2011年2月1日 第11回出題「兼氏」


 今回の答えは、「初代兼氏」でした。

 先回に引き続き一の札で「当」を取られた方が多く、入札者諸兄の見識の高さを窺わせる結果となりました。

 初代兼氏は、生年を弘安七年(1284年)、没年を康永三年(1344年)享年六十歳とされ、大和手掻派の出身といわれていますが、これには諸説があり、大和千手院派の出身、同じく千手院行真派出身、金行(正宗十哲の一人とされる金重の子)の娘婿、金行の孫娘の子、大和長包の子、関兼永の子などと古い刀剣書に見えています。また如何なる理由かは解りませんが、これらの古い刀剣書には彼の大和手掻派出身の記述がありません。彼の手掻派出身の記述のある刀剣書はかなり後の時代のものです。

 大和国から美濃国多芸郡志津に移住したのを機に名前を兼氏と改め、志津三郎兼氏と名乗ったといわれています。改名前の包氏の作品を「大和志津」と呼ばれ、また無銘兼氏極めの作品中、大和風の特徴が著しい作品もまた「大和志津」と呼ばれて愛刀家の垂涎とされています。

 しかしこれらに異論を唱える見識者もいて、その方々の意見として「大和志津」とは兼氏同門及びその一門のうち美濃国へ移住せず、大和国に残った鍛冶集団の作品を「大和志津」としています。
二代目包氏は美濃国には移住せず大和国に残留し、観応、延文、康安年紀の作品が残されていますが、これらを含めた刀工達を「大和志津」としているのではないでしょうか。
 なお、同じく無銘兼氏極めの作品中、相州伝の特徴が著しいものを「志津」と極められているのは皆さん周知のとおりであります。

 兼氏は正宗十哲の一人に数えられていますが、正しく正宗弟子説を説いた文献はなく、その作風より正宗(相州伝)の影響を受けているのではと推測の域を出ないのが実情かと思います。正宗と兼氏の関係を示した伝承はいくつかあり、『正宗が旅の途中、関で兼氏と会い、その時に秘伝を授けた。』とか、『旅の途中の正宗に兼氏が弟子入りを懇願し、一緒に鎌倉へ下向し鍛刀技術を修行した。』などと諸説がありますが、詳らかな事は諸先生方の今後の研究成果を待つしかありません。

 作風について、初代兼氏の作品には、大和伝と相州伝の特徴が表れた二通りの作風があることは前述したとおりです。大和伝の作品の刃文は五ノ目主体あるいは直刃調に刃先に抜けるような小足入りのものなどがあり、直刃の中に尖った刃があれば、これを「切りかけ」、丸い刃ならば「節」と古来より兼氏鑑定の押さえどころとなっています。

 相州伝では、正宗の作風に酷似していますが、刃文は湾れ調で不揃いに連続した五ノ目乱れを焼いているもの、地刃の境に二段の五ノ目乱れが見られるものなどがあります。

 無銘「兼氏」を鑑定する際に、帽子が焼き詰めならば「大和志津」、丸く返りのあるものは「志津」と極めているようですが、いずれにしても正宗風でどこかに美濃風があり、加えて大和伝の遺風ともいえる鍛え肌に柾がかるものを「兼氏」としているようです。

 在銘作品の判別として、大振りで角張った銘を初代とし、小銘で「兼」の字に丸みを持つものを二代として区分しているようです。また、大和在住時の「包氏」銘は未見で首肯できるような作品がないと聞いています。

 今回の問題のヒントにもあるように、兼氏在銘の作品は僅小で、享保名物帳にも在銘作品は、中巻の部(百腰)に、「堺志津」、消失の部(八十腰)に、「安宅志津」のわずか二口で、その他の名物は、「稲葉志津」は朱銘で、「戸川志津」、「浮田志津」、「分部志津」、「桑山志津」は無銘で所載されています。

 今回は、正宗十哲の一人とされる志津兼氏(初代兼氏)でした。
既にご承知の方も居られると思いますが、昨年来より「正宗」や「志津」に関する、あまり良くない噂を聞いています。
この際ですので、数少ない在銘兼氏の特徴をしっかりと覚えて頂きたいと思料します。
 
※ 読者の見方
わずかに反りがあるので、南北朝とみて、大和伝と相州伝をあわせたような出来で、在銘が少ないというヒントから、兼氏と思います。(O氏)


 それではこの辺で失礼させて頂きます。


                           竹    屋   主   人