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本朝破城剣伝説   野崎 準 : 2015/05/04(Mon) 07:29 No.563
8  戦前の雄山閣『日本刀講座』掲載の寒山・佐藤貫一先生の論文に:

「三条小鍛冶宗近に関する異説として…『雄剣ひとたび振れば三城を靡(なび)かせ、再び振るえば五城を破る。三城の巧剣、神霊を動かす』なる語により『三城巧鍛冶』が正しいとする書がある。謡曲『小鍛冶』から連想したのであろうが笑話的なものになっておる(要約)」という記事がありました。

 三城、五城の詩の出典が不明ですが、わが国にも「三軍を壊滅させた」中国の名剣に匹敵する伝説があったようです。

 この説がどこまで普及していたのかは知りませんが、郷土史史料の解説で「三条小鍛冶を三城巧鍛冶と誤記しており(訂正しておいた)」というのを見た記憶があります。また「祇園薙刀鉾の竿頭につく三条小鍛冶の薙刀は巡行中に刃が御所(平安王城)の方を向かないように取り付ける」のも何か関係するのかなと。

Re: 本朝破城剣伝説   野崎 準 : 2015/05/07(Thu) 18:53 No.564
8  念のためですが漢字の「靡」は「様子をみてこちらに同調する」、の意味ではなく「滅ぼす」の意味もあるそうです。

 宅地造成ていどで跡形もなくなる日本の小規模な山城と違い中国では城壁で囲まれた都市を「城市」といいますから「三城を靡かせ五城を破る」は晋の三軍とは桁が違う大破壊力となります。
魔剣の威力 怖るべし!

Re: 本朝破城剣伝説   野崎 準 : 2015/05/09(Sat) 07:54 No.565
10 追記 戦艦武蔵が主砲を射撃中の写真が発見されたそうです。 射撃試験だそうですが、九門斉射ではないので、「猛獣欧胆」の実験の時ではないでしょう。

 刀の話ではないのですが「武蔵」ですから思いつきで漢詩を一つ。明治大正の知識人のような漢語の豊富な知識は無いながら一応七言絶句、起承転結と韻は踏んでいます。伏してご批正を乞う次第。

幽聞砲声
 武蔵巨熕揺大洋。三城五城靡依砲。風雲捲来太平洋。雖果南溟名不朽。

幽(かす)カニ砲声ヲ聞ク
 「武蔵ノ巨熕(きょこう) 大洋ヲ揺(ゆる)ガシ
  三城五城 砲ニ依リテ靡(なび)ク(滅びる)
  風雲 捲来(けんらい)ス太平洋
  南溟ニ果ツルトイエドモ名ハ朽チズ」

面影丸のこと   野崎 準 : 2015/05/01(Fri) 21:22 No.562
11 『太平記』元弘三年(1333)5月21日、新田義貞の軍に攻められて鎌倉幕府滅亡の時、幕府の勇将長崎勘解由左衛門為基が

「為基が佩たる太刀は『面影』と名付けて来太郎国行が百日精進して百貫にて三尺三寸に打ったる太刀」を奮って戦い、「その切先に回る者、或いは兜の鉢を立破りに破られ或は胸板を袈裟がけに斬って落とされ…敢えて近づくものなかりけり」
その後は為基・太刀ともに行方知れずになった、とあります。

 近藤周平「本朝名刀伝」(雄山閣『日本刀講座』五)には「長さ三尺五寸、価格は百貫とあるのは土地で後の千石に当る、当時は名刀の価格は莫大なものであった」とされ、この刀は長崎と共に行方が知れなくなったが、足利義明が天文七年(1538)北条氏との合戦で討死(国府台の戦い)した時の佩刀で、この時も行方を知らず、近年生駒家(元讃岐高松藩主)に「面影」と称する国行の刀が出たのを拝見したことがある、と結んでおられました。

 「面影」という名の由来は記録されていません。「抜き放つと顔が写るから」、という説を聞いた事がありますが、かくも修羅場を潜り抜けた名刀なら「誰とも知らぬ人の面影が現れる」、の方が神秘的な気がします。

古代中国・越の名剣「泰阿」   野崎 準 : 2015/04/09(Thu) 07:54 No.561
11  図書館で『越絶書』を見つけました。中国春秋時代の越国の歴史書(成立は後漢時代)で『呉越春秋』同様刀剣の記事があります。今まで『呉越春秋』の注釈で読んでいた「泰阿の剣」の原文を読んできました。巻十三、越絶外伝記宝剣 です。

 「越王は家臣風胡子に命じ、鍛冶の名工、越の欧冶子と呉の干将を招き名剣を作らせた。二人は茨山を鑿し、谷の鉄英を採って『龍淵』『泰阿』『工布』という三枚の名刀を製作した。隣国の晋の鄭王がその刀を求めたが許されなかったので師(軍)を発し城を囲んだ。三年の籠城の後に越王が城壁に登り『泰阿』の剣を振ると晋の三軍(前・中・後軍、合計37,500人)は一瞬にして破敗(潰滅)した。士卒は迷惑(恐れて逃げまわる)し、流血は千里に及び、猛獣は欧胆(内臓を吐く)し、江の水は折揚(巻き上がる)した。鄭王の髪は恐怖で真っ白になった。
 越王は風胡子に『これは何の効果か?』と聞いた。風胡氏が、『遠い神農らの時代には石が兵に、黄帝の時には玉が、禹(う)王の時代には銅が兵に化したと申します。今王の徳が天に認められ鉄の剣が兵となりました。三軍を威服させ、天下にこれに勝つ者はありませぬ』と答えた」

