2011年1月1日 第10回出題「長曽祢乕徹」


 皆さん、明けましておめでとうございます。

 今回は新春に相応しい、新刀の巨匠「長曽祢奥里入道乕徹」の刀でした。有名刀工であるにも係わらず、今回が初お目見えの鑑定刀です。ほとんどの方々が一ノ札で「当」を取っておられ、幸先の良い年の初めとなりました。

 新刀の代表工といえば、東の「長曽祢奥里入道乕徹」、西の「津田越前守助広と井上真改」が上げられます。共通して言えることは三者ともに名工であり、名工であるが故に、彼らの存命中から偽物が多く出回っていたことは周知のとおりであります。

 特に「乕徹」の偽物が最も多いと言われ、いつの時代かは解りませんが、「乕徹を見たら偽物と思え。」という格言さえ生まれています。故神津伯先生の『新刀鍛冶綱領(上巻)』の乕徹の項(備考)には、「此作は十中の八九偽物なり、越前物、江戸物、会津長道、筑前信国などの上出来物多く此作に銘を切り換えられしと云ふ」とあり、また享保年間に刊行された『新刃銘尽』には、「最上の物切にして新身第一の上作、誰か是を指料とせざらんや。然れども世の虎徹と銘あるもの、十が七八は皆似せ物也、正真の虎徹に非ず。」とあります。

 近年の刀剣情報誌で、「助広」や「真改」の売品は良く見かけますが、「乕徹」の売品は大刀剣市のカタログで見かける程度であり、作品は納まるところに納まっている感があります。

 乕徹の出自については諸説があり、江州長曽祢村出身で甲冑師の父親とともに越前に移住、その後、明暦元年頃に出府して甲冑製作の傍ら刀鍛冶の修行をし、後に刀鍛冶を本業にしたというのが定説になっています。
 生没年については、乕徹の作品中一番古いものに明暦二年紀のものがあり、これに有名な「本国越前住人至半百居住、武州之江戸尽鍛冶之工精」銘のものから逆算すると、概ね慶長十年生まれと推測できます。故杉原祥造先生の「長曽祢虎徹の研究」によれば、没年は延宝六年六月二十四日とし、終焉地は東叡山忍岡辺であろうとしています。計算上、享年は七十二歳で当時としては随分と長命であったことも併せて解ります。

 幕藩体制が確立し世の中も平和になり、巷には主家を持たない浪人が溢れ、それに呼応するように甲冑の需要も減少したため、鉄の鍛えでは自信のある乕徹は、江戸に出て刀鍛冶として一旗上げてやろうと思ったのでしょうか。しかしながら鉄の鍛造技術に自信があるとはいえ、鍛刀については素人同然であっただろうと思います。然れば師匠となる刀工がいるわけですが、彼の師匠にも諸説あり、「肥後大掾貞国」、「伊勢大掾綱広」、「越前康継」などが上げられていますが、現在では、「和泉守兼重」が乕徹の事実上の師であるとされています。また、試し切りで有名な山野家との結びつきや、他の江戸刀工との関係などありますが、今回は割愛させて頂きます。
 
 ここで乕徹の略歴について、すこし紹介してみましょう。
1605年:乕徹、越前にて誕生(近江出生説などがある。)
1655年:甲冑師として生業のかたわら、この年に薙髪し古鉄と号したと言われる。
1656年:この頃、刀鍛冶に転業するも兜や篭手などの作品も現存する。古鉄銘や
      奥里銘を用いる。
1658年:乕徹の作品に山野加右衛門永久の戴断金象嵌銘を初見
1660年:この頃から「虎徹」銘を用いる。
1663年:この年あたりから戴断金象嵌銘が多く見られるようになる
1665年:「虎」から「乕」に改銘する、この頃の作品に山野家の戴断銘入りのもの  
      がかなり多くなる。
1668年:「真鍛」の添銘見るとともに、「ハおく」銘の使用を始める。
1671年:東叡山忍岡辺に居住し、「虎入道」銘のものを見る。この時期の作品に傑作が多く残されている。
1678年:乕徹死去
 乕徹が実際に刀鍛冶として活躍したのは、二十年余りだったことが解かります。某テレビ局で、「人生の楽園」という番組がありますが、早期退職し新たに起業することは江戸時代に既にあったとは、乕徹の偉大さを改めて感じるところであります。

 乕徹の作風ですが、もう皆さんご存知のとおりですので、今回はヒントにあります、変り鉄についてお話をします。乕徹の作品には鎺の上部2〜3寸のところに大肌が現れるものが多くあります。これを「テコガネ」と呼ばれるもので特徴の一つのように書かれた書籍もありますが、この所作のない方が上作であることは本物の乕徹を見れば一目瞭然でお解かりになると思います。

 今回は入札者のほとんどが「当」でしたが、圧倒的に「虎徹」銘への入札が多く「乕徹」銘への入札は僅かでした。変換ソフトの設定などで「虎徹」になったのかもしれませんね。

 それでは今回はこの辺で失礼させて頂きます。
 
                            竹   屋   主   人