2008年4月4日 第1回出題「加州兼若」


 第2クール初めの問題は、「加州兼若(三代)」でした。

 一ノ札では肥前新刀の札が散見されました。
 肥前の足長丁子からのご入札とお見受け致しましたが、丁子文に足が入るからという刃文鑑定は早計ではないでしょうか?

 また、「初代兼若」又は「越中守高平」の入札に対しては、厳しいようですが「同然」とお答えを致しました。
 一本入札ならば、「当」としても良いかも知れませんが、ヒントに「箱乱れ」についても記述しておりますし、また、初代の作風は慶長から寛永頃の刀姿が多く、二代・三代は親子二人で作刀している期間もあること、特に三代は延宝から宝永までの作品が多い事などにより判定させて頂きました。
 鑑定は刀姿からと、よく先達に指導を受けましたが、新刀期もかなり、その時々の特色を顕著に見せます。

 要するに、刀姿にかなりの違いが出てまいります事を、ご承知置き下さい。
 慶長新刀→寛永新刀→寛文新刀→元禄新刀などが、その一例であります。

 今回の問題の逆丁子乱れの刀工を探せば、古刀期は片山一文字と青江などに多く、吉岡一文字にも見られます。
 新刀期には福岡石堂の守次・是次、紀州石堂の備中守康広と加賀の兼若二代・三代が、新々刀期においては大慶直胤や子の直勝が上げられます。

 兼若は初代から三代までが技量上手で有名です。
 初代は板目肌に志津風の湾れに尖り刃、五の目を交え、荒沸がムラに付き、焼き崩れたものがまま見受けられます。
 晩年に兼若系の一番の特徴である、箱がかる乱れを焼くようになり、二代・三代はこの箱刃文を得意としています。

 余談ではありますが、この箱刃を得意とする刀工には、新刀期には江戸の虎徹や大和守安定、薩摩の伊豆守正房などがおります。

 初代は寛永二二年ころ没、二代兼若は又助兼若と言い、兄景平から辻村家を継ぎ、三代は四郎右衛門兼若と言い、二代の晩年には代作をしたと伝えられています。
 二代・三代は親子で作刀した期間があり、代別の見分けは大変難しいものがありますが、箱乱れ刃と匂いが強く、小沸が付き匂口がしまり、盛んに乱れ足を入れた逆丁子の刃文が特に多く見受けられるのを特徴とします。

 私見ですが、加賀の古刀期の刀工に加賀青江と言われた加州家次という刀工がおりましたが、今回の兼若の逆丁子も古刀の青江の逆丁子を彷彿とさせるものがあります。
 何か関係があるのでしょうか。

 加州兼若の辻村家の先祖は志津三郎兼氏の末孫と伝え、室町時代の長享頃、濃州関の六郎左衛門兼音の一族である某が次郎左衛門尉兼守の養子になり、次郎左衛門尉兼若と名乗ったのが辻村兼若家の初めとされています。

 初代兼若(甚六)の父辻村四郎右衛門四方助は、前述の次郎左衛門尉兼若から数えて五代目にあたり、元江州国友村の鉄砲鍛冶 辻村家の分家筋にあたり、天正年間に国友村より美濃へ移住、その後加賀へ転じて、一門はその地で加賀前田藩の庇護を受けて繁栄しましたが、兼若5代目の助太夫兼若の時、刀剣需要が少ないため転職を余儀なくされ、刀工を廃業したと伝えられています。
 往年、加賀前田藩の家老が、「兼若刀を持つ者は禄高低くとも娘を嫁がせる。」と言ったとか。
 
 また、江戸時代貞享頃、江戸の刀剣研師で鑑定家の「竹屋官兵衛・木屋勘右衛門」の二人が著した書物のなかで、加賀藩工を上中下に区分し、更に細分したものの中に「兼若」は上の一席であったという記録も残されています。

 まあ、私の御先祖さまは、本阿彌家に引けを取らぬ刀剣鑑定家であったことの証でもあります。
 冗談はさて置き、第2クールの第1問目は、大分ご苦労された方も居られましたが、「当たって何歩」むしろ当たらない方が勉強になるんですよ。

 ちなみに「竹屋・木屋」両家の押型集が現在でも残されています。
 東京の神田の古書店街を散策すれば、新たな発見があるかも知れません。
 しかし、少々お足が出ますが。

 さてさて、第2クールの第1問目は如何だったでしょうか?
 次回をお楽しみに  

                            竹 屋 主 人