 記録されたのは後漢時代ですから取材した派手な伝承を合理的に、筆を抑えて書いたのでしょうが、動物が内臓を吐いて死んだ、大河の水が巻き上がった、というのは衝撃波ですから、核爆弾なみの大爆発が敵軍を薙ぎ払ったのでしょう。
 泰阿(太阿とも書く)の剣は、呉越春秋には青銅器と誤解している記述がありますが、越絶書の原本では明らかに鉄剣だと明記しています。
 なお「石」は打製石器、「玉」は磨製石器、「銅」は青銅器で、「中国人はこの頃から旧・新石器時代と青銅器・鉄器時代を知っていたのだ」という説もあります。

 本書の編纂された後漢時代には倭国の使者も都の洛陽に来ていましたから、日本神話の神剣伝説に影響がなかったとも断定できません。文明開化から70年で「46サンチ主砲九門を斉射したら甲板上の実験動物は内臓を吐いて死んだ。砲弾1発が直撃すれば一個旅団(1000人)が潰滅する」戦艦大和を造った国でしたから。

旧海軍のステンレス刀   野崎 準 : 2015/03/29(Sun) 12:42 No.560
11  3月21日に海上自衛隊舞鶴基地の岸壁公開を見てきました。数日後にヘリ搭載護衛艦「ひゅうが」に旗艦をゆずり退役する護衛艦「しらね」の最期の姿も見てきたかったのです。

 昭和50年代に瀬戸内海で沈没した旧海軍艦船の解体中に日本刀の束が発見され、その中に錆びていない刀があった、と話題になった事があります。まもなく防錆工学の先生が「あれは天照鍛刀所製のステンレス製品」と説明して正体が判明しました。

 焼き入れ鋼は塩水に弱く、特に敵前上陸が主任務の海軍陸戦隊(海兵隊)などは軍刀としての日本刀の錆びに悩まされ、13クロムステンレス鋼が紹介されるとまもなく、昭和5年(1930)ごろから軍刀に使われていたようです。その後鎌倉市の天照山鍛刀所で大量生産されていたと聞きました。Fuller & Gregory “Military swords of Japan 1868-1945”1987にはここの錨の刻印が紹介され「海軍専用に作刀していた私企業」と注釈されています。
 海軍士官の短剣も作っていたようですが、村田刀、満鉄刀などと同様戦後は機械作りの偽日本刀とされて伝製品はスクラップにされてしまい、海底に眠るのみとなりました。

 自衛隊の観閲行進の画像を見ていますと最前列の士官が軍刀を抜いて敬礼する場面がありますが、現在の海上自衛隊では儀礼刀はどうなっているのでしょうか。

暗殺部隊用の刀   野崎 準 : 2015/03/11(Wed) 09:24 No.559
11  嘉吉元年(1441)暴政で恐れられていた室町将軍足利義教が播磨国守護赤松満祐に暗殺される事件がありました。『嘉吉の乱』です。

 この事件は公卿の日記など同時代史料が沢山あり、軍記物は大半「潤色・誤解が多い」と退けられていますが、暗殺の原因から播磨に戻った赤松満祐と討伐軍の山名持豊との戦いと一族の自決、赤松家再興までをえがいた『嘉吉記』が群書類従に収められています。

 この中で暗殺を決意した赤松満祐が「鍛冶にて世にはやる備前泰光に刀三百腰打せ」、三百人の勇士に与えて暗殺部隊を結成したとあります。
嘉吉元年6月24日、カルガモの雛を披露との事で赤松邸を訪れた将軍義教は乱入した赤松の家臣たちに押さえつけられ、安積(あづみ)行秀(播磨宍粟郡の人)に首を刎ねられました。

 史実か噂だけだったのかは別として「将軍暗殺のための刀」を特注で大量生産したと言われたら備前鍛冶も赤松氏没落後は大変だったのでは、と調べましたが、鍛冶叢伝の類にはこの記事はなく、備前で「ヤスミツ」と名乗る刀匠の逸話中にも見えませんでした。徳川将軍家に祟るという村正のような伝説にはならなかったようです。

刀は妖魔を遠ざける   野崎 準 : 2015/02/28(Sat) 07:25 No.558
7 『今昔物語』巻二七は「本朝付霊鬼」として45編の鬼や魔物の話をのせています。

 その中に「柱の穴から手を出して差し招く妖怪がいたが、その穴に鉄鏃を差し込んだら出なくなった」と鉄が鬼を退ける力を示す物、「鬼が大きな板に化けて室内にいた貴族を押し殺した。しかし外で目撃した二人の兵(武士)には危害を与えなかった、それは二人が帯刀していたからで、刀は鬼を寄せ付けない」、という話があります。

