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京都三大祭の一つ祇園山鉾巡行が7月17,24日に行われました。平安時代から始まり、戦争や大火で何度も中断、焼失と再建を繰り返しての祭で多数の「山鉾」が巡行します。 日本の祭礼には刀剣が付き物ですが、祇園山鉾にもいくつかの刀剣・甲冑が伝わっています。
前祭の山鉾巡行の先頭と決まっている長刀鉾の上、長い鉾頭の上につく薙刀は、江戸時代初期の京都案内「京雀」(寛文五年・1665)に 「此長刀は武蔵坊弁慶がもちける所。真向に立れば災ありとて正面には立てず刃をかたむけて立てるとかや」とあり 後祭のこれも先頭をいく橋弁慶山については明治時代に編纂された「京都坊日誌」(大正五年・1916刊)に 「祇園会に牛若と武蔵坊弁慶橋上に争ふ偶像を山棚に立て列に加わる。之を橋弁慶町と呼ぶ。 二人の像は永禄六年仏師康運が造る所にして牛若の高足駄は釘一本にて重き人形を保たしむ。此金釘は美濃国右近の錬作なり。右近は稀代の名匠とす。弁慶携ふ所の薙刀は美濃国関の兼明の作とす。棚架黒漆金装皆名人の作なり」 と書かれています。
京都市観光協会・祇園祭山鉾連合会が毎年出版している「祇園祭」2015年版では 長刀鉾の薙刀は「もと三条小鍛冶宗近の作。現在は大永二年三条長吉作の薙刀。但し巡行に用いるのは複製」とあります。正面を向けないのは四条通を東行、河原町を北行、御池通を西行する時刃先が京都御所の方を向かないようにするためとか。何分にも「三城を靡かせ五城を破る三城巧鍛冶」とまで言われた名工の作ですから。 橋弁慶山の弁慶の甲冑は室町時代の大袖つき胴丸と佩楯で、巡行に用いるのは複製、オリジナルは京都国立博物館寄託の重要文化財です。牛若丸の足駄の金具銘は「天文丁酉(六年1537)右近信国」とか。 また後祭の浄妙山は源平合戦の宇治橋の戦いでの三井寺の僧兵浄妙房明秀を飛び越えて先陣をとる一来法師を人形で表していますが、この浄妙房の胴丸も重文指定との事です。二人の僧兵も長刀を持っています。
他にも太刀・薙刀をもつ人形は沢山ありますが、事故を恐れて刀身は模造なのでしょうか、最近の解説書には刀剣の記事が少ないのが残念です。
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