2009年2月1日 第11回出題「一竿子忠綱」 2月の答えは、一竿子忠綱の長脇差でした。 入札は地鉄の説明と独特な彫物からでしょうか、ほとんどの方が一の札で当たりを取られ結構な入札でした。 忠綱は播磨国姫路の出身と言われ、姓を浅井氏と称し、銘字に粟田口を冠していますが、これについては大坂に出る以前に、京都東山の粟田口に居住した経緯からか、あるいは鎌倉時代の名門、粟田口一門と何らかの関係があるのか諸説があり、詳らかではありません。 彼は、華麗な濤乱刃に大胆な彫物があることで、愛刀家の間では高い評価を受けています。 彼の彫物は、江戸の虎徹と同様に自身彫であり、彫物の師は、藤田通意なる人物と言われています。 多くは、刀身に比して彫物の意匠が不釣合いなほどに大きく、精巧な彫物ですが、鏨が深く大胆で荒々しい感じがします。 そのためか模倣されやすく、彫物のある作品には識別のため必ず、「彫同作」、「彫物同作」、「雕同作」、「雕物同作」の追銘をしていますが、この銘字もまた真似やすい字体のため、正真銘と区別がつき難いものが多く、現在でも、「正真銘、ウブ彫り」として巷をまかり通っている作品のなかには、後彫りや偽銘のものが相当数あると聞きます。 忠綱の活躍時期は古いもので寛文十二年紀(1872)の短刀があり、最晩年と思われるものに聖徳六年紀(1716、享保元年と同じ。)の刀があります(ある銘鑑には享保元年、享保五年、享保十二年のそれぞれの年紀作を著していますが、現在のところ現物は確認されていないようです)。 これらの資料を踏まえて、彼の作刀期間は、おおよそ45年有余の長期にわたることが推測されます。 彼の年紀のあるものは元禄年間のものが圧倒的に多く、助広や真改などの活躍時期より時代が下がるものの、大坂新刀の隆盛を築いたひとりと言えるでしょう。 忠綱の作風ですが、元禄以前の前期作と言われるものは、棒反りのいわゆる寛文新刀体配で、刃文は初代忠綱に似た小沸出来で、焼幅がやや広く、匂口が深過ぎずにすっきりとし、頭の揃った足長丁子を焼き、その丁子足を切るように砂流しが掛かったものを見ます。 元禄から聖徳にかけての後期作に名品が集中しており、有名なものに、阿波国の蜂須賀家が、同国の国端彦神社に奉納した、宝永六年紀のある三尺一分の大太刀は、国の重要文化財の指定を受け、忠綱中の白眉と絶賛されています。 後期作の刀の特徴は、ニ尺三寸前後の刃長に、身幅が若干広めで、元先の幅差が少なく、いくらか強めの先反りが付いて、中切先がやや伸びごころが主流であり、また出題刀のように、二尺に満たない、一尺九寸五分前後の長脇差も多く見受けられます。 これらの長脇差は、金銀の金具と綺麗な蒔絵の施された拵えに収められ、天下の台所と言われた難波の豪商達の注文品だったのしょう。 この時期の刃文は、濤乱乱れを得意として、湾れ調に丁子乱れ、大五の目、五の目が連続して様々な刃が混じるものや、直刃等あり、何れの作にも沸がムラにつくものがあります。 彫物は棒樋のほかに、上下竜、倶梨伽羅竜が多く、また、彼独特の彫物では、あま竜(ウロコのない竜でトカゲの様な感じ)や、梅倶梨伽羅竜、登竜門(鯉の滝登り)などがあり、倶梨伽羅類の彫物がある場合、刀身の反対側には梅竹、梅樹、梵字、護摩箸、爪や蓮台、三鈷剣、旗鉾などの彫物があります。 今回の出題刀の倶梨伽羅竜の彫物は、ドングリ眼に長いまつげで、おどけた顔をしていますが、この表情が、故犬養木堂翁の顔にそっくりと評した刀剣書が多々あります。 ところで、この竜の前後の足の爪を見てください。 おどけた顔の表情とは正反対に、威圧感をタップリと感じるほど鋭く尖った爪をしています。 ここで竹屋流鑑定要訣です。 紙上鑑定では、その刀の情報を出題文と押し型からどう捉えるかが焦点となります。 是非とも、このどんぐり眼と鋭い爪はご記憶下さい。 他紙での入札鑑定でも、有効な決め手になるでしょう。 最後に、茎は先刃上がり栗尻が多く、鑢目は筋違いで、元禄以降は浅くなり、鎬筋を中心として太鏨で大振りの長銘を切ります。 前期作には「粟田口近江守忠綱」と切銘し、元禄二年に一竿子と号してからは「粟田口一竿子忠綱」、「一竿子忠綱」銘がほとんどであります。 初二代ともに「粟田口近江守忠綱」を切銘していますが、粟の字の字体が違いますので、押形集や刀剣書をお持ちの方は確認をしてみて下さい。 今回の出題刀は、一竿子忠綱の晩年の作であり、典型的な刃文に見事な倶梨伽羅竜の彫物があり、茎に「彫同」とだけあって、「作」の字を省いた極めて珍しい銘振りの作品でした。 竹 屋 主 人 |