2010年9月1日 第6回出題「藤四郎吉光」


 今回の答えは、藤四郎(粟田口)吉光でした。

 入札では、ほとんどの方が一の札で「当」を取っておらました。一部の札に同時代の相州物への入札がありましたが、時代と位列は十分に頷ける札と思料します。一本入札ならば準同然というところですが、相州物で「否」ならば京・大和など畿内の刀工へと考えを巡らせることも重要で、いろいろと試行錯誤を繰り返すことが刀剣鑑定の面白さのひとつです。
 
 ご存知のとおり吉光は、天下五剣、日本三作などで著名な京都粟田口の刀工で、通称を藤四郎といいますが、古剣書では左近、または左近充としたものもあります。
古来珍重されてきたため、 織田信長、豊臣秀吉といった、時の権力者の元に蒐集され、本能寺の変、大阪夏の陣で焼け身になったものが多数あります。徳川家康は大阪夏の陣に際し、焼け身や行方不明になった吉光や正宗などの豊臣家ゆかりの名刀を探させました。これら焼身の名刀は後に初代越前康継の手によって焼き直され、その姿を今に残すものが多数あることは皆さん承知のとおりです。

 吉光の焼き直しの代表格としては、享保名物帳所載で、太刀を磨り上げた御物の一期一振(磨上げ額銘)と、大阪夏の陣に際し、堀中から無傷で回収した薙刀直しの名物骨喰藤四郎(ほねばみ とうしろう、脇差)があり、ともに明暦の大火の時に焼け身になり三代越前康継が再刃したものです。
 
 彼の出自ですが、いくつか説がありまして、粟田口国吉の子、または養子とする説、粟田口則国の子、または弟子とする説、粟田口国光の子、または弟子とする説、粟田口国友の弟子説、粟田口国安の弟子説、粟田口国綱の弟子説、新藤五国光の子とする等諸説があり、現在では国吉の養子で門人とするのが妥当のようです。もともと京の生まれではなく、その出身地を越前国と記載した古剣書があると聞きます。越前国志比荘の領主説などがその一例です。
 彼の鍛冶工房は京都府東山区粟田口鍛冶町にある粟田神社付近とされ、粟田口といえば鍛冶屋ばかりではなく陶器の生産地としても有名であり、両者ともその製作工程に粘土や炭を使うことは非常に興味深いところです。
 作品について、太刀の作品は前述の一期一振のみで、短刀の作品が圧倒的に多く、僅かに剣が現存します。故に短刀製作の名手として、備前長船景光とともにその作品は愛刀家垂涎の的でもあります。太刀の作品が少ない理由として、国内の戦もなくなり、比較的平穏な時代が訪れたことにより、太刀の製作依頼も減少し、平常指しの平造り短刀の製作依頼が増加したのではないかと考えられます(吉光などが活躍したこの時代、鎬造り脇差の製作はないというのが通説、鎬造り脇差は室町時代応永以降の産物とされる)。
 短刀の製作が多いことは他国の刀工も同様であり、相州の新藤五国光も太刀より短刀の作品が多く残されています。まさに時代の要求なのでしょうか。
 
 次に吉光の短刀は平造りで平肉がつき、真の棟が多く見られます。師匠国吉と吉光には、寸の割には身幅の広い作品があることも特筆されます。また彫物が多く、護摩箸、梵字、腰樋、素剣などがあり「表裏同一意匠」となることも鑑定の要訣としてご承知おき下さい。地鉄は、梨地肌と呼ばれる小杢目が詰まり地沸が微塵に付き、肌目が目認できないほど細密なものと、肌に沸のからんだ「蜘蛛の糸肌」と呼ばれる二通りの所作があります。また、刀身のフクラと腰の辺りの詰まった肌の中に杢目が目立つものがあります。

 刃文は直刃が主流で乱れ刃は稀で、今回の出題にもあるとおり、ハバキ元の焼き出しに小豆を並べたような小五ノ目を連ねます。ある古剣書には、この小五ノ目の数を七固の乱れがあると記述したものがありますが、実際には七個とは限らないようです。
 小五ノ目の上を直刃に焼き、足などを交えるほか、出入りの少ない焼刃には「楊柳の糸」といって柳の葉を重ねたような「しぼ」風の細い砂流しが垂れ下がったように現れます。フクラの辺りでは、極めて多くの沸が地にこぼれ、これを「沸の喰い下がり」といいます。これが出るものと出ないものとがあるので鑑定の際には注意をして下さい。
 
 帽子は沸で尖ったものと小丸に品よく返るものがあります。沸で尖った帽子を火焔頭といって蝋燭の炎のような感じのもので返りは浅くなります。小丸の場合は返りが深く、刃中の沸より粗いものが付き、先がほつれや乱れ心があるのを特徴としています。銘は二字に切るのを常とし、身幅の広い作品には大銘に、狭いもの小銘に切ります。「吉」の字に特徴があり「大口」、「小口」、「犬口」などに分類されます。「大口」に銘を切る時には帽子の返りを長く、「小口」の時には返りを短く焼き、また「光」の字も「燕口」などと呼ばれる3種の書体があるとの言い伝えがあります。
 
 吉光の作品は、足利将軍家の御物や名物になったものも多く、戦国の世を経て徳川の時代になると享保名物帳なる書物が編纂され、「平野藤四郎」を筆頭に、健全なもの十六振り、焼け身の部に前述の一期一振を筆頭に十八振り、追記が四振り、計三十八振りを掲載しています。享保名物帳の成り立ちは、江戸幕府八代将軍吉宗が武備奨励の一施作として享保四年、本阿弥光忠に古今東西の名刀調査を命じたことによります。本阿弥家には「留帳(関東大震災のおり消失)」という折紙発行の記録台帳があり、他にも「本阿弥空中斎秘伝書」、「本阿弥光心押形」、「光徳刀絵図」など、先祖の残した押形本など多数の資料が残されていたので、その中から健全なもの百六十八振り、消失したもの八十振り、合計二百四十八振りを選出し、各作品に由来等を書き添えて同年十一月に幕府に提出しました。本阿弥家の独断で編纂されたものであることから、記載漏れの名刀もかなりありました。幕末に「鑑刀規範」を著した本阿弥長根は、この名物帳に所載されている刀剣類の由来伝承などを更に詳しく記述し、併せて自己の見聞した事項なども加えて補完しました。現在資料として使用されているものは、この時のものであります。
 
 長くなりましたが、今回はこの辺で失礼させていただきます。次回をお楽しみに。

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