2009年7月1日 第4回出題「越前康継」


 平成21年7月の回答は、越前国康継(初代)でした。

 初代康継は、通称を市之丞あるいは市左衛門といい、近江坂田郡下坂村の大和国千手院鍛冶末裔と言われる大宮市左衛門兼当の孫で、父親は同じ近江の西坂本で赤坂千手院鍛冶、広長の子として生まれ、後に姓を下坂と改め、文禄年中に肥後大掾を受領し、慶長初年に越前に定住していますが、別の資料によれば越前移住は天正年間(1573〜1592)という説もあります。

 「下坂系図」という刀剣資料によれば、初代の康継が初めて「下坂(姓)」を称したと伝えられていますが、杉原祥造氏の「長曽祢虎徹の研究」という論文のなかで、内田疎天氏が、関が原の合戦後に越前に逃れた二〜三の鍛冶(2〜5・6名程度の集団か?)があって、その中の一人が「下坂」を名乗ったと述べていますが、その中の一人が康継だと明言はしておりません。
 先程の「長曽祢虎徹」も近江の出身で、後に越前に移住し矢の根鍛冶として生計を立てていましたが、半百(五十歳)にて江戸に出府し、稀代の名工となったことは周知のとおりですが、康継となんらかの関係があったかのようにも思えます。

 「下坂」を冠する刀工は、備前の「長船」を冠する刀工集団と同じように、何人かの鍛冶者の集団であり、商標としていたと考えるのが妥当であるように思えます。古刀末期から新刀初期と思われる「下坂」銘のものを詳細に観察すると、少なくとも四種類以上の異なる銘のあることが研究者の報告にあります。
 その先駆的な代表者の一人が康継だったのではないでしょうか。

 そのほかに、越前国下坂と名乗る刀工は、越前国下坂貞次、兼先、継平、継広、国博、継吉、継永、継貞、継利、貞国、継光、継正、継政、信定、国清、定広等の諸工がいます。
 ここで注目されるのが、「継」の字を通字としている刀工が多いことが特筆されます。
 これら刀工銘から推測すると、康継が越前下坂鍛冶群の棟梁的存在だったことが頷けます。
 また、貞国(康継の舎弟又は康継同人説がある。)などは康継同様に肥後大掾を受領しています。

 初め一乗谷に住し、次いで慶長の初め頃北庄に移り越前兼法の弟子となり、結城秀康の知遇を受けることになります。
 やがてその作刀が秀康の実父徳川家康の目にとまり江戸に召致され作刀に励み、その功績を認められて家康の庇護を受けるに至り、葵紋と「康」の一字使用を許され、それまで「肥後大掾藤原下坂」と切銘していましたが、それ以降「越前康継」と切銘しています。
 その裏づけ資料として、彼が熱田神宮の奉納した刀に詳細が切付けてあることは有名であります。
 熱田神宮の図録等をお持ちの方は確認をしてみてください(ちなみに初代康継は何を思ってか、葵紋をあまり切りませんでした。二代目以降はトレードマークの様に切っていますが・・・。前述の関が原の合戦で越前に逃れた二〜三の鍛冶というのがキーワードに成りそうですが、今後の課題として少し保留させて頂きます)。

 この時、将軍家から五十人扶持の士分の待遇を受けるとともに、結城秀康からは四十石を賜り、以後康継は江戸と越前北庄間を隔年で奉公しましたが、この事が二代目康継死後の家督相続問題に発展します。

 康継といえば、南蛮鉄の使用や大坂落城で火災にあった名物・名刀類の再刃や、模造を行ったことでも有名であります。
一説によれば、諸大名の蔵刀の中に正宗、貞宗、信国等の無銘刀に康継作と思われるものが多いと言われています。
 また、康継の作品の中には出来、不出来がはっきりしているものが多いと言われ、江戸後期の刀剣書「新刀弁疑」の位列では「上之中作」となっています。
 しかしながら彼のパトロンであったと思われる、丸岡城主「本多飛騨守成重」の所持銘のあるものは全て優良品で駄作が一つもないと言われています。

 最後に、康継は江戸新刀の開祖とされていますが、その影響で当時の江戸の刀工には越前出身者が多かったといわれています(前述の虎徹や大和守安定などがそれに当たります)。
 初代康継の終焉の地は解りませんが、元和七年九月九日(1621)六十八歳で天寿を全うしました。
 墓地は福井県福井市の曹洞宗鎮徳寺内桂林寺にあり、法名を「昌翁宗繁居士」といいます。

 今回の入札では、ほとんどの方が一の札で越前康継に入札されており、大変に好ましい結果となりましたが、一部「堀川国広」への入札がありました。
これはこれで十分な位取りが出来ていると思います。

 それではこの辺で失礼させて頂きます。
 次回をお楽しみに。
          
                             竹  屋  主  人