2010年4月1日 第1回出題「来国行」


 今回の答えは「来国行」でした。
 
 入札では来派を外した札がなく、参加者の識見の高さが伺える結果でした。

 来国行は、来派の事実上の祖と言われていますが、出自については不明確で、彼の先代と言われる国吉という人物が高麗より渡来して刀鍛冶になったという高麗渡来説(帰化人説)と、同じ京鍛冶の粟田口派から興った一派であるとの大きく二つの説があります。

 高麗渡来説が今では有力になっていますが、その根拠となる文書が「銘尽」と呼ばれるもので、正式には、「観智院本銘尽(応永三十年の奥書のある写本で現在、国立国会図書館に所蔵されている。)」と呼ばれています。これは数種の古伝書を纏め上げた写本で、写し間違いなどがあり、正確性を欠く所があると見識者から指摘をされています。従って内容を鵜呑みにするわけにはいきませんが、貴重な刀剣古伝書であることは確かであります。「観智院本」とは東寺塔頭観智院で旧蔵されていたことに由来し、それによれば「来系図 せんぞのかじかうらいよりきたるあひた来国とうがす 国行−国俊−国光」と記述が見えます。

 この「銘尽」より更に古い刀剣書に、「喜阿弥本銘尽(写本)」で永徳年紀(南北朝最末期)の奥書があるものが存在します(原本は観智院本銘尽と同じものとされる)。
これには「国行 号来太郎、鍛冶の在所口伝の条々あり。一説に異朝に於いて銅細工人なりけるが、渡朝して鍛冶を習うと云う。他国より来るとて来文字を賜う。さりながら来文字はうたずなり。」とあります。

 他には、室町時代中期の永正年間に写本された、刀絵図を沢山紹介していることで有名な「往昔抄」には、「国吉 高麗国より来る淳徳院御宇に渡るなり」と、高麗渡来説の記述があることを併せて紹介いたします。

 先出の「観智院本銘尽」には、高麗渡来説と全く別の記述で、粟田口国吉の系統を示すものがあります。「国吉粟田口也 国行自是来 国永 国俊 国光」これを解読すれば粟田口国吉の子が来国行であると読み取ることが出来ると思いますが、どうでしょうか。

 また、「国永」の名前の記述を見ますが、おそらく五条国永を誤って書き足してしまったものでしょうか。
私論ですが、現在大磨上げ無銘極めの国行、二字国俊の刀が多く残されています。この中に銘鑑洩れの刀工で、「来国永」と銘する刀工が存在したのではないかと仮定するのは飛躍した考えでしょうか。なお、これ以降の刀剣書からは粟田口説の出典を見ません。

 その他に大和からの移住説を書いた文献を読んだ記憶があります。来派と縁のある肥後の延寿国村の出身を、大和千手院弘村の子で来国行の外孫であると文献に記述があることから、もしかすると来国行は初め大和国に居住していて、なんらかの事情で京都に移住したと考えたらどうでしょうか。何れにしても来派の出自については、見識者による今後の研究を待つしかありません。

 来派の出自についてはこの位として、次に彼の作風について説明します。

 刀姿には二通りの造り込みがあって、これを陰陽の造り込みと言います。陽の造り込みは、出題刀のように踏張りあって、反り深く、フクラの枯れた猪首切先(猪首切先にならず小切先、若しくは尋常なものもある)の堂々とした姿のもの。陰の造り込みは細身の小切先で、一つ時代が上がると思える様な優雅で気品の高い姿のものであります。いずれの造り込みの場合でも刀身に「樋」の施された作品が非常に多いことも彼の作風の特徴であることをご承知置き下さい。

 地鉄はやや肌立つ感じで、良く鍛えた板目肌が練れて美しく地沸が豊富で地景が入ります。また地肌の調子が表裏相違し、どこかに心金の出た弱い肌(来地鉄という)が見られ、また国行、二字国俊には棟焼きが見られることも見所のひとつといえます。更に付け加えるならば、来映りといわれる沸映りも併せて鑑定上の決め手なることも忘れてはなりません。この沸映りと備前の映りの相違点については一概に説明しにくいものがありますが鑑定・鑑賞会などで、刀兄や剣友に質問するのも理解を容易にする手段の一つです。                     

 刃文は直刃を基調とした焼き幅広く、直足が多数見えるものと丁子乱れの二様があります。彼の刃文の特徴として、乱れの頭から変化した蕨手の丁子と乱れの足から変化した梢の刃が混じるものがあります。
また、刃中焼頭の上に湯走り状の小さい焼きが転々と続き、あたかも雁が二股に分かれ隊伍を組んで飛んでいるような小乱れのあるものがあり、これを雁股の刃と呼ばれ彼の手癖として上げらています。

 直丁子を焼く場合、丁子が密に重なりあって広直刃に見えるものがあります。刃中の沸はムラになる場合が多く、必ず長い沸足が入ります。この様態の刃文を来一派が得意としたことから世上、来丁子と呼ばれています。加えてこの刃文に砂流しの掛かったもの及び匂口が沈み心で、丁子足がハバキ元方向へ垂れ下がる態(通常の逆足は切先方向へ足が伸びる)のものがあり、俗に京逆足と呼ばれ彼の作品の特徴とされます。
 
 丁子の刃文が流行するのは鎌倉中期の備前物と山城物であり、備前ものは匂出来、山城物は沸出来であることを承知していれば、前述の備前の映りと来の沸映りも理解が容易になるでしょう。

 帽子は直に小丸に返り、横手付近から切先にかけて太い稲妻があることが彼の特徴であり、二字国俊には乱れた帽子が多く二者の判別は帽子を比較することにより判別出来うる場合があります。

 今回、柴田先生の解説中に二字国俊の札について「当」扱いのような表現がされていますが、出題刀は大磨り上げ無銘の極め物ではなく、在銘であること及び出題文は詳細でかなり親切な表現がされ、たとえば茎の説明まであることから二字国俊の入札に対しては「同然」と返答しました。

 恒例の余談ですが、綾小路定利と来国行との関係を書かれたものがあります。それによれば、二人は近隣に住居を構え、注文品の納入が間に合わない時には互いの作品の貸し借りや代作で急場を凌いだと伝えられていますが、綾小路の方が、その作柄から来国行よりも若干時代が上がるもので上記の伝承は誤りであろうと言われています。

 最後に来派の作品の特徴である「棟焼き」及び「沸映り(ただし、染みた刃文に鮮烈な沸映りのあるもの。)」は再刃の条件のひとつとして取り上げられています。
 
 再刃の刀であるか否かの見分け方は非常に難しく、いくつかの特徴があることはご存知であると思います。一つ二つの再刃の条件があるからといって早計に再刃と断定してしまうのは非常に危険です。再刃と判断する場合、いくつかの再刃の条件と照らし合わせて検討し総合的に判断することが肝要です。

 怪しいところで怪しい刀剣を購入予定の方は、再刃の鑑別は重要なスキルです。是非とも余暇を活用して修得して下さい。
 
 では、この辺で失礼させて頂きます。
 次回をお楽しみに。


                          竹  屋  主  人