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京都から東に旅立つ道はいくつかありますが、三条大路を東に行き、刀剣の産地粟田口から東山を越える山道にかかるあたりを蹴上(けあげ)といいます。地下鉄東西線にも「蹴上駅」があります。江戸時代の京都案内『京羽二重織留』にこの地名を説明して;
「蹴上水 下粟田口にあり。九郎よしつね牛若丸たりし時、鞍馬山を出、かね商人橘次末春にしたがひ東におもむく時此所にて関原與市にあふ。與市は美濃の国の軍士にして馬に乗り京師に入る、與市が郎党あやまりて此水を蹴上てよしつねの衣を汚しぬ。よしつね其無礼を怒り與市が郎党数十人をきりころし、猶又與市が耳はなそいで追いはなつ。牛若東行首途の吉事なりとよろこびたまふと云々」
関原與市の話は室町初期の成立という『義経記』にもなく、謡曲『関原與市』など他の義経伝説が取り込まれた物とされています。今の京都の観光案内では「平家の武士9人を斬り、供養のため9体の石仏を建てた」となっていますが、謡曲では美濃国山中の話で與市の郎党は70騎となっています。さらりと書いていますが、牛若丸が鞍馬山を出て奥州藤原氏のもとに走ったのは元服前の15歳の時と言われています。数えで15ですから今で言えば中学生という所でしょう。 あまりにも荒っぽい。これが抵抗なく観光案内に出ているのは、「武士は人斬りが本業、後に大将軍になる人物なら子供の頃でも70騎位は」と一般人も感じていたからでしょう。 そういえば芝居でも、初期の時代劇映画でも、殺陣となると大義の名のもとに数十人をバッサバッサと斬り殺すのは普通でした。「あの爽快さが人命軽視と批判されるようになって時代劇は滅びたのだ」、という説もありました。
なお源九郎義経となってからの愛刀は『平家物語』剣の巻に「薄緑」とありますが、「剣の巻」自体が後世の付け足しだと言われており、現在の活字本では省略されていますから、あまり信頼はおけない様です。
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