2011年2月28日 第12回出題「実阿」


3月の答えは、左文字(大左)の父とされる「実阿」でした。

 刀剣鑑定はどうもすると、時代や流派を読み違えて頓珍漢な入札をしてしまいがちで、私自身も何度か、「時代違い否」の返答を頂き、そのたびに赤面しております。
刀剣鑑定の答えを導き出すには、思考過程(プロセス)が重要であり、その思考過程は人それぞれに違うと思われますが、他人の考えかたも参考にしながら試行錯誤するのも勉学の一つであります。

さて、蒙古来襲で知られる文永・弘安の役のあと、異国警固に専念すべしと命じた鎌倉幕府は、北九州への兵力増強や物資の備蓄に努め、刀剣類も五ケ伝(美濃国を除く)の本場物が流通し、また山城鍛冶の来系であるとされる延寿派の移住などがあり、あわせて当時流行の相州伝もこの時期に九州に伝わったと思われます。
いずれも九州古作の特徴とされる古調な刀姿で地刃の冴えない洗練味が乏しいものから脱皮して、地方色が感じられない一見本場物と見間違うような作品が生み出されています。特に左文字は、地刃共に冴えた相州伝の作風に転換し大成したことは周知のとおりです。

 実阿は、筑前国博多談議所「西蓮国吉」の子で、「大左文字」の父といわれています。生没年は不明ですが、古剣書によれば七十五歳あるいは七十余歳で没したとあるので、当時としてはかなりの長命であったことが解ります。
「光山押形」所載の短刀の銘文には、「筑前国宇美実阿作」とあり、居住地(鍛刀地)はおそらく銘文の地(福岡県糟屋郡宇美町)ではないかと思われます。福永酔剣翁の日本刀大百科辞典によれば、実阿は宇美八幡宮所属の刀工若しくは社僧であったのだろうと記述されています。良西−入西−西蓮と続き、実阿の年紀作には嘉暦二年、元弘三年、建武二年等がありその活躍時期が特定できますが、いずれも一時代古く感じさせる古典的な作品を残しています。南北朝以前の九州鍛冶は、僧定秀、豊後行平、古波平以来の伝統的技法を墨守しており、特に地鉄は板目が肌立ち流れて部分的に綾杉ごころとなるものがそれであります。

実阿の作風で、太刀は長寸のものが多く、やや身幅の広いものを見受けます。また刀身の反りの深いものが多いといわれています。短刀では、小振りのものと寸の伸びた両様のものがあります。
地鉄は前述のとおり板目肌が流れ、やや肌立ち、地沸や地斑が現れたものがあり、総体的には古波平の作風に近似するような特徴があります。
刃文は直刃が多く古調な小乱れもありますが、刃中の働きは乏しく、少々刃沸がつくものがあり、匂口が明瞭ではなく染みごころの作品も散見されます。
帽子は小丸や大丸があり、茎は刃上がり栗尻で、鑢目は切りと浅い勝手下があり、銘は二字銘が多くその他には三字銘や長銘で年紀を書き下したものがあります。二字銘及び三字銘の場合、多くは目釘穴下に切銘するのを常としています。

今回は、左文字(大左)の父とされる、「実阿」でした。誌上鑑定では、なかなか入札し難い刀工です。一の札で「当」を取られた方には謹んで敬意を表したいと思います。それでは今回はこの辺で失礼します。

竹  屋  主  人


『読者の見方』

 M氏

摺上げて反りが浅くなっていて定寸、鎌倉期の太刀。 柾がかって白けがあるので大和。
ただ、ヒントから大和に該当する刀工をみないので、九州へ。ヒントは左を示すので、その父としては実阿としました。

竹屋談:初心者でも納得の行く鑑定所見、今後も宜しくお願いします。