2009年5月1日 第2回出題「月山近則」


 平成21年5月の回答は、羽州住人月山近則 永正九年二月吉日 でした。

 出羽国(でわのくに)は、かつての日本の地域行政単位である国の一つで、その範囲は今日の山形県と秋田県にほぼ該当しますが、秋田県北東の鹿角市と小坂町(鹿角郡)は含まれません。
 羽州(うしゅう)とも呼ばれました(出雲国との重複を避けるため二文字目を用いました)。
 延喜式での格は上国、遠国。
 明治元年に羽前国と羽後国に分割されたため、以後、両羽とも呼ばれることがあります。

 月山鍛冶は、もともと奥州平泉の藤原秀衝の抱え工だったと言われ、奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされると、羽黒山伏を頼って出羽国月山の霊場に住んだ鬼王丸(鬼神太夫とも呼ばれる)が、元祖と言われています。

 月山鍛冶は別名山伏鍛冶ともいわれ、鎌倉時代には出羽三山で有名な羽黒山、湯殿山、月山周辺には修験・社家が7千軒もあったといわれ、当時、その地方の地頭であった大泉某と勢力争いを起こす程の武力集団でもあったため、鎌倉幕府からの鎮圧を受けた旨の記録も残っております。
 この武力集団の武器供給元に、月山鍛冶が多く関与していたことは、疑いもない事実だと思われます。
 以来、月山のふもとでは刀鍛冶が栄え、寛安、近則、軍勝などの名人を輩出しました。
 鎌倉期から室町期にかけて、月山の銘を刻んだ刀剣は、実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、この刀工集団を月山鍛冶、その作品を月山物と呼びました。
 しかし戦国時代が終焉をむかえ、江戸期に入ると月山鍛冶はいったん衰退します。
 そのため江戸初期以前の作品を、便宜上「古月山」と呼ぶことがあります。

 松尾芭蕉の『奥の細道』の中で、「日出て雲消えれば湯殿山に下る谷の湯に鍛冶小屋と伝う有り 此国の鍛冶霊水を得て為に潔斎して剣を打つ 終りに月山と銘を切りて世に賞せらるる」とあり、羽黒から月山をめぐって鍛冶小屋を見学したことが記述されています。

 今回の入札では、ほとんどの方が一の札で「当」をとっておられ、大変に結構でした。

 今回の出題刀を実際に手に取って鑑定する際に、すぐに末古刀と時代を見極めることについては少し疑問が残ります。
 なぜならば、実際に手取って拝見する限り、南北朝期の薙刀直しの刀姿と酷似するからであります。
 柴田先生の解説では、「異様な体配で、備前とか山城といった五ヶ伝の刀工とは思われず、場違い物」との解説がありましたが、備前長船の与三左衛門尉祐定にも同じ刀姿の優品が残されています。
 また解説のなかに、「小板目肌で、末備前と見紛れるものである。」とありますので、備前鍛冶とがなにか関係がありそうな感じもします。

 今回は紙上鑑定では珍しい月山近則でしたが如何だったしょうか。
 それでは今回はこの辺で失礼させて頂きます。

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