2009年10月29日 第7回出題「一平安代」


 今回は薩摩新刀の名工、一平安代でした。

 安代は薩摩国給黎郡(きいれのこおり・きいれぐん、明治22年の町村制施行により喜入村)に延宝八年四月十九日、山城守安貞の長男として生まれ、通称を吉吾、平九郎、小市郎、小左衛門など、刀工銘を初め真方と称しました。
 
 一平はイッペイとは読まず、皆さんご承知のとおり、イチノヒラと読みます。
 この一平は通称で、安代の本来の姓は中村姓ですが、訳あって玉置姓を名乗る事となりました。
 父の中村山城守安貞から鍛刀の手ほどきを受け、宝永年間に波平安国と師弟の契りを交わしています。 
 安代は父安貞同様に武人としても修練を積み、弓道では特に優れていたと言われています。
 藩内では横目役、兵具役、鉄山掛、補役などを務めていました。

 享保五年に江戸幕府からの命により江戸へ出府、翌年正月に浜御殿にて同じ薩摩の主水正正清、筑前の信国重包、紀州四代重国らと将軍吉宗公の佩刀を鍛えました。
 その時に献上した刀は二尺五寸三分、太刀銘「葵紋 給黎郡住一平安代恭奉台命至千東武作之時享保丑二月日吉宗公」であります。

 薩摩へ帰路の途中、その功績により同郷の正清は、享保六年六月十三日付で、主水正モンドノカミ(奈良時代以降ある宮廷内の官司の一つで飲料水を司る役職の一等官)に任官受領、安代は同年七月十三日付けで、主馬首シュメノカミ(同じく宮廷内の官司の一つで東宮坊に置かれた役職、馬の世話、馬車や馬具の管理、牧場経営などにあたる官職の一等官)を任官受領しました。
 ちなみに信国重包と四代重国は官位の受領はなく、茎に葵一葉を切ることだけを許されました。

 作柄は薩摩新刀全般にいえることですが、この時代全国的に流行した刀姿とは異なり、慶長新刀体配に酷似した平肉豊かな頑丈な作り込みのものが多く、安代の地鉄は沸が厚く、流れ肌が刃寄りに綾杉風にかかり、鎬から棟にかかるに従い肌が細かくなります。

 また、小板目が良く詰んで綺麗な肌のものがありますが、仔細に観察すれば黒くカスだったところがあります。
 この小板目が詰んで、物打ち付近に長く砂流しが現れ一見、大坂の井上真改に見紛う出来のもがありますが、匂い口が沈むことや刀姿の相違などが鑑定の極めどころになります。
 刃縁は必ずと言ってよいほどに食違い刃と二重刃が混じり、刷毛目の様な沸が多く、薩摩刀特有な芋蔓が現れ、金筋とからんで覇気のある刃文を構成します。

 ちなみに、正清の場合は金筋とも砂流しともつかない、芋蔓とは趣が異なる細長い沸筋が刃中に現れたものがあります。
 これを好者の間で正清の鼻たれと呼んでいます。

 帽子も沸が深くよく付き、荒沸も混じり火焔風もあり、返りは浅くなります。
 茎は波平伝統の桧垣鑢で、薩摩刀の多くは茎尻を入山形に仕立てるものが多いなか、安代の場合は深い栗尻になることも特徴の一つです。

 正清は鑢目勝手下がりに剣形となるものが多いです。

 最後に、安代の作品には、出来不出来があって、その差が大きいことも忘れてなりません。
 また正清の場合、一般の刀工に比べて作品数が頗る少なく、希少価値が高いように感じます。

 それでは今回はこの辺で失礼します。

                     竹  屋  主  人