2008年1月31日 第11回出題「左行秀」


 今回の答えは、新々刀の「左行秀」でした。

 大多数の方々が問題をアップロード直後にとても早い入札で、それも全て一ノ札で「当」で、とても結構な入札でございました。

 「左行秀」は文化十年(1813年)筑前国に生まれ、姓を豊永、名を久兵衛と言い、「左文字三十九代末孫」と称しています。
 天保の初め頃、江戸に出て「細川正義」の門人「清水久義」に入門し鍛刀の技術を学び、弘化三年(1846年)に土佐藩山内家のお抱え工となり、その折「関田真平勝弘」という、土佐藩の「御鉄道具御用兼藩工」の知遇を得、彼の亡き後には土佐藩工のお役目を継いでおります。
 万延元年(1860年)或いは文久二年(1862年)との二つの説がありますが、再び彼は江戸に出府して江戸の砂村土佐藩邸で槌を振るいますが、明治初年には土佐に戻ってしまいます。
 土佐に戻ってからは「東虎」と銘字したものがあり、特に愛刀家の間では垂涎ものであります。
 明治三年八月日以降の作刀年紀がないことから、彼の刀鍛冶としての活躍が天保十一年から明治三年までと推量できます。

 明治三年(1870年)には庶民の帯刀を禁止、明治五年(1872年)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令が公布、そして極めつけは、明治九年(1876年)三月二十八日に発せられた「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告」、いわゆる帯刀禁止令のことでありますが、これにより、武士としての特権階級のシンボルである帯刀ができなくなり、同年には徴兵制度や秩禄処分などの法律ができ、いわゆる四民平等の風潮のなか不平不満の士族達が各地で反乱を蜂起した、そんな時代に彼ほどの名工が突如として刀鍛冶を廃業してしまいました。

 刀剣書籍によれば、この廃刀令が彼の刀鍛冶廃業の理由の一つとして取り上げられておりますが、この激動の幕末維新を駆け抜けた「左行秀」には、もっと別の奥の深い理由があるようにも、私竹屋は思いますが閲覧者の皆さんはどうお考えでしょうか?

 彼の作品には鎬造りの刀が多く、短刀の作は稀で新々刀相州伝の作者として「源清麿」と双璧であります。
 同時代の名工「固山宗次」は、終生備前伝の作品に固執しましたが、「行秀」と「清麿」は備前伝から相州伝に転向し成功を成し遂げた数少ない刀工であります。
 長寸で反りの浅い切先の伸びた体配を特色としており、またこれとは別に無反りに近く勤皇刀と呼ばれものがあり、共通して言えることは沸匂いが殊更深く、地沸が厚く付いて刀身の表面が沸の光で真冬の満天の星空を彷彿とさせる出来であります。

 行秀は古刀期の「江義弘」や「志津」、新刀期の「虎徹」や「真改」に私淑したものと見る事ができます。 特に「真改」を狙った作品には、平肉なく身幅が広く切先が伸びて、反り深く棟を大きく卸して鎬の高い造り込みになっており、体配は違えども地鉄や刃文の様相はまるで真改を見るような作品があります。
 
 また、柴田先生の解説押形のとおり、銘や鑢目にも彼の特徴が見て取れます。
 この際ですので、良くご承知頂ければ刀剣鑑定に深みを増すことでしょう。

 最後に、「行秀」の後半生は謎に包まれたところが多く、明治二十四年(1891年)に他界しましたが、終焉の地は「横浜」とも「大阪」とも言われており、詳らかではありません。

 今回は特徴のある名工であるとともに、前回の「左文字」繋がりでピンと来た人も少なくないと思います。
 次回は、いよいよ年間最後の締め括りの問題です。
 少し手ごたえのある問題をご用意いたしますので、お楽しみに。
 はてさて天位、人位、地位は誰の手に?

 竹屋主人