 一方で鬼が化けた人にうっかり刀をあずけてしまい、斬り殺されたという話もありますが、平安時代の人々は鉄=刀剣に破魔の力を認めていたのでしょう。

韃靼・タタールとたたら製鉄   野崎 準 : 2015/02/06(Fri) 20:05 No.556
10  タタールスタン共和国から出雲のタタラを見学にきた、と報じられていました。

 カスピ海の北端から北上した所にKazan(カザニ)という都市があり、その東方一帯がタタールスタン共和国です。「-スタン」が国名についているので分かるように現在の宗教はイスラム教です。鉱産物は石油と石膏となっていますが、この場所は古来鉱産物資源とその加工が盛んな「ユーラシアの冶金術のセンター」、ウラル山脈の麓で、隕石で有名になった工業都市チェリャビンスクやその西の精密金属工業の町ズラトゥストから山脈を越えた反対側の地域になります。そのためか「ヨーロッパで最初に鋳鉄を作り、宝飾技術も発達」と紹介されています。

 中世には「黄金のホルド(ホルドはモンゴル王の幕屋=宮殿)」と言われたキプチャク・カン国の一部でしたから唐時代から鉄鋳物で知られた中国の鉄加工技術が伝来していてもおかしくありません。

 ただロシアの南には国名に「−スタン」のつくトルコ系民族のイスラム国が多いので、この地の鉄器文化の源流はヒッタイト直伝、と強弁できるかも知れません。

 韃靼=タタール=たたらの語源、説は明治時代から言われていました。ただし発音が似ているだけならポルトガル語にタララブェロ(祖父)という言葉もありますし、今は誰も問題にしていないようですが。

[→556] Re: 韃靼・タタールとたたら製鉄   野崎 準 : 2015/02/10(Tue) 17:18 No.557
10  タタラ=タタール説は明治の冶金学者渡辺渡(1857-1919・東大冶金学部教授)が『地質学雑誌』310号に「タタラはタタールの転化。アルタイ地方を中心として東西に侵入したタタール族は黄金その他の冶金の業に優れ…古く支那では多々児、唐以後は韃靼と呼ばれた。我が国の鞴はその形も語もタタールの製鉄炉と同じであり…蒙古・朝鮮を経て輸入された」旨書かれています。

 中国の鉄器文化は基本鋳鉄文化で茶の湯釜、刀剣などの鍛造文化はスキタイなど北ユーラシアの文化、というのが19世紀の通説でしたから、刀剣用玉鋼をつくるケラ押しのタタラは北から、と考えたのでしょう。

京都国立博物館にて   野崎 準 : 2015/02/04(Wed) 19:12 No.555
8  京都国立博物館「永 藤一(なが・ふじかず)コレクション第二期」を見てきました。

「刀 野田繁慶」、「刀 長曽禰興里入道虎徹」が独立ケースに展示。壁ケースには「太刀 信実・秀正合作」「短刀 備前長船長守」等。それに「金熨斗刻鞘大小拵・伝立花宗茂所持」の刀装具がありました。

 虎徹は銘を「乕徹」と刻んだ時期のもので、さすがに迫力十分でした。

冬の旅   野崎 準 : 2015/01/28(Wed) 18:31 No.554
10  冬の観光オフシーズンですが、京都では「冬の非公開文化財特別公開」が3月中旬まで行われています。

 東山の「六道珍皇寺」では奉納刀が展示されていました。一振りは「上総介藤原兼重」銘の刀で江戸時代に同寺の檀那赤松家により奉納されたもの、もう一振りは無銘・伝薩摩国元平の刀で薩摩拵の鞘・柄がついており、幕末薩摩藩関係の志士が奉納した物か、と解説されていました。この寺は「文才を買われて昼は朝廷に仕え、夜は冥界で書記の手伝いをしていた」地獄の派遣社員・小野篁ゆかりの寺で、収蔵庫の薬師如来像(重文)、小野篁・閻魔大王・鬼卒・冥官像(江戸時代)、参詣曼荼羅なども公開されていますが、刀剣の展示は予想外でした。

 非公開文化財以外にも寺町の本能寺宝物館大宝殿の「本能寺と法華文化」では伝・織田信長公愛刀の伝・三条小鍛冶宗近の太刀、伝・森蘭丸背負刀の無銘野太刀(三尺四寸六分)、粟田口国綱の太刀、山城国光の短刀などが展示されていました。さすが「天下布武」の信長公ゆかりの寺です。ただ気になったのは太刀と刀を刀掛に置く向きが逆な例があったこと、刀掛と刀身の間に「三角座布団」を挟んでいた事でした。

 鉄鋼の刀身と木製の刀掛、あるいは座布団などの繊維製品の緩衝材を接触させると、気温が急低下した時に木や繊維製品の湿気が金属の表面に結露して錆びの原因になる、と言われています。そのため博物館で展示する場合刀掛の刀が接する部分にアルミや鉛の板を挟んで、結露がそちらに生じるよう工夫するのですが。

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