2009年4月1日 第1回出題「伯耆安綱」


 今回の答えは、伯耆安綱の太刀でした。

 伯耆国は、かつて、日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置し、現在の鳥取県中部及び西部にあたります。
 古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多く、出雲とあわせて雲伯地方とも呼ばれています。
 主に現在の鳥取県西部域を指す「西伯耆」と中部域を指す「東伯耆」に分けられ、延喜式での格は上国とされています。
 また、古事記には、伯岐国と記載されています。
 
 出雲国風土記には、この地にそびえ立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから、出雲の文化圏と考えられています。
 弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が、大和政権の勢力拡大のための原動力になったとの見方があります。

 伯耆という国名が登場する最古の文献は古事記で、「伊邪那美神」の埋葬地 出雲と伯耆の堺の比婆の山」とあり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くと思われます。
 古墳時代以降、律令の世になると、伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国が設置されました。
 前述しましたとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、今回の出題刀の作者で日本最古の刀匠の一人、伯耆安綱を輩出したのも頷けます。
 
 伯耆安綱は、天下五剣の作者としても著名であり、「童子切り」と号のある作品は、「大江山の鬼退治」の逸話とともに、人口に膾炙しています。
 清和源氏の嫡流で、摂津源氏の祖と言われる源頼光(多田満仲の長男、摂津守)が、丹波国の大江山に住み着いた鬼、酒呑童子の首をこの刀で切り落としたという伝説から、童子切りの名前が由来しています。

 また、江戸時代には、町田長太夫という試し切りの達人が、6人の罪人の死体を土壇に積み重ねて、童子切安綱を振り下ろすと、六つの死体を切断しただけではなく、刃が土壇まで達した、という逸話も残っています。

 この童子切り安綱は、室町時代末期に、足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、秀忠親子、松平忠直(秀忠娘婿)に、そして、越前松平家の高田藩から、津山藩に継承されました。
 津山松平家では、この童子切りと稲葉郷、石田正宗の3振の名刀を、家宝として伝えられていましたが、昭和21年(1946年)に津山松平家から、とある刀剣商に売却されて紆余曲折の末、現在は国の所有となり、東京国立博物館に外装(金梨地鞘糸巻き太刀拵え)とともに所蔵されています。

 ここで作風について少し解説をしてみましょう。

 安綱や大原真守などの諸工を、古伯耆一派と呼ぶことがあります。
 古備前より創始された時期が若干先行するものではないかとの意見がありますが、まさにそのとおりだと思います。
 腰反りが高く踏張りがあり、先が伏せ気味になった太刀姿と、焼き刃の低い小乱れと小湾れなどを交えた刃文は、この時代の特色で、帽子は焼き詰めか、焼き崩れて火焔となるものが多いようです。
 鍛えは板目肌が立ち、地沸がつき、地斑、地景を交えて鉄色に黒味を帯びて刃中に金筋や砂流しを豊富に交えて一段と目を引きます。
 このことは、技術面をさておき、古名刀の持つ独特な品格を醸し出しているような気がします。
 また、ヒラ肉の付いている点や、区際で腰刃や焼き落としがあり、これらは古伯耆一派の特色でもあります。

 安綱の銘振りですが、安の字に比して綱の字が大きく右によるのがこの工の特色でもあることをご承知おき下さい。

 それでは、この辺で失礼させて頂きます。

                               竹  屋  主  人