2008年11月1日 第8回出題「手掻包永


 11月の答えは、「手掻包永」の太刀でした。

 日本刀の完成は、概ね平安後期頃と考えられています。
 大和国は、山城・備前・備中・伯耆・豊後などの国とともに、日本刀誕生の最も古い国であることは周知のとおりであります。

 大和物の在銘品はことさら少なく、最も古い物に千手院派の作品があります。
 鎌倉中期から後期にかけて、當麻・手掻・保昌・尻懸の4派が勃興し、千手院派を加えていわゆる大和5派が勢ぞろいします。

 大和鍛冶は武士に刀を供給する他国の鍛冶とは違い、東大寺や興福寺といった寺院のお抱え工として栄え、各寺院の勢力拡大の一翼を担ったものと考えられます。

 5派ともに作風は華美にならず、彫り物があっても簡素なものが多く、てらいがなく、直刃を基本とした刃文の多いことで知られています。

 供給先が寺院等であることから、刀工達も自ら各寺院に帰依していたと思われ、その影響か、言葉が足らないかも知れませんが、刀剣を仏様へのお供物的な位置付けとして鍛刀したと考えられ、そのせいで生太刀の無銘の作品が多いのかも知れません。

 手掻派は、東大寺の西の門である手掻(転害)門の門前に集団居住した一群の刀工達のことを示し、東大寺専属の鍛冶集団であったと言われています。
 今回の手掻包永は、手掻派の祖と言われ「校正古刀銘鑑」には、初代から3代まであると記述されています。

 初代の包永の作品は現在、国宝1口、重要文化財6口が知られていますが、同時代の他の大和物と比べて国の指定品が多いことも特筆されます。

 これら指定品は、後世の打刀の定寸である2尺3寸5分位に磨り上げられて、茎先に2字銘が残されたものが多く見受けられます。
 初めから磨り上げることを前提に作刀したとは思われませんが、不思議ですね。
 私の知るところでは、包永の生太刀は重要美術品に1口と、再刃のものが1口あるということしか判明しておりません。

 包永の作風は大和伝の特徴を全て兼ね備えおり、鎬筋が高く、鎬幅広い造り込みで直刃の刃文の中に、ほつれ、打ち除け、喰違い刃、二重刃等が目立ちます。
 また、大和5派の他の刀工達よりも沸が強く、刃沸の中に荒沸が混じり、まるで冬の夜空を見るように沸の輝くものがあります。

 地鉄は棟寄りに柾目肌が現れ、叩き詰めた様な強い地鉄と評されております。
 その代表というべきものに、大正12年9月の関東大震災で消失した水戸家伝来の「名物児手柏」が有名であります。

 最後に、手掻派のその他の刀工には包吉、包清、包友、包利など包の字を用いた刀工達がおり、正宗十哲の一人、志津三郎兼氏もその一門の出自とされています。

 それでは、この辺で失礼させて頂きます。     

                              竹 屋 主 人