を引き延ばしたような地肌でした。どちらも刀剣の専門家が担当されたようで、展示法、白熱灯による照明もうまく、じっくり観察できました。


Re: 隕鉄刀を見に行く   野ア 準 : 2016/08/22(Mon) 20:15 No.603
11 訂正: 601の投稿にミスが3か所もあったので削除、訂正稿を再投稿しましたが、もう2つミスがありました。
 隕鉄刀を身に行く → 隕鉄刀を見に行く

 新潟県米納沢 → 新潟県米納津 です。

 やはり猛暑でバテているようです。

Re: 隕鉄刀を身に行く   花散里 : 2016/08/22(Mon) 22:26 No.604
1 野崎先生、いつも興味深い話題を提供していただき、感謝に堪えません。

この訂正についてですが、不思議なものでEnterキーを押して投稿してから、又は印刷してから・・・でないと、気が付かないことが多いですね。
今年の夏も例年に増して暑く、おかしな動きの台風が発生するなど、今までの経験があまり役に立たないようですね。

野崎先生も、くれぐれもご自愛ください。

古代のカナハシ   野ア 準 : 2016/07/13(Wed) 18:32 No.599
8  宮崎県えびの市の地下式横穴(地面に穴を掘り、その側面から横穴墓を掘ったもの)から6世紀の金象嵌のある鉗(カナハシ)が出土したと報じられました。

 金属の熱間加工では加熱する炉と温度を上げる送風設備(フイゴ)、材料を叩く鉄床(カナトコ)と鉄鎚(カナヅチ)、それに加熱した素材を保持するカナハシが重要な道具です。現在の鍛冶業で使うカナハシは古代ギリシャの壺絵に同じものが出ており、作業に応じた色々な形、鍛造以外にも鋳造の坩堝を挟んで持ち上げる物など多種類のカナハシがありました。

 ただし世界的には金属加工の象徴としては鉄鎚や鉄床、送風機のフイゴなどが用いられることが多く、鍛冶神を崇拝した北欧には鉄鎚や鉄床をかたどった祭器や装身具がありますが、カナハシは近代以後の鉱業・金属加工業のマークに見える程度です。

 ただ代用品が自然石で間に合う鉄鎚・鉄床に対してカナハシは簡単に調達できず、古代律令の軍防令では軍団兵士10人ごとの装備に鉗があり、『後三年合戦記』では金沢の柵が落城した時、城内から源氏の兵をののしっていた千任丸なる武士を「えびらより金ばしをとり出し」て歯を砕き舌を引き出して切った、とありますから、武士も武器・武具の修理のためにカナハシを携行していたのでしょう。

 えびの市出土のカナハシは長さ15センチとありますから、実用品でなく副葬用の祭器かも知れません。『地獄草紙』では鬼が亡者を拷問する道具にカナハシがありますから、何か鍛冶業以外の用途に使ったものの祭器という可能性もありますが。

Re: 古代のカナハシ   野ア 準 : 2016/07/14(Thu) 06:10 No.600
8 追記
 新聞記事を見ましたら金ではなく「銀象眼」でした。「象眼」は象嵌の当て字ですが、辞書にもでています。多分タガネで溝を掘り銀線を叩きこむ技法なのでしょう。金とちがい酸化・硫化で黒くなりますからよく見つけられたものです。

加賀の士風   野ア 準 : 2016/06/25(Sat) 21:33 No.598
11 戦国時代の文書展を見ていましたら、文書だけでは持たないのか戦国武将の肖像画も展示されていました。
風林火山の旗を背にした武田信玄、小袖姿の織田信長らの肖像に混じって、馬の鞍に生首をさげ、槍にも生首を貫き、返り血に染まって進む若き日の前田利家の像がありました。この絵はどこかで見た記憶がある、とインターネットで検索しましたら同じ図が沢山ヒットし、石川県立博物館、高岡市立博物館などの解説によると、「若き日の利家が信長に反抗して出仕を禁じられていた時に桶狭間の戦いが起こり、独断で出陣して首を三つ取ったが帰参は許されなかった。しかし『槍の又佐』の勇名は天下に鳴り響いた、という故事による。江戸時代に前田家が京の宮廷画家岸駒に画かせ、家臣も好んでその模写を入手したので、加賀の旧家には多数保存されている。藩士はこの図を正月の『めでた掛け』に使用した」とありました。絵によっては首の数が増えているものもあります。

北陸新幹線開通で金沢市などでは「加賀百万石は武家文化と美食の国。加賀友禅・九谷焼・越前蟹に銘酒銘菓」と宣伝していますが、やはり武士の時代、加賀前田家と家臣団には厳しい士風があったのでしょう。

いつもお世話になります   田舎侍 : 2016/06/02(Thu) 08:30 No.595
1 いつも楽しく拝見させて頂いています。

ツタンカーメンの副葬品である短剣は隕石由来の物質でできていた(鉄隕石)らしいという説をミラノ工科大学が蛍光X線による分析をもとに結論づけたという記事がありました。
古代では貴重な金属資源で天からの贈り物としても世界各地で珍重されとも。

草薙剣も黒光りしているとの説があるので もしかするとって事はないですかね。
しかし鉄や銅と比べとても重いのでは??

Re: いつもお世話になります   野ア 準 : 2016/06/03(Fri) 19:37 No.596
6  初期鉄器時代に隕鉄起源と思われるニッケル含有鉄が使われている事は昔から注意されており、1970年代には当時の分析結果からすでに「ツタンカーメンの短剣は隕鉄製」と言われていました。

 今回の調査は蛍光X線分析、すなわちX線を当てて飛び出してくる電子から資料を傷つけずに定量分析する技術による物ですが、発表では分析値がまだ出ていません。

 一方で地中海周辺の鉄鉱石にはニッケル鉱が一緒に採掘されるところが多く、製錬された鉄にもニッケルはある程度含有されている筈だから隕鉄と即断するのは危険、という意見もあります。今回どこまで説得力のある説なのか楽しみです。


Re: いつもお世話になります   野ア 準 : 2016/06/03(Fri) 20:27 No.597
8 追記:外電を探しましたらイタリアとエジプトの研究チームによる分析結果は「ニッケル10.8%、コバルト0.58%で地中海周辺の隕鉄とほぼ同成分」とありました。ハイニッケルですから鉄器時代初期では加工も熱処理も難しかったことでしょう。

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