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『信長公記』を通読しましたので、刀剣関係の記事を書き抜いて見ました。
後から追加されたとされる「首巻」の刀剣記事は、平景清の愛刀「あざ丸」を所持していた蔭山掃部助が戦で両目を矢で打ち抜かれ、遺品を入手した武士がまた眼病になったので、「景清のタタリだ。人間が持っていては危険だ」と熱田神宮に奉納した、という話から始まります。
また永禄三年(1560)信長が桶狭間で打ち取った今川義元の佩刀「宗三左文字」は現在京都の信長を祀る建勲神社の宝物ですが、三好宗三→武田信虎→義元→信長・本能寺の変で焼け再刃→秀吉→家康→明治に徳川家より建勲神社 という伝世があったそうです。再刃したので本来の筑前左文字の刃紋とは違うとか。他に「左」の脇指を家臣に与えていますから複数持っていたのでしょう。
元亀三年(二年1571の誤り)、信長と松永弾正との会見で「不動国行」「薬研藤四郎」の刀が贈答されます。「薬研」も逸話の多い刀ですが、今は存在しません。その後に荒木信濃(村重)に「大ごう」の御腰物を与えたとあります。郷義弘。
天正五年(1577)の近衛信基元服式引出物と、翌年の荒木村重の乱関係で救出された中川瀬兵衛に織田信忠より与えられた刀剣に「長光の御腰物」があります。 天正七年(1579)、常陸国から多賀谷修理の献上した名馬を調教した青木与右衛門に「正宗の御腰物」を与えています。
天正九年(1581)に安土城で織田信忠へ「作正宗」、織田(北畠)信雄に「作北野藤四郎」、織田信孝に「作しのぎ藤四郎」を与えています。このしのぎ(鎬)藤四郎は後に豊臣秀次→秀吉→伊達政宗→徳川家光と伝わった名刀ですが、明暦の大火で失われたそうです。 終り近く、天正十年(1582)の武田勝頼の滅亡後、木曽義政に贈答の刀には中身の刀身を説明せず後藤家による刀装具の様子だけでした。戦国時代ですから刀は当然実用にも使われたのでしょうが、しだいに儀礼的な贈答品に変容していく様子が見えました。
著者太田牛一(1527-1610)は弓の達人で、文才もあり信長の側近でしたが、祐筆(書記)だったという説は確かではないそうです。後秀吉、家康にも仕え、『信長公記』の他『太かうさまくんきのうち』『関原軍記』などを残しました。『信長公記』の自筆本は建勲神社蔵で、左文字と共に京都国立博物館で展示されたのを見た記憶があります。
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