2008年3月1日 第12回出題「平信秀」


 今回は、「栗原信秀」の短刀でした。

 ヒントを二つばかり消して出題しましたが、何かピントがボケた出題になり、参加者の皆様にはご迷惑をお掛けしました。
 「戦国時代の鎧通しの写し」と「名工の弟子」の、二つのヒントを消させて貰いましたが、これだけで「時代」、感の良い方なら「個銘」まで当ててしまう可能性が強かったので、あえて消させて頂きました。

 一ノ札では大和伝が強く表現されているところと、先ほどの鎧通しの体配から「末備前の忠光等」や「南紀重国」の札が圧倒的でした。
 「忠光」は直刃の名手として知られ、帽子も今回の出題刀の様に一枚風のものがあり、一見大和風で体配と併せて納得できる入札でございます。
 「南紀重国」の入札は大和伝風の刃文からでしょうか、しかしながらこの時代のものに、この姿はあまり見受けません。

 なお、今回は源清麿一門の入札は、全て「当」扱いと致しました。
 1名の方が一ノ札で個銘当たりのほか、大多数の方々が二ノ札で清麿一門へ入札と、各位の見識の高さが伺える入札となりました。

 短刀の鑑定は非常に難しいようですが、やはり時代の姿というものがあります。
 一ノ札で「時代違い否」でも、これはかなり大きなヒントを貰ったことになります。
 好き者のお遊びです、鑑定家ではありませんのでザングリと行きましょう。
 「短刀」を時代別に勉強するなら、「鈴木嘉定著(元日刀保会長)」の「短刀」がお勧めです。

 ここで、栗原信秀の裏話をお話しましょう。

 信秀は、実は師匠の清麿と仲が良くなかったようであります。
 嘉永3年、信秀35歳の時に清麿に弟子入りする訳でありますが、元々は鏡師である信秀は職を異にしても天性の一芸を持ち合わせて居るので、作刀技術も短期の修行で会得したと言われております。

 自信を増した信秀は師清麿に対して、幕末という時代背景から刀の需要が多くなり、追い風を受けた影響もあって、「自分が鍛錬した刀に自らの彫金を施し、美術的価値を一層高め、独立してもやっていける。」との焦る言葉に、清麿は「名刀を作る道は、基礎となる優れた良質の鉄を得る以外ない。彫金によって刀を美化するなど本末転倒である。」と叱咤しました。

 このような見解を異にした師弟間の論争の末、信秀は嘉永5年斉藤清人の入門前後の頃に、師に弟子らしい務めを果さないまま清麿の許を去ったといいます。
 そして、文久3年紀の作刀から、師の「源」清麿に対して挑戦するかのように「平」信秀と切銘しているあたりは、かなりの自信家であったようにも感じられます。

 信秀は、慶応3年頃まで大坂に居住し作刀を行っていますが、この時に信秀は師清麿の亡くなった後の残務処理を、おとうと弟子の清人ひとりに任せて、皆、立ち去って行った当時のことが今更ながら悔やまれてならず、「己が今あるのは、恩師の薫陶による賜物である。せめてもの思い。」と、信州松代藩真田家の菩提寺である高野山蓮華定院の管理地内に清麿の墓地を独力で建立し、更に位牌を同院に安置して師の冥福を祈ったとのことであります。

 紆余曲折はあるものの、名工と呼ばれた師弟であったことは間違いありませんね。
 余談ではありますが、清麿大鑑の148項の二尺三寸四分の刀の押し型の帽子と、今回の出題の短刀の帽子は非常に酷似しております。ご
 参考までに。

 次回から、第2クールに入ります。
 それまで、少しお休みさせて頂きます。

 竹屋主人