2008年1月1日 第10回出題「左」


 電脳鑑定倶楽部参加の皆様、明けましておめでとうございます。
 本年も鑑定倶楽部を、宜しくお願い申し上げます。

 さて、今回の答えは「左文字」の短刀でした。

 ご入札は、殆どの方が一の札で「当」を取っておられ、結構な入札でございます。
 「左文字」は通称「大左」と呼ばれ、銘文の「左」は左衛門三郎の略と言われています。
 「左文字」は筑前国隠岐浜の住人で、筑前国宇美住人実阿の子という説と、入西の子ともいう諸説があります。
 また本国が相州で、西蓮を頼って九州に下向したとする説もありますが、真偽は定かではありません。

 一見、大和伝気質を踏襲した、地刃が沈んでひなびた直刃調のもので、これと言う特徴のない作品ばかりでしたが、突然変異とでも申しましょうか、「大左」はそのひなびた作風から脱却して新しい作域を造りだしたのです。
 それは、刃白く地は青く供に澄んで冴えわたり垢抜けて独創性な、今までの九州ものにはない乱れ刃の作域を造りだしました。
 このような画期的な作風から、古来より正宗十哲の一人として知られるところです。
 しかしながら、交通網が余り整備されていないこの時代に鎌倉へ赴き、実際に正宗に師事したとは少々無理があるようです。

 しかし、南北朝時代には、この九州地方に関東武士団が来往しています。
 歴史に詳しい方ならご存知のとおり、建武の何年だったか忘れましたが、足利尊氏が北畠某との合戦に破れ窮地したおり、九州筑前まで敗走し、そこで陣を立て直すまで駐留していたことや、足利直義の養子の直冬が九州地方で鎮西探題として勢力を振るっています。
 そんな彼らの差料の中に、今まで見た事のない相州伝の刀を見て、それを模倣ではなく思考錯誤の上で、「大左」は独自の作域を完成したと言えましょう。

 「大左」の初期作と言われるもの中には、父実阿の作風に似た物が多いと聞きます。
 そして、「大左」本来の作域はこの建武以降のもので、今回の鑑定刀もその時代のものと思います。
 また、「大左」の作品には、名物になったものや号の付いたものが多いですね。
 例えば「紅雪左文字」や「小夜左文字」などです。
 勿論現在では、国宝や重要文化財に指定されておりまして、おいそれと手に取って拝見することは叶わぬ夢でありますが。

 なぜ銘に「左」と切銘するのか、疑問を持たれる方が多いかと思いますが、こんな講談が残っています。
 「大左」が正宗の元に弟子入りし、数年後刀工としての修行が終わり筑前に帰国する時、正宗が「大左」との別れを惜しみ、神奈川県の藤沢まで送って行く積りが小田原、更には天下の剣「箱根山」を越えて三島まで来てしまい、「もう送り届けるのも此処までだ。これを俺だと思って大切にしろよ。」と、着物の左袖を裂いて「大左」に渡した。
 それを記念に、銘に「左」とばかり切る様になった、という面白い話があります。

 あと2〜3の逸話がありますが、紙面の関係上割愛させて頂きます。

 左文字の作柄ですが、短刀に言及して解説するならば、身幅狭く重ねの薄い、小ぶり(六〜七寸)で気の利いた感じのする刀姿です。
 地鉄は板目肌が良く詰まり地沸が豊富によく付き、沸映り立つものがあり、ものによっては大肌や柾目肌の混じるものがあります。
 刃文は沸出来で、のたれ刃調に五ノ目乱れがまじり、足よく入り砂流しが掛かります。
 焼き出し付近には大きな乱れを焼き、これを左文字腰刃といいます。
 また、帽子は乱れ込んで尖る、いわゆる「さばき頭」となるのが特徴です。
 何れにしても、地刃ともに明るく冴えております。

 「さばき頭」の語源は歌舞伎の髷から由来したもの言われていますが、詳細は解りません。
 特徴は、フクラの辺りで一つ乱れ逆足風になったものが、地蔵帽子又は尖り帽子になったものが刃方に寄りながら深く返るものを言います。
 
 如何でしたか?
 新年に相応しい名短刀でしたね。
 それでは、次回をお楽しみに。
                              
 竹屋主人