2009年12月1日 第9回出題「陸奥守忠吉」


 今回の答えは、肥前三代目陸奥守忠吉でした(以下三代忠吉と表記します)。

 三代忠吉は、二代近江大掾忠広の嫡子で、忠広二十四歳の時の子であります。
 新三郎と称し、万治三年十月二十七日に陸奥大掾を受領、翌、寛文元年八月十六日に陸奥守に転任、貞享三年正月二日に、享年五十歳で父近江大掾に先立ち没しました。

 三代忠吉の作品はあまり多く残されていません。
 以前に、近江大掾忠広の解説時に記述しましたが、父の近江大掾は長命で、その作刀期間も長く、作品も夥しい数が現存し、その何れもが注文打ちの入念作ではなく、工房作の数打ちに近いものも含まれていることをご記憶でしょうか。
 彼は、父親の良き協力者として忠吉家工房の中核となり、父親の代作をした期間があり、また、彼の晩年が、天和・貞享と比較的刀剣需要の少ない時期であったことも理由に上げられると思います。

 しかしながら、彼の作品は入念作の優品ばかりで、駄作のないことが愛刀家の垂涎となり、珍重される所以です。

 作品は刀が多く、脇差がこれに続き、稀に大薙刀や小ぶりな平三角の槍を見ます。刀、脇差は初二代に比べて平肉が充分に付き、幅広で重ねが厚く、切っ先伸び心で腰反り強くガッシリしたもの、それとは別に反りのごく浅い寛文新刀体配のものなどがあります。

 鍛えは、肥前刀特有の米糠肌と称される小杢目が詰んで地沸が厚く、潤いがあるとともに地景が現れ、肥前刀の中で地鉄の綺麗さと強さは随一と言われています。

 刃文は、初代忠吉譲り尋常な直刃を得意としますが、食違い刃は余り見ず、乱れ刃は初二代に比べて少なく、互ノ目乱れは、ややこずむ傾向にあると言われています。
 互ノ目乱れや矢筈乱れに丁子が混じるものがあり、この場合刃文のまとまりに欠け、「くちゃくちゃ」としたものになります(京三品派の越中守正俊に似たような刃文を見る)。
 また、箱掛かり、乱れと乱れが直刃調にとなり、沸づくものなどがあります。
 三代忠吉の足長丁子は、小模様で整然とした形良い感があり、角張った丁子や尖り刃を交え、足にも長短の変化を見せます。

 帽子は本刃に係わらず、尋常に小丸に返るものと、そうでないものとがあり、やや深めで横手付近、あるいは、横手下まで焼き下げたものがあります。
 また、返りが堅く止まるものや返り寄るものがありますが、それが卑しく見えないのが、彼の技量の高さなのでしょう。

 茎は、初期作(概ね寛文八年〜九年頃以前の作品)に入山形を見ますが、その後は栗尻となります。

 鑢目は切りに近い勝手上がりとなり、銘を刀では指裏(太刀銘)に、脇差は差表に、いずれも棟寄りに切銘していますが、その中でも細鏨のものに優品がある、と言われています。

 ちなみに、初代忠吉の銘振りを五字忠銘(秀岸銘)や住人銘などに区分していますが、五字忠銘や住人銘などは初代だけではなく、特に五字忠銘は、土佐守忠吉や三代忠吉以降の各代(一部を除く。)にも使用されているので、注意が必要です。
 五字忠銘の場合、初代と三代の銘振りは酷似しており区別するのは非常に難しいと言われています。

 その他に肥前物の全般の特徴として槍、薙刀などの茎の長いものにあっては、銘の部分を横鑢に、その下を大筋違に仕立てるという掟がありますのでご承知置き下さい。

 参考までに、肥前刀の真偽鑑定の一つとして茎の鑑定があります。この茎の掟と特徴を把握していれば、上(刀身)を見ずとも偽物かどうかの判断要素となります。詳細は平成七年度の刀剣美術誌に何回かに分けて紹介されていますので、お持ちの方は一読をお奨めします。

 余談ではありますが、講談の東海遊侠伝で有名な、清水の次郎長が子分の森の石松に、讃岐の象頭山金比羅宮に代参させる場面があります。
 喧嘩早い石松に、喧嘩禁止を言い渡すとともに、金比羅宮に奉納する刀を託します。
 その奉納刀が、五字の忠吉の脇差だったという話です。

 入札は、三代忠吉の特徴を良く承知された方が多く、ほとんどが一ノ札で「当」をとっておられ、まことに結構な結果となりました。
 一部の入札に、二代近江大掾忠広の札がありましたが、出題刀の各寸法を熟考し、体配を思い浮かべて頂ければ時代を寛文頃と絞ることができます。
また、ヒントに鑢目がやや勝手上がりとありますので、これらから判断して三代忠吉と導き出すことは可能でしょう。

 今回の出題刀は、陸奥守忠吉の初期作で肥前刀の魅力と特徴を良く現した作品でした。

 それでは、今回はこの辺で失礼させて頂きます。


                      竹 屋 主 人