2010年8月1日 第5回出題「備中守康広」 今回の答えは紀州石堂を代表する名工、備中守康広でした。 ほとんどの参加者が一の札で「当」をとっておられ、皆さんの識見の高さを窺わせる入札結果となりました。 紀州石堂派は、土佐将監為康が、近江から紀州和歌山に移住したのを祖とします。備中守橘康広は、名を富田五郎左衛門、土佐将監為康の次男で、陸奥守為康の弟として紀州で生まれました。 石堂とは、『新刀辨疑』巻五によれば、室町時代の明応頃、近江蒲生郡石堂寺に移住した備前一文字末流の助長に始まり、その末裔の中の紀伊に移った刀工が、紀州石堂派の始まりと言われています。 康広は、元和五年に和歌山藩に抱えられて藩工となり、その後に、兄と共に大坂に移り、大坂石堂派の繁栄に一翼を担いました。 大坂での居住地は、久宝寺町(現在の大阪府八尾市内の一地域で、八尾市の西側にあたります)に居を構えたことが、「難波すゞ め跡追」という書籍(延宝年間より元禄年間にかけて、大阪関係の諸役人や諸商人・職人等の人名や住所、及び大阪に関する種々の地誌的記事を録した案内記)に記述が見えます。 また、「町人受領記」という書籍によれば、明暦三年十月六日「備中大掾」を受領し、その後「備中守」に昇叙していることが解ります。 康広を含めて石堂鍛冶達は、大阪や京都に移住し、紀州石堂の名称は全く見なくなります。故に、紀州石堂と云う鍛冶集団は僅か十年余りで消滅しています。その他の石堂派は移住先の地名を冠して大阪、京、江戸、の石堂の名前で呼ばれていますが、移住の経緯や細かな事情については不明確な部分が多く、謎が多い刀工集団と言えましょう。 弟子筋には、紀州において康廣の門下で修業し、大阪に移って大阪石堂派の一人になった刀鍛冶に、「河内守康永」がおり、康永の門人に、大阪石堂派を代表する名工、「多々良長幸(鑑定倶楽部解説2008年12月参照)」がいます。 また、紀州石堂派で修業し、大阪に移住した花房備前守源祐国や、康広の門人である紀伊国康綱や、江戸に移住した大和守安定などがいます。 次に作柄ですが、御家芸ともいうべき備前伝で、備前福岡一文字(鎌倉時代)を狙った匂い口の柔らかい丁子乱れに映りの立つものと、当時大坂で流行した小沸出来で、沸、匂の深い、濤瀾刃を焼いたもの、また末備前を狙った複式五ノ目乱れもあります。 鍛えは、小板目肌良く詰んだ鍛えに細かな地沸つき、刃文は高低差がつき、華やかに乱れたものが多く、刃縁に小沸よくつき、足・葉入り、淡く映りが立ち、地刃共に明るく冴えたものが特徴です。銘は初期の初銘を「安広」、後に「康広」と改め、「於紀州康広」、「紀伊国当一康広」、「備中守橘康広」と太鏨で太銘に切り、茎裏に菊紋を切ります。康広には二代目がおり、名を惣右衛門、銘は父と同じく備中守を受領して、「備中守橘康広」と切り、茎に菊紋または枝菊紋を切ります。 康広をはじめとする石堂派の刀工達は、いずれも技量が優れており、その作品は磨り上げて本歌に化けさせられそうな刃を焼いた刀を多く目にします。 実際に、大磨り上げ無銘で石堂と見える刀はかなりあると言われ、それらの中には一文字や末備前良工の作品に化けさせられ、現代の鑑定書がついて愛好家や収集家の間を行き来していると聞き及んでいますが如何でしょうか。 今回は新刀備前伝の名工「備中守橘康広」でした。それではこの辺で失礼させて頂きます。次回をお楽しみに。 竹 屋 主 人 |