2009年8月1日 第5回出題「行光」


 平成21年8月の回答は、行光でした。

 新藤五国光の子、又は弟子と言われ、藤三郎と称しました。
 一説によれば豊後国行平の遺児とも言われていますが定かではありません。
 在銘作品の少なさ等から新藤五国広とともに国光の良き協力者であったのではなかろうかと思われます。

 観智院本(一)によれば、備前国の助真の孫弟子と記述があり、観智院本(二)によれば、備前国の国宗の孫弟子と記述されていますが、いずれも国光門下であることに変わりはありません。
 観智院本(天正本)によれば、観智院本(二)と同様に国宗を祖として、国光門下で、かつ、「国光と父子の契約す」と記述があります。
 また、古今銘尽によれば、観智院本(天正本)とほとんど同じ記述ですが、五郎入道正宗を行光の子供と記述があります。
他に、能阿弥本という古伝書には、行光と正宗を兄弟弟子との記述があり、現在はこちらの説が有力です。

 新藤五国光に師事した関係上、その作風は山城風のある相州伝を創始しました。
 彼の作品のほとんどが無銘極めであり、在銘作品は国宝、重文、名物に各1口を含むのみで、あまり数はありません。
 銘も色々あり、「行光」、「鎌倉住人行光」、「相模国住人行光」、「鎌倉住藤三郎行光」、「相州鎌倉住人行光作」等があるようです。
 行光の作風ですが、短刀では細身で内反り、すなわち、山城伝鎌倉中期の筍反短刀を踏襲した形で、やや寸延びとなり、中間反りで重ねが薄くなります。
 この姿は行光、則重、正宗に共通するところです。
 無銘極めのもので反りの強いものがありますが、時代的に少々無理(時代が下がる)があるように思います。
 鍛えは粟田口物のように良く鍛錬されて、小板目に大肌が混じりますが、良く詰んで潤いがあり、地沸が厚く、湯走りがかかり、地景が入ります。
 刃文は、沸出来で荒目の沸がつきますが、華やかで細直刃、中直刃、浅く湾れたもの、小五ノ目混じりの直刃や皆焼風のものがあります。
 いずれも刃中が盛んに働き、フクラ付近では沸の働きが一段とあり、地にこぼれて地沸となるものが多いようです。    
 帽子は、直に小丸、湾れ込んで沸崩れ、火焔風なものや掃きかけを伴うものなどがあり、いずれも働きが盛んなことは言うまでもありません。
 茎は、今回の出題同様に振袖形、舟形に近いものなどがあり、鑢目は切りで茎尻は浅い栗尻か一文字となります。

 今回の入札では圧倒的に越中則重の札が多く、同然と回答を受けた方が多かったようですが、相州伝上工の無銘ものの鑑定は非常困難を極めます。
 柴田和夫先生の「刀剣鑑定のきめ手」という著書に同じ短刀が出題されていますが、その解説に「この短刀は古い極めが行光とあるのでそれに落ち着いているが妥当なところであろうと・・」とあります。
 おそらく、在銘のものを基準として先人が極められたからでしょう。

 相州伝の完成者は、五郎入道正宗だと思われている方が多いと思いますが、色々な刀剣書籍を読むにつれて、行光、則重、正宗の三工の作風は、相州伝としての刀姿、刃文の完成域に到達するまでの一形態で、過渡的な位置づけであると思われます。
 また、この三工の他の共通事項として、在銘作品が短刀に限られ、それも僅少であり、太刀には在銘作品が皆無です。
 鎌倉最末期から南北朝にかけて相州本国では広光や秋広などが、他国では志津や長谷部、左文字などの刀工たちの活躍をもって、相州伝の完成時期とみても宜しいのではないでしょうか。
この工達が活躍した時期からは、圧倒的に在銘作品が多くなることも、周知のとおりです。

 私の経験と、誌上鑑定の特性や前述の内容を加味して総合的に判断すると、松皮肌の記述がなくても、則重でも良いと思います。
 「当り」ではなくとも則重に入札された方々は、正しく、「時代」や「位列」を掴んでおられますので、大変に結構な入札だと思います。
 私などは日刀保の鑑定会で「則重の無銘刀」が鑑定に出るたびに、迷いに迷った挙句に古備前に入札してしまうことがあります。
 この辺りが、無銘刀鑑定の難しさ、また、楽しさでもあります。

 しかしながら、ただお一人だけ、「当たり」を取られた方がいらっしゃいましたことを付け加えさせて頂きます。

 それでは次回をお楽しみに。

          
                            竹  屋  主  人