2008年9月30日 第7回出題「大慶直胤


 今月の答えは、「大慶直胤」でした。

 本名を「荘司箕兵衛」といい、新々刀の巨匠で「刀剣弁疑」などを著した「水心子正秀」の高弟として知られ、山形鍛冶町の生まれ、生家は代々鎌鍛冶で「茂兵衛」と称したと伝えられています。

 出府して正秀に入門した時期は詳らかではありませんが、寛政10年(1798)頃ではなかろうかと言う記録もあり、また、皆さんご存知のように武州館林藩秋元家のお抱え工としても活躍しました。
 当初は筑前大掾を受領しますが、のちに美濃介に転じて大慶と号しました。
 結構長生きをした刀工で、安政4年79歳で没するまでの間、50年以上にも渡り作刀をしており、数多くの作品を残しています。

 初期作には、23歳のときに「庄司直胤造、寛政十三年正月日」という作品があると言われています。
 作風は、享和から文化頃の初期作においては、小板目の詰むものや、大肌を見せたものなどで師伝の涛乱刃など相州伝風のものが多く、文化・文政頃の作品は、備前兼光風の小五ノ目や逆丁子の刃文に映りを再現したものが多く、その後は、今回の出題刀のように渦巻き肌が顕著に現れた、相州伝風の作品が多くなり、嘉永から安政の頃は、一文字や兼光、景光、相伝備前・応永備前の写しものなどが多く見られるようになります。

 この備前伝の写しものには「映り」がよく再現されていますが、やはり本歌とは違うようで特徴ある映りを現しています。
 この直胤独特の映りは、「焼き映り」などと称されています。

 昔、応永備前写しの直胤の作品を鑑定入札したおり、応永の盛光に入札して「時代違い否」を頂いた記憶があります。
 また、この映りの再現に失敗して飛焼き状になったものがあり、この様態は直胤の手癖ともいえます。

 その他には、やや沸が粗く、太い砂流しが掛かるものがあり、素見すると、薩摩の芋づると見間違うことがありますので要注意です。
 私見ですが、刀には相伝備前や応永備前の写しものに、脇差や短刀では相州伝風の作品に、出来の良いものが多いように思います。

 直胤の作品の見所はいくつかあって、例えば茎ですが、刀の9割以上が太刀銘に銘を切ってあり、花押や駐槌地名を切ったもの、和歌などが切られているものなど色々です。

 駐槌地名は一部を除き、そのほとんどが片仮名で切られているものを多く見ます。
 例えば「サカミ」、「ナニハ」、「イセ」、「イツ」、「エンシウ」、「シナノ」、「ヲシテル」などがあります。
 ちなみに、「ヲシテル」とは難波の枕詞で、万葉集以来、あまねく知られるところです。

 和歌では、「南無仏 こゑをたのみに はるはると 善光寺に 参る楽しさ」なんて、切っているものもあります。

 直胤は後進の育成にも尽力したようで、養子の次郎太郎直勝を筆頭に幕末の名工たちを輩出しています。
 門人の多くに、「慶」、「直」、「胤」の一字を用いた刀工銘が多いのも、直胤の人望に所以するところと思います。
 
 また、直胤には偽物が非常に多い事も特筆されます。
 明治の初め頃は、養子「次郎太郎直勝」の門人で、鍛冶平と呼ばれて有名な、細田平次郎直光の手による偽物や、昭和初期のとある偽物製作者の手によるものなど枚挙にいとまがありません。
 鍛冶平について関心のある方は、「水心子正秀とその一門(黒江二郎編著)雄山閣」か、「鍛冶平押形(池田末松著)雄山閣」がありますので、古書店などで探してみては如何でしょう?
 
 今回は新々刀の名工「大慶直胤」を取り上げましたが、御堪能されましたでしょうか?
 それでは、この辺で失礼させて頂きます。

                             竹  屋  主  人