2009年6月1日 第3回出題「河内守国助」


 平成21年6月の回答は、河内守国助でした。

 堀川門の越後守国儔に師事したといわれる初代国助の子で、独特な拳形丁子の刃文を焼くことで有名であります。
 初代と三代の間に位置することから、「中河内」とも称せられています。

 新刀は、江戸では初代が、大坂では二代目が技量上手と言われていますが、今回の二代国助もまさにその通りの評価を得、新刀一文字と称され賛美されています。
 生年や受領年月など、不明なところも多いが、没年だけは元禄十一年八月十一日とされ、これをもとに既存の作品年紀から推測すると、かなりの長命であったと思われます。

 また、別の資料によれば、初代の晩年作には、二代国助が代作代銘したものがある、との記述があります。

 ここで、二代国助についての古い文献がありますので、少々紹介いたします。

 『中河内の作には、時として桜花、菊花、或いは立浪、千鳥、富士の山、等を刃文に淬き込みたるものがあり、手際としては見事なるも、高雅なるところなく、趣味に乏し。
 而して、此作の丁子刃のよく出来たるものは、刃文至って賑やかにして、一見甚だ立派なり。
 是に於いてか、彼の鎌田魚妙は、此作及び大和守吉道を以って、新刀一文字と賞揚し、共に上々作に列せり。
 然れどもこの作は、淬刃の手腕は大に認めざるべからずと雖、地刃の堅硬に過ぎたる如きは、実用上挫折の患なきを保せず、一考を要すべきことなり・・・(中略)・・・三代は二代と同銘にして銘振り出来様とも亦たよく似たれども、刃に斑錵つくこと多く、地刃堅硬になり総体二代より劣るもの多し。』(新刀鍛冶綱領より。)

 また、二代国助には武蔵守国次、肥後守国康、伊勢守国輝の弟たちが、弟子には出羽守助重、出羽守助信、池田鬼神丸国重等がおり、大坂新刀繁栄に一躍を担っておりました。

 私の記憶が確かであれば、二代河内守国助(中河内)は、有名な割には、刀剣美術の誌上鑑定の出題や、本部鑑定会での鑑定刀として、10年以上出ていないように思います。
特徴が有りすぎるためでしょうか?
 
 今後、大阪新刀で誌上鑑定の出題刀となる可能性のある刀工は、真改や助広などを除くと、あとは茎に特徴のある伊勢守国輝などに絞られてくるとも考えられますね。

 今回は、大坂刀工の代表選手の一人、二代河内守国助(中河内)をご堪能頂きましたが、如何だったでしょうか。

 それではこの辺で失礼させて頂きます。


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