2007年12月1日 第9回出題「備前介宗次」


 今回の答えは、「固山宗次」でした。
 
 大多数の方が一ノ札で「当」を取っておられ、大変喜ばしい結果となりました。
 皆さんご存知のとおり、「固山宗次」は通称を「宗兵衛」といい、「備前介」を受領しております。
 奥州は白川に固山宗平、宗俊の弟として享和三年にこの世に生を受けました。
 新々刀備前伝の名手で「加藤綱英」、一説には「長運斎綱俊」に鍛刀技術を学んだと言われております。
 後に「寛政の改革」で有名な松平定信公(楽翁公)のお抱え鍛冶となり、楽翁公が伊勢桑名に転赴のおり、宗次もこれに従い伊勢桑名に赴いています。
 これにより刀剣関係書籍には、桑名打ち(幕末新々刀期に、古作備前物を主体とする偽物製作が横行し、この偽物の作者が伊勢桑名在住の刀工であったとされることに所以される)が固山宗次一門の作であるかのように記述されているものがありますが、私はこれ程の名工がわざわざ偽物を作る必要性があったのかと大変疑問に感じております。

 また、江戸の宗次の鍛刀所の近所に稀代の名工「源清麿」が引越してきた際に、何の挨拶もないと「お冠になった」という逸話も残っています。

 宗次の作風ですが出来不出来が少なく、焼き幅が一定であり、匂・沸崩れがなく地鉄も他の新々刀と同様な小板目詰んだものが多く、綺麗に感じる方も多いかと思います。
 刃文も独特で、丁子が3つ4つ揃った乱れが一山となり、これを「宗次丁子」と呼び古刀の吉井備前を彷彿とさせるものがあります。

 天保八年から十年にかけての作品の中には、匂口が深く板目の目立つ「備前一文字風」のものがあり、この頃の作品に特に優品が多く見受けられます。
 弘化頃からは専ら「応永備前」の物が、文久以降は前述した宗次丁子の全盛となります。
 刀身彫りのある作品を時々見かけますが、弟子の「泰龍斎宗寛」もしくは次男の「義次」の手によるものと言われております。

 今回若干名の方で、「肥前国忠吉」の入札がありました。
 肥前刀であれば、「小板目詰み梨地風とか精美な地鉄」などの表現が使われるでしょう。
 また、帽子ですが、このように乱れ込んで先の尖った肥前刀はあまり見ませんね。
 肥前刀の掟で、「フクラに添って丸く返る。」というのが一般的です。
 この辺のことを、しっかりと覚えて置かないといけませんね。
 勿論遊びの範疇ですが。

 また、「みずみずしい刃文」の意味が解らないという方がおられましたが、「みずみずみしい」イコール「若い」とでも解釈して下さい。
 従いまして、「みずみずみしい」イコール新々刀ということになります。
 定型句として覚えて頂くと、これからの鑑定に幅を持たせます。

 先ほどの桑名打ちを含む偽物のお話ですが、偽物を大きく分けると「似ている銘」のものと「似てない銘」のもの区分されるようです。
 「似ていない銘」のものを更に細分すると、数打ち物(末古刀の数打ちを含む場合もある)奈良物、柳原物などがあります。

 このうち、数打ち物は既に室町末期からあり、特に江戸時代後半に作られた脇差がその大半を占めているように感じます。
 これらは、地方の野鍛冶達や飯の食えない刀工たちの手によるものが多く、それらにちょいと気の利いた拵えをつけて、京、大阪、江戸の都会や街道筋の大きな宿場で土産物として売られていたようです。
 刀好きの人ならば一度は見かけた事あると思いますが、青空骨董市などで手頃な値札を付けられ店の片隅で「おいでおいで」をしている「あいつら」です。
 しかしながら、刀身に品格はなく傷やフクレのあるものがその大半であります。

 また、桑名打ちですが、古作備前物の偽作を作る刀工達で刀、脇差、短刀なんでも作る技量上手の集団です。
 刀姿は主に室町各期の物を上手に写して姿が良く、地鉄は小板目が詰んで映りのあるものがあり精美に見えます。
 匂口はうるみ心で若く見え、また足が長く入り、刀身と茎の肉置きが貧弱で本物を極めた方ならば一目瞭然であります。

 「固山宗次」が一時桑名にて鍛刀していたことから、「桑名打ち」の作者の一人であろうとする不名誉な説がありましたが、よく見れば作品の品格、作柄、技量全てにおいて全く違う物であることは明白であります。
 大した根拠はありませんが、むしろ美濃系大道の後代とか水心子系の技量上手の誰かの仕業ではないかと推量しますが。

 私事済みませんが、私も以前にこの桑名打ちで失敗したことがあります。
 皆さんも、ご用心下さい。
 その他の偽物の説明ですが、時期や出題を見て折々にご説明申し上げます。
 例えば「次郎太郎直勝」の時には、弟子の「細田平次郎直光」の「鍛冶平」についてなどです。

 それでは、次回の出題をお楽しみに。
 みなさん、良いお年をお迎えください。

 竹屋主